西保堰(にしぶせぎ)の通水
八幡地区は、兄川、弟川の二つの川によって出来上がった扇状地の上に成り立っている。
その為、地下水が低い所を流れているので、昔からこの地域では、井戸を掘って水を得ることは困難なことであった。
その上、弟川は、水源となる沢が狭く、兄川に比べると水量も大分少なかったので、この弟川の水を飲料水や、田畑の潅がい用水に使っていた市川村や八幡北村の人々は、水を確保する手立はないものかと、日夜頭を悩ませていた。
兄川から水を引いたり(大工堰)、雨水などによるため池を作ったりもしたが、干ばつが続く年などは、堰の水も池の水も枯れてしまい、どうしようもない状態であった。
何か手を打たねぱと思案していた市川村や八幡北村の人々は、一つの案を思いついた。
それは野背坂の向こうを流れる鼓川の水を大平山を越えて引いてくることができないかというものだった。
ちょうどその頃、甲斐の国の新田の開墾の状況を視察していた幕府の役人によって、住民の水不足に対する訴えが取り止げられ、一七一七年(今から約二百七十年前)甲斐の国主、柳沢吉里によって、鼓川の水をせき止め、その一部を八幡地区の方へ引く工事が始まった。
工事は、西保中村字八ツ倉という所から険しい山や深い谷を越えなければならなかったので、それを避ける為に、西から東へと山腹に沿って堰を堀り、野背坂の頂上まで水を引き、そこへ石の枡を作り、市川村、八幡北村に四分の三、岩手村に四分の一と、分けて水を便用することになった。
但し、便用する期間は、春の彼岸(三月二十日頃)から秋の彼岸(九月三十日頃)迄と決めた。
この堰の長さは、一里十四町余(約五、五キロ米)で、工事に着工してから完成する迄に四年の歳月を費やしたが、昔の工事は全て手作業だった為、石枡から市川村、八幡北村迄堰を作ることも、それは大変困難な工事だったようである。
途中、大きな石が工事の妨げになったが、当時の道具では砕くことも堀ることも不可能だった為に、やむなく石枡から水を落として、その水が出てくるのを待つという方法をとった。
しかし、水は容易に出てこなかった。
市川村、八幡北村の人々は、水がでてくるように八幡神社にお祈りし、不安な気待ちを鎮めた。
すると願いが天に通じたのか、水は一週問後に籠石という所に出てきた。
市川村、八幡北村の人々は大変喜んで、八幡神社に工事が無事完成したお礼も含めて、石燈籠を二基寄進した。
これには岩手四村の人々も加わったが、今もその燈籠は八幡神社の境内に建てられている。
またこの時の水路代として、市川村、八幡北村、岩手四村の三ケ村は、西保中村、西保下村に三十両を支払った。
このようにして出来た水路は、七十年もの長い間使われてきたが、山林の多くが伐採されたり、開墾されたりして、水路の傷みが激しくなってしまった。
そしてこの修埋に必要な費用は年々増え、西保堰を利用している人々にとってこの支払いはとても負担であった。
また、井戸水も思うように使えない市川村の人々は、日常使用する水にも困り、特に冬期には、飲料水にも不自由する程だったので、どうにかして夏だけでなく一年中通して使える水を確保したいと願っていた。
そこで一八九七年市川村は、八幡北村、岩手西村とともに、西保村、中牧村に要請した結果、一年中水を使用できる権利を得ることが出来た。
いっぽう、これより約一年前一八九六年)には、市川村の有志達の間で堰を作り直す話が持ち上がっており、各地の堰工事を視察したり、県に実地踏査を願い出たり或いは測量技師に実測してもらったりと、いろいろ試みたが適切な水路がなかなか見つからず困っていた。
しかし、決意は変わらず、一九○一年に堰の改修をする為の工事費を県に出してくれるよう要請し、それは却下されたが、一九○二年に要請した測量技師の派遣については、県側が譲歩し、その年の九月に技師が来て実測し、遂に水路の位置が決まった。
そこで再び県に工事費の一部負担を承諸してもらうとともに、県議会の賛成も得て、ようやく工事着工の運びとなった。
この工事には、堰を便う人達も出資し、一九○四年、二月二十六日に着工、この年の六月十五日には完成し、一九日に通水式が行われた。
新水路は、西保村大字西保中字笹より鼓川(西保川)の水を引き入れ、ほとんど旧水路に並行して掘られたが、本線の長さは約二、四キロ米で、途中ずい道(トンネル)を四ケ所設け、野背坂の中腹迄達した水を三ケ村に分水した。
この時の工事費は、総額二万数千円であった。以来この水は絶え間なく流れ続けているが、新水路が出来上がってからも問題がいくつか起きた。
一九二五年には、水の取り入れ日近くの水車が多量に水を便うので水車を移動してもらったり、一九三七年には、大干ぱつの為に中牧村との間に水争いが起きたりした。
また午前と午後の二回「せぎ番」が行なう、水踏の見回りも怠ることはできなかった。
しかし、これらの諸間題もその後の改修工事により解決し、西保堰は、三百八十七戸の農家の約四十七ヘクタールの田畑に灌がい用として用いられるほか、ビニールハウス、果樹栽培、防火用水として利用された。
今は笛吹川から水を引き、灌がい用水に用いられているが、現在でも西保堰の水は、ビニールハウス、防火用水或いは生活用水にと、大変重要な役目を果たしている。