差出の磯の開削
今ではその名前さえ忘れ去られ、振り返る人もない差出の磯は、
その昔、
志ほの山 さし出の磯にすむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく(古今集 読み人知らず)
と歌われた名勝の地であった。
甲府より笛吹川に沿って雁坂峠に通じる十二里二町余り(約五十キロメートル)の道は、武州秩父往還と言われ、通称川浦入りと呼ばれた。
その街道筋にあるこの差出の磯は、富士の眺め、春夏の河原を飛び交う千鳥のさえずりと、それは絵にも描けぬ美しさで、旅人の心を慰めていたにちがいない。
しかし、武田時代につくられたこの道は、万力から塔の山の西の急な坂道を上り下りして、岩手方面に延びていたので、それはそれは人馬にとっての往来は、困難を極めた峠道であった。
そこで、八幡村の人々はもちろん、諏訪・中牧・西保(いずれも今の牧丘町)・岩手・三富の村の衆は、物資の運搬にも不便なこの峠道の交通を、容易にし、旅人の往来をふやし、尚一層差出の磯を名勝地とする為に、突端の断崖を削り取り、平らな道にした方がよいと考えついた。
明治七年十月(今から百十年前)、八幡南村外七ケ村の関係役職員を県に、笛吹川右岸の二百三十間余り(約四百五十メートル)の開削工事を出願し、同八年二月に着工した。
工事に先立ち、世話役として、八幡村から飯島源寛・窪川弥平・川崎五郎衛・上野教義・久保川ゆき之・丸山裡十・丸山久右衛門、岩手村から上野三右衛門の八氏が任命され工事が始められた。
また江曽原村の中沢仁兵衛氏をはじめ多くの人々が東奔西走し、住民を説得し終始工事の進行に尺力されたが、本工事は、八幡・岩手村の直接責任工事とし、この二村では各戸一人の人足を出して工事にあたった。
当時は、現在のように測量技術もなく、開削はすべて人の手という仕事は、並大抵の苦労ではなかった。
しかし、村民の一致協力の奉仕活動にり、明治九年、待ちに待った工事の完成を迎えたのだった。
翌年の九月には亀甲橋も架けられ、やがては、兄川橋際に甲府市のガタ馬車の立場(停留所)もでき、また名実共に近在に「差出の磯」の名勝としての名を広めたのである。
その後、亀甲橋際には亀甲軒という水屋ができ、これは、作家深沢七郎の「笛吹川」の中でも「ギッチョン寵」という名称で紹介された。
差出の磯の風景にすっかりとけ込み、人々に親しまれていたこの水屋も、百年の歴史を刻み、すっかり老朽化した為、惜しまれつつ取り壊されてしまった。
時の流れは、はかなきものとか。
いにしえに、志ほの山 さし出の磯の 秋の月 八千代すむべき 影で見えける(新後選集 埼の月前大納一言雅言卿)
沖つしほ さし出の磯の 浜千鳥 風寒からじ 夜半(よわ)の友呼ぶ(玉葉集 千鳥を詠める権中納言長寸)
と歌われた差出の磯の美しい姿を、もう一度再現したいと思うのは、わたし一人の夢だろうか。