景徳院
山梨県甲州市大和町田野にある「景徳院(けいとくいん)」は、
1582年に武田勝頼一行が自刃したまさにその地に建てられた、武田家終焉の地(菩提寺)です。
1. 景徳院の基本情報
開基(創立者):
徳川家康
宗派:
曹洞宗(山号は天童山)
歴史:
武田氏が滅亡した天正10年(1582年)の3ヶ月後に本能寺の変が勃発し、甲斐国は徳川家康の領地となりました。
家康は武田遺臣の心を掴む(懐柔する)ため、また名門の最期を哀れみ、同年の7月に田野郷一円を寺領として寄進して寺の建立を命じました。
勝頼の法号「景徳院殿頼山勝公大居士」から名付けられ、天正16年(1588年)に壮大な伽藍が完成しました。
2. 境内の主要な見どころ
・史跡山深い自然に囲まれた境内には、武田家最後の瞬間を生々しく伝える史跡が数多く点在しています。
山門(山梨県指定有形文化財)江戸時代に度重なる大火に見舞われ、本堂などの諸堂は一度焼失してしまいましたが、この山門だけは天正16年(創建当時)の姿のまま奇跡的に焼け残りました。
当時の職人の高い技術が窺える、寺院最大の建築的見どころです。
・武田勝頼・信勝・北条夫人の墓(山梨県指定史跡)
境内の南側、「甲将殿(こうしょうでん)」という御霊屋の裏手に、親子三人の墓石が並んでひっそりと佇んでいます。
近年の発掘調査では、それぞれの戒名が刻まれた大量の「経石(お経が書かれた小石)」が出土し、大きなニュースとなりました。
・三人害石(生害石)
勝頼、信勝、北条夫人の三人が、実際にその上で自刃(切腹・自害)したとされる平らな大石です。
・没頭地蔵尊(没頭地蔵)と五十河原の墓
織田軍によって首をはねられた勝頼たちの、胴体だけが葬られたとされる場所に立つお地蔵様です。
また、その近くには勝頼の後を追って殉死した家臣や侍女、総勢50名の生存者(将兵)の墓碑も並んでいます。
・旗竪松(はたたてまつ)
勝頼が、わずか16歳だった息子の信勝に武田家を継承させるため、急遽陣中で元服の儀式(擐甲の礼)を行い、武田家の家宝である「楯無の鎧」を着せたと伝わる大松の跡です(現在は石碑と後代の松があります)。
武田勝頼の最期において、
彼とその家族が残した辞世の句と、
武田家滅亡の決定打となった3人の裏切り者(武将)の詳細を解説します。
1. 天目山に散った美しき辞世の句
勝頼とその一行の最期の様子は軍記物『理慶尼記(りけいにき)』などに記されており、
極限状態の中で詠まれた歌が今に伝わっています。
・武田勝頼(享年37)
「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴れて行衛(ゆくえ)の 西の山の端」
意味:
朧月が雲や霞の向こうにうっすらと見えているが、それもようやく晴れていく。
私の魂が向かう先は、極楽浄土があるという西の山の端だ。
背景:
名門・武田家の重圧(しがみ)を「雲」に、それに翻弄された自分を「朧月」に例え、死によってようやく解放され仏の国へ旅立てるという、悲痛ながらも穏やかな覚悟が込められています。
・北条夫人(桂林院・享年19)「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」
意味:
この黒髪のように乱れきった戦乱の世はどこまでも続いて果てがありません。
私の命(玉の緒)も、夫への尽きない思いを抱いたまま、露のように儚く消えていきます。
背景:
勝頼の若き後妻(北条氏康の娘)です。
勝頼から「実家の北条へ落ち延びよ」と何度も促されましたが、
「夫婦になったのですから冥土までお供します」と拒否し、
一束の黒髪を実家に送り届けて自害しました。
2. 武田家を崩壊させた「3人の裏切り者」
織田信長の巧みな調略(特に高天神城を見捨てざるを得なかった勝頼への不信感を煽る作戦)により、
武田家の一門・重臣がドミノ倒しのように裏切りました。
① 木曽義昌(きそ よしまさ)〜滅亡の引き金を引いた義弟〜
関係:
武田信玄の娘(真龍院)を妻に持つ親族衆。
信濃(長野県)木曽谷の領主。
裏切りの経緯:
重なる軍役負担への不満と、勝頼への不信感から、天正10年(1582年)2月に織田信長へ寝返りました。
これが信長による「甲州征伐(武田狩り)」の直接のきっかけとなりました。
その後:
激怒した勝頼によって、人質として甲府にいた義昌の母や子供たちは処刑されました。
義昌は織田家から旧領を安堵されたものの、本能寺の変の混乱で最終的に家康の配下となり、
先祖代々の木曽谷を追われ下総国(千葉県)へ移封される寂しい晩年を送りました。
② 穴山梅雪(あなやま ばいせつ)〜名跡を狙った最高幹部〜
関係:
信玄の姉の子であり、武田一門の最高筆頭格。
駿河国(静岡県)江尻城主。
裏切りの経緯:
武田の敗色が濃厚になると、徳川家康を通じて密かに織田方に内通。
甲府にいた妻子を夜陰に紛れて脱出させ、2月末に正式に寝返りました。
「武田の名跡(家名)を継がせる」という信長からの甘い誘いがあったとされています。
一門の重鎮である彼の裏切りは、武田家臣団の戦意を完全に喪失させました。
その後:
勝頼の死からわずか3ヶ月後、本能寺の変が発生。
京都から家康と共に領国へ逃げ帰る途中に、一揆の落ち武者狩りに遭って討たれ、
因果応報とも言える最期を遂げました。
③ 小山田信茂(おやまだ のぶしげ)〜勝頼にトドメを刺した重臣〜
関係:
甲斐東部(郡内領・現在の山梨県大月市周辺)を治める有力国衆。
裏切りの経緯:
木曽・穴山の裏切りで追い詰められた勝頼に対し、「我が居城・岩殿城へお越しください。
そこで再起を図りましょう」と新府城からの脱出を提案しました。
しかし、勝頼一行が移動している最中に笹子峠で突如離反し、入城を拒絶。
行き場を失った勝頼は天目山へ追い詰められることになりました。
その後:
織田信忠(信長の嫡男)に降伏を申し出ましたが、
「主君を欺き、天目山へ追い詰めた不忠者」として激しく非難され、武田氏滅亡直後の3月中に処刑されました。