「日川」の由来と土屋惣蔵昌恒の「千人切り」
三日血川の由来武田家最期の激戦:
織田・徳川軍の追撃を受けた武田勝頼の家臣・土屋惣蔵昌恒が、
甲州市勝沼町田野(天目山付近)の渓谷の狭い崖道で奮戦しました。
血で染まった川:
惣蔵に斬られた敵兵の血で下を流れる川が3日間赤く染まり続けたことから、
「三日血川」と呼ばれるようになりました。
名前の変遷: その後、呼び名が「三日川」に短縮され、最終的に現在の「日川(にっかわ・ひかわ)」という河川名になったと伝えられています。
日川の概要流路:
大菩薩嶺を源流とし、甲州市から笛吹市を経て笛吹川へ合流する延長約20キロメートルの河川です。
地理的特徴:
上流には美しい渓谷(竜門峡など)が広がり、下流側には豊かな日川扇状地を形成して、ブドウなどの果樹栽培が盛んな地域を潤しています。
歴史的背景: 周辺には武田勝頼主従の墓所がある景徳院など、
武田氏終焉の歴史を伝える史跡が多く残されています。
土屋惣蔵昌恒(つちや そうぞう まさつね)の「片手千人斬り」は、
武田家滅亡の最終局面において、主君への絶対的な忠義と凄絶な戦いぶりを伝える伝説的な逸話です。
戦いの状況や、なぜこのような異名がついたのかについて詳しく解説します。
「片手千人斬り」の舞台と状況発生の時期:
天正10年(1582年)3月11日、織田信長・徳川家康の連合軍による「甲州征伐」により、
武田家が完全に追い詰められた最期の日です。
場所:
甲斐国田野(現在の山梨県甲州市大和町田野)の日川沿いにある、険しく狭い崖道です。
目的: 離反者が相次ぎ、わずか数十人に減ってしまった武田勝頼一行が自害を覚悟した際、
勝頼が静かに最期(切腹)を迎えるための時間を稼ぐため、
惣蔵は殿(しんがり:最後尾の防衛部隊)を志願しました。
なぜ「片手」で「千人」なのか?
崖から落ちないための「片手」:
惣蔵が陣取ったのは、片側が数丈の崖、もう片側が岩壁という非常に狭い自然の要衝でした。
彼は左手で崖に生い茂る藤蔓(ふじづる)をしっかりと掴んで身体を支え、
右手一本だけで太刀を振るって押し寄せる織田軍を迎え撃ちました。
地の利を活かした「千人斬り」:
狭い一本道であるため、織田軍は大軍であっても一度に1〜2人ずつしか惣蔵に近づけませんでした。
惣蔵は現れる敵兵を次々と斬り伏せては、そのまま足で崖下の日川へと蹴落とし続けました。
この鬼神のごとき奮戦により、敵軍は「伏兵がいるに違いない」と恐れて一時退却したと伝えられています。
逸話のもたらした影響と歴史的実態三日血川の伝説へ:
このとき惣蔵が蹴落とした無数の敵兵の血によって、崖下を流れる川が3日間にわたって赤く染まったことが、
前述の「三日血川(現在の日川)」の由来となりました。
歴史書での記録:
実際に千人を斬ったというのは後世の誇張(伝説)とされていますが、
織田側の公式記録である『信長公記』にも、彼が弓矢で多くの敵を射落とし、
最後は比類なき働きをして壮絶に討ち死にしたことが記載されており、
敵方からも「後代に名を残す名将」と絶賛されました。
子孫への報い:
惣蔵のこの極めて高い忠義は、のちに宿敵であった徳川家康からも深く感銘を受けました。
残された惣蔵の遺児(土屋忠直)は家康に召し抱えられて手厚く保護され、
のちに総領として上総国久留里藩2万石の大名へと出世を果たしています。