江戸時代半ばより瀬戸内の埋立てが行われはじめ、新開地としての発展・陸地化がはじまりました。下記赤線の西国街道沿いにあった「別れの茶屋」では目の前に砂浜や瀬戸内の風景が広がっていたと思われます。 江戸時代前期の地形想定図。黄線は現在の道路、赤線が西国街道、薄い青領域は瀬戸内海、薄い赤領域は広島城築城時には海岸線や陸になっていた場所です。江戸時代には現在のJR西広島駅前あたりが埋め立てられ才崎新開の地名がつけられました。その後も明治・大正・昭和と埋立整備がすすみ、都度新開の地名がつけられ拡大していきました。凡例: 地図 GoogleEarth2014年版、西国街道 中川正氏・西国街道を行く2006年版、海岸線 広島の新開地発展図。A01 天満町・天満宮、A02 黒龍山、A03 源左衛門橋、A04 別れの茶屋、A05 高須一里塚跡、A06 上田宗箇流宗家、A07 新宮神社、A08 海蔵寺、A09 小泉酒造、A10 井口・小己斐明神 太田川上流から流れ込む白砂は江戸時代以前からも多大であったようです。歴史書を紐解くと12世紀中ごろには三角州の下限が現在の祇園や長束あたりで、この場所に年貢米など舟運による荷物移送のための集荷場や蔵があったそうです。その後も三角州は自然に大きくなり江戸時代には現在の平和大通りまで堆積していきました。江戸時代中期以降は人力による埋立が行われ、時の経過とともに下図のように陸地化が行われ広がって今の姿になりました。 才崎新開(己斐) 江戸 天保新開(己斐) 江戸戸島新開(己斐) 江戸山崎新開(己斐) 江戸福島新開 江戸(1753頃)観音新開 江戸(1753頃)観音沖新開 江戸(1753頃)舟入新開 江戸(1753頃)井口新開 江戸(1850頃)庚午新開 明治(1870頃)小己斐島 明治(1871頃)昭和新開 昭和(1929頃)商工センター 昭和(1982竣工)それにしても凄まじい程の地形の変化に驚くばかりです。