1200年頃の瀬戸内は三角州もそれほど広くはなく広島湾沿いの道も整備されていなかったようです。そのため東西を結ぶ主要道である山陽道は、武田山や大茶臼山を迂回し外周を取り囲むような道で、伴を経由していました。16km毎に人馬を整備し駅館が下記のように配置されていました。現在の安芸郡府中町-安佐南区伴-佐伯区利松-廿日市市下平良-廿日市市大野町高畑を通過する道がこれにあたります。 S01 大山峠 安芸区上瀬野大山S02 荒山 安芸区中野東S03 安芸 安芸郡府中町城ケ丘S04 伴部 広島市安佐南区伴S05 大町 広島市佐伯区利松S06 種箆 廿日市市下平良 ※種箆はヘラ。S07 濃唹 廿日市市大野町高畑 ※濃唹はオオノ。S08 遠管 大竹市小方 毛利輝元が1591年に広島城を築城。その後藩主が福島正則や浅野長晟になってから三角州の干拓や堤の整備を行うとともに海沿いの西国街道を整備しました。これが赤破線に示される西国街道で現在の広島市安芸区船越-尾長-銀山町-本通り商店街-天満町-己斐-井口-五日市-廿日市市下平良を通る道となります。その前後の道は山陽道の大部分が流用され西国街道と呼ばれています。現在も広島市内で最も大きな商店街が形成され繁華街である「本通り」が当時の西国街道であった訳で420年前の賑わいが今にも聞こえてきそうです。