「くろさわものがたり」 (Ⅰ、Ⅱ ) 黒澤張三
「くろさわものがたり」 (Ⅰ、Ⅱ ) 黒澤張三
「くろさわものがたり」黒澤張三著は、未完成の草稿集です。
ここに掲載するものは、2000年頃、張三叔父(1912-2013)が私オサムに送って下さったヴァージョンを成るべく正確に再現したものです。それなりに選択され、纏められ編集されていると考えるからです。
本ヴァージョンの 目次 は以下の通りです。
黒澤家の家系 (過去帳による) 1990 1
日本橋大門通り 1990 1 24
黒 澤 貞 次 郎 1989 10
何故「かな文字」か 猫が鼠を噛む 1989・8
うかつにYESと言うな 床屋での失敗話 1989・8 ・28
初めての日本字タイプライター ひらがな・縦書 1989・7
黒澤商店の創業 京橋・弥左衛門町の店舖 1989・8
築地明石町へ移住
日露戦争と一台のタイプライター 文福 茶釜 1989 10
くろさわ創業の精神 社会への奉仕と信頼 1990・8
銀座黒澤ビルの建設
日本最初の鉄筋コンクリート事務所ビル 1990・7
蒲田工場の建設 ユートピア「吾等が村」の建設 1989・8
電信用タイプライター カタカナ・キーボード 1989・8
電信一家・三代記・広島家 電文通信美し 1989・8
国産和文印刷電信機の開発 1989・8
タイプライター以外の取扱品 Ⅰ
ライノタイプ.バロース.
タイプライター以外の取扱品 Ⅱ
IBM
タイプライター以外の取扱品 Ⅲ
番号機、孔明機、木工製品 印刷、製本商品 1990・ 5
工場付属設備
水道 幼稚園 小学校 1990・7
関東大震災火災
御園の住宅
かるた会 園遊会 1990・6
工場の再建と第2次世界大戦
国産印刷電信機の生産 1989 8
接収解除後の黒沢ビル復旧作業
黒澤貞次郎の死去と葬儀
くろさわ物語 後書き 1990・8
「クロサワ」を支えてきた人々
黒澤貞次郎の時代 (親族を除く) 1990・7
「吾等が村」のその後 1998.1
何故 銀座 か 銀座魂 1990・8
黒澤家の家系 (過去帳による)
初代元十左衛門は元禄10年( 1697 )没、享年85才。戒名 貞阿安心信士2代目より紋左衛門と改名。正徳5年(1715 ) 没、享年81才。3代 6代省略。代々長寿のようである。家業は詳かでない。
7代目紋左衛門は常州笠間荒町、松澤太兵衛の弟で養子として、黒澤家に入った。 慶応2年(1866 ) 没、享年74才。その妻は東茨城郡阿波山村、山崎氏の2女で明治5年(1872)没、享年83才。
従って、6代目には血続の子孫がいなかったと推定される。
その息子善兵衛(弟)は慶応の頃、常州水戸市旧下金町1丁目から、東京、深川偖町に移住した。深川、亀沢家の2女とめと結婚娘トク(明治元年生れ
後、鈴木増太郎に嫁す、本所区緑町2に住す)が生まれる。その後間もなく
善兵衛は明治3年(1870)没、享年31才。
兄の慶助は弟と相い前後して東京に出て、日本橋大門通りに移住した。
慶助は弟善兵衛の死後、その妻とめと結婚。明治8年貞次郎を生む。
更に娘よし( 後、服部家に嫁す) 、タカを生む。明治15年(1882)タカ、とめ相前後して没、タカは享年6才。とめは享年39才。それから間もなく慶助は深川偖町に移住した。明治45年(1912)没、享年76才。
貞次郎は明治35 年(1902)4月5日竹中きくと結婚。三男四女(敬一、ゆ
き、英二、すみ、なか、張三、あき)を設うく。昭和28年1月26日没、享年
78才。 葬儀は昭和28年 2月 2日に銀座本社にて行われた。
きくは竹中善次、まさの次女。明治10年(1877)10月20日生まれ。昭和38年12月23日没、享年87才。きくの姉いとは穂積太郎(元横浜正金銀行副頭取)に嫁す。
住所 京橋区弥左衞門町1丁目 京橋区築地明石町31 蒲田区御園366
太田区嶺町。
過去帳は昭和15年張三写書のもの。本書は空襲により焼失。
黒澤 張三 記 1990 1
日本橋大門通り
東京江戸博物館所蔵「江戸図正方鑑」元禄6年(1693)によれば、「大門通り」は今の水天宮通りに沿って、一つ外側、岩本町から小伝馬町、大伝馬町を経て、富沢町と堀留町の間を通り、人形町蛎殻町までを言う。現在、この通りに「大門通り」の標識が四基程が建てられている。また地下鉄人形町駅の駅付近案内地図にも「大門通り」が記されている。
祖父慶助は慶応か明治の極く初め、水戸市旧下金町一丁目から江戸日本橋大門通りに移住した。父は蛎殻町と言うと特別の注意をしていたし、過去帳の中に箱崎町の文字も見られるから、大門通りの内でもこの蛎殻町のあたりに居を構えたものと思われる。今の箱崎のシテイ・エア・ターミナル蛎殻町公園、ローヤルホテルの近くと推定される。ここならば、その後小僧奉公をした日本橋室町、或いは本町に近いし、この通りの堀留町を右折すれば両国に出る、橋を渡れば、直ぐ近くに黒澤家の墓地があったところである。
明治十五年祖母とめの死去後、慶助は間もなく日本橋より深川区楮町に移住している。これも今の清洲橋を渡れば直ぐ深川である。
祖母とめは深川区楮町、亀沢氏の二女である。明治十五年没。
慶助は明治四十五年七月深川で他界した。享年七十六才。
黒澤 張三 記 1990 1 24
黒 澤 貞 次 郎
黒澤貞次郎は明治8年(1875)1月5日東京日本橋で生まれた。父は慶助、母とめ、先祖は水戸或いは常州笠間在住とされているが、慶応の頃東京日本橋区大門通りに移住した。慶助はその後深川区に移住し、明治45年7月他界した。
年少の頃に家業の逆境に会い、日本橋の薬問屋で働きながらの勉学を続け、これが独立発奮の志の基礎となった。この間の苦労話はあまり多く語り継がれてはいない。自分自身の口から出す時は、愚痴っぽい無駄話は大嫌いで、いつもは適当なユーモラスを交えての幾つかの話に限られていた。例えば「猫が鼠を噛む」「薬問屋小僧奉公」「独学学習」「米国酒場での食事」「床屋での失敗話」等である。
明治26年19才の時、志を得て渡米し、数年をシアトルにて過ごし、米国横断鉄道三線が開通、競って宣伝の機会にニユーヨークに渡り、エリオット・ハッチ商会(タイプライター工場)に就職の奇遇に恵まれた。
明治27、28年は祖国日本は日清戦争の渦中に巻き込まれた重大な時期であった。苦しい生活資金の中から僅かながら戦勝祈願の献金を贈ったとも言われる。ニユーヨークに移ったのは日清戦争も終わった明治30年(1897)のことである。
エリオット社に在職中は極めて実直に勤務し、上司に認められ大きな信用を得た。1899年には同社の了解を得て「ひらがな」タイプライターの試作に成功した。
明治34年(1901)5月、10台程のタイプライターを土産として帰国、直ちに京橋区弥左衞門町(銀座4、2)に店舗を構え、黒澤商店を創業し、日本で最初のタイプライター商として発足した。
時は定かでないが明治34年6月28日と言われている。
黒澤 張三 記 1989 10
何故「かな文字」か 猫が鼠を噛む
黒澤貞次郎は小学生の時、先生から黒板に「猫が鼠を噛む」と書くよう指示されたが、正確に書けず、恥ずかしい思いをした。何故このように難しい文字を習わねばならぬのか疑問を抱き、かな文字への関心を高めた。
英語ならばアルフアベツト26文字だけで済む。このような方法で勉強を進めたいと念願した。19才のとき渡米の機会を捕らえた。やがてタイプライターの工場に就職すると、かな文字タイプの創造に意欲を燃やしたと言われている。私は、この話は確かに父の口から聞いている。
然し通常は「猫が鼠を噛む」とは言わない、「猫が鼠を捕る」である。猫は前足で鼠を捕らえる、殺した後は口でくわえてもち去る、飼い主からご褒美に、別により美味しい物を貰えるからである。「噛む」なら、むしろ鼠が猫を噛む、「窮鼠猫を噛む」ではなかろうかとも考えられる。
どうも父の面白半分の作り話ではなかろうかと推理される。これは家族等が集まった極く内輪の時だけの話で、公式の席では別の話を用意していた。
19才のとき渡米すると間もなく日清戦争が始まった。遠く故国の重大時期に思いを馳せ、清国に対する敵愾心は転じて、その国の漢字にまで及ぼし、当時はタイプライターが創作時代から実用時代に漸く入った時で、米国の子供達が文字の易しい為に如何にもたやすく、小学教育を受けつつあるかを目撃して我が国でも漢字を廃して、かな文字を採用したならばと強く感じたのがタイプライター事業に従事する動機であったと語つていた。
黒澤貞次郎 口伝
黒澤貞次郎講演・タイプライターの沿革 1927・5
講演・東京工場協会 1935・9
黒澤張三 記1989・8
うかつにYESと言うな 床屋での失敗話
米国に上陸して間もなく頃、まだ語学の知識も極く限られていた。床屋で使う特別な用語等全然知らなかった。けれども頭髪が伸びて刈込みをしなければならなかった。安そうな床屋を探し、窓ガラスに「刈込25セント」と書かれている店を見つけた。自分の懐の中のお金と相談して、この支出を決めた。
床屋に入って、「ヘアカット・プリーズ」といった。「オールライ・シッダウン」と床屋の主人は私を歓迎して椅子を勧めてくれた。直ぐ刈込の作業が始まった。その作業が大分進行した頃、床屋は何やら一言いった。
問うた意味が良くわからなかったが、「イエス」と答えた。すると床屋は蝋燭の心の長いようなものに火をつけて、私の髪の一部を焼いたようだ。
然しこの奇妙な作業も無事済んだ。また何やら一言いった。「イエス」と答えた。今度は顔剃りが始まつた。これは日本でも当たり前の作業であり安心した。これが終わると、また一言問い掛けられた。今度も「イエス」と答えた。床屋は棚から薬壜をとり頭にふりかけ、洗髪をする、終わると油や香水をふりかけて、漸く作業は終わった。
私は礼を言って、財布から25セントを出すと、床屋の主人は違うと言う、1ドル25セントだと主張する。私は窓に「刈込25セント」と買いてあると主張した。彼は刈込の外に色々の作業をした、その代金を請求するのだと主張した。それで止むなくその代金の支払いをした。
これに懲りて、それからは床屋に行く前に自分で顔を剃り、床屋が終ってから自室に戻り洗髪をしたと言う。
人に何か問われて「イエス」か「ノー」を答える前に、問いの意味を良く理解納得することが大切である。決して迂闊に返事をしてはならないと我々を諭した。
黒澤貞次郎 口伝
黒澤張三 記 1989・8 ・28
初めての日本字タイプライター
ひらがな・縦書
初めての和文タイプライターが黒澤貞次郎の考案により生まれたのは明治32年(1899)米国ニユーヨーク市エリオット・ハッチ会社に在職中の時のことである。
「アルフアベット」大小文字数と「いろは」の文字数は、略同数であり、欧文を和文に変えるには、単に活字を置き換えることで済む。
しかし当時は日本文を横書にする慣習はなかっ た。縦書きの要求を満足させなければならなかっ た。今では誰もが当たり前のことと思うが、活字を90度横に向けると共に用紙を横に寝かせてることで、縦書きを可能にした着想は高く評価される。今もワープロに使われる技術である。
明治32年9月3日付の時事新報にこれが紹介された。
米国紐育のエリオット・ハッチ商会にては此度日本字のタイプライターを新造したる由にて、試みにその器械にて時事新報の雑報南三項を刷出したるものを附し書面を以て我社にこれを披露し来たれり即ち左に同大にて複写するものその試刷の一なり一号三百五十円、二号二百円、三号百円にして、一、二号の用字は五号活字と同大、三号は六号活字と同大なりという日本がローマ字を採用するにあらざる限り到底充分にはこの器械の便益をうくることあたわざるべしといえども手紙類はしばらくおき主として数字よりなる銀行会社の書類等は左の如く仮名文字にて自ら相当の用を弁ずべし、とにかくローマ字に於けるタイプライターの便利は既に明白なるところなれば、今此便利の日本字に適用されたるは最も喜ぶべきことなり。
明治32年 9月 3日時事新報
黒澤張三 1989・7
黒澤商店の創業 京橋・弥左衛門町の店舖
黒澤貞次郎は明治34年(1901)5月米国より数台のタイプライターを土産として帰国した。直ちに営業所開設に取り掛かり、京橋区弥左衛門町(今の銀座4 、2、並木通り、弥生ビル、バレンチノ店)間口2間、奥行5間の貸店舖を見出した。家賃28円の他に当時の習慣として敷金として3ケ月分と雑作の支払いを要求された。家賃は良いとして、敷金・雑作の支払いは納得いかぬとして家主と交渉し、家賃の滞納等はしない、畳障子等の雑作もいらぬの条件で、家賃のみの支払いで入居を同意させた。
机代わりに空箱等をならべ、取り敢えずの形をとどのえた。一隅には小さな卓上旋盤が用意された。これは万一部品の補給が必要の時に自作してでも間に合わせる為で、迅速な保守サービスを第一とした黒澤精神の始まりである。この卓上旋盤は当社の宝として今なお大切に保存されている。
従業員一人がいるわけではないが、黒澤商店の創業である。
当時のタイプライターはまだ充分な実用には今一歩の点があったがこの販売に懸命の努力が払われた。明治35年4月21日、縁ありて竹中きくと結婚する。翌明治36年9月長男敬一誕生する。明治38年住居を築地明石町31に移す。
日露戦争の勝利によりにより日本の地位は一層国際的となり、国際通信に使用される英文タイプライターの需要も逐年増加し、機械自体も充分に実用に耐えるものになり、営業成績も順調に推移した。
明治39年銀座尾張町の今井商店(毛織物・室内装飾業)が破産の悲境に会い、その債権者会議に出た碌々商店の野田正一氏はその地所・家屋の処分について碌々商店で買い取つてはとのことであったが、工作機械屋には銀座の表通りは必要がないとして、親友の黒澤なら好適として話を持ち込むでくれた結果が現在地(銀座6 9 2)取得のいわれである。
明治39年3月長女ゆき、明治41年1月次男英二誕生す。
栗原俊穂著・愛の黒澤工場と黒澤貞次郎
黒澤張三 記 1989・8
彌左衛門町の店舗
彌左衛門町の店舗の位置は平田勇美堂発行「東京市京橋区銀座付近戸別一覧図」明治35年6月30日戸別調査済により確認が出来ているが、どのような家か写真等が残されていない。
味の素㈱社史1P24 に鈴木三郎助は明治34年(1901)5月京橋区彌左衛門町11番地に東京出張所を設けた、出張所といつても事務所兼住宅であったと記されている。この位置も前記地図に鈴木三郎助名にて明記されている。社史には2階建屋の写真が記載されている。
また電通社史によれば、光永星郎は明治34年7月1日「日本広告株式会社」を創立し、事務所は京橋区彌左衛門町に間口2間奥行3間上下合わせて12坪の2階屋を家賃25円で借りたとし、その家屋の写真も記載されている。味の素㈱の東京出張所とほぼ同様のものである。
貞次郎の借りた家も間口2間奥行5間 家賃28円とのことであるので、これにより当時の彌左衛門町の町並みが想像出来る。
築地明石町へ移住
彌左衛門町は住宅兼用事務所であり、業務も日露戦争の終結で安定に向い手狭になったので、明治38年に住居を築地明石町31に移した。今の聖路加病院の少し先、明石小学校の区画から一つ海よりの区画で、焦げ茶色のライオンズ・マンシヨンの隣(空き地で駐車場)の場所と地図で判明している。元居留地で数年前に開放された。このあたり、新しい文化の発生地として数々の史跡が残されて居り当時のいきふきが今なお感じられる。深水の美人画「明石町」でもその名が一層広められた。
39年長女ゆき、41年次男英二、42年次女すみ、44年三女なか、45年三男張三が誕生している。
この間、貞次郎は明治41年(1908)4月、5月に再度渡米、L.C.Smith 社との交渉の為もあり、穂積太郎( 夫人いとはきくの姉) が横浜正金銀行桑港支店長であり、その2年前桑港の大地震災害のあったための視察も兼ねての旅行をしている。5月4日桑港よりシカゴに向かうの葉書が残されている。
日露戦争と一台のタイプライター 文福 茶釜
社友黒澤貞次郎氏がL.C.SMITH会社の製品を東洋に販売するの大任を帯びて、米国より帰朝せられたのは日露の風雲が急ならむとする正に二、三年前であった。氏は直ちにタイプライターの普及に全力を傾けやうとせられたが当時の日本では、まだタイプライターを使用するの賢商なく、外務省とても能筆の筆生を多数使用しているから印字機の要などは毛頭無いとて相手にせず、漸く石井なる外務省の一局長が私費を以て試みに求めた位で、今日にして之を思へば実に嘘の様な話であった。
時移り変り往年の一局長石井氏は功成り、子爵石井菊次郎閣下として霞が関に日本外交を双肩に負ったが一日黒澤氏と対し往年をかへりみて、あの時の一台のタイプライターが如何に日露戦争中外交の秘密を保つに役立ったかを語り感慨深いものがあったと云ふ。従来外務省では重要草案を一々筆生に清書せしむるうちに秘密の漏洩があったが、石井氏は自らタイプライターを以て印字し筆生の手を要せなかった為め国策の秘密事もなく、黒澤氏の売った一台のタイプライター能く、日本を大勝せしむるの一因をなしたと。
因みに社友黒澤貞次郎氏(タイプライター事務用機械器具商)は若くして新島先生の同志社大学設立趣意書を読み大に感激し同志社に学ぶ志を持たれたが事情あり同志社には来らず渡米せられた。渡米後も新島先生に対する尊崇の情は化して同志社に対する同情となり当時在米中の同志社校友にして氏の厚意を受けるものは多数に上り、以後引続き同志社及校友会には深大なる同情を寄せられつつある。
尚ほ氏が経営の東京蒲田に於ける黒澤商店工場は水道、公園、農園、幼稚園、小学校 従業員住宅其他各種工場設備の理想的なる事により余りにも世に有名である。
同志社大学・学内報より(昭和五年頃と推定)
訂正事項 L.C.Smith 社はエリオツト・ハッチ社の誤り
石井菊次郎・当時は外務省電信課長・後に外務大臣
黒澤張三 注記 1989 10
くろさわ創業の精神 社会への奉仕と信頼
黒澤貞次郎は明治34年(1901) 5月、米国より帰国、京橋区弥左衞門町にて黒澤商店を創業、タイプライターを我が国に初めて紹介をし、事務機商として発足した。
そこは住所でもあり、事務所でもある、机代わりに機械の空箱をならべて体裁を整えたと言われている。従業員がいるわけでもなし、総てを一人で賄っての開店である。何時の日が開店日とも決めかねるようである。五月とも言い、或る記録には六月二十八日とも言う。黒沢の決算日は以前は6月~ 11月、12月 ~5月と決められていた。
当時では、まだ新しい言葉として、事務の省力化、能率化を提案し、新しい
事務機の紹介に努力が払われた。
この店が事務組織の材料を取り扱った動機は、これに依って儲けると云うよりは、寧ろ人間の執務能力に限りがあり、これを補うには機械力に依らねばならぬ、機械を用いるならばその最善のものを使わねばならぬ。自らその供給者となり、社会に尽くさんとの決意に基ずいたものである。
商人は帰着するところ、社会奉仕の第一線に立っている人であり、自分の取り扱う商品に一つの理想と信念を持つて終始せねばならないのである。
人から貴方の店の標語は何かと問われて、Everything best in office applianceこれを訳して「事務用具の最善のものは何でも」と答えている。今の新しい言葉で言えば、「本物志向」とでも言うのかもしれない。
営業は客から注文を受け、物を納品し、その代価を受け取る。それで完結するわけではない。その品物が客の要求する機能を満たし、所定の期間の保証がされて初めて完結されるのである。売った商品に対して、飽くまでも責任を持つこと、そこには嘘、偽り、いささかのトリックも無いことが信頼を得る基盤なのである。
信頼を得るには一朝一夕に出来るものではない、長い年月の積み重ねの成果によつてのみ得られる。それに反し、信頼を失うことは一瞬にして起きるのである。心すべきである。
創業に当たり、机はたとえ空箱で代用しても、客への保守サービスの完璧を期して小型旋盤の一台が第一番に備えつけられたと言う。
この旋盤は今猶当社の創業の精神を伝える宝として保存されている。
黒澤 張三 記 1990・8
銀座黒澤ビルの建設
日本最初の鉄筋コンクリート事務所ビル
銀座表通りに土地を取得した黒澤貞次郎は取り敢えず、それに隣接の地に店舗を移した。明治41年4月 6月に再度渡米しサンフランシスコ、シカゴ、NYを訪れている。この時黒澤ビルの構想を固めたものと思われる。(サンフランシスコの大地震(1906)、それから2年後の訪問で地震に強い関心をもった)明治42年10月18日(1909)黒澤ビルの起工式が行われた。旧家屋立ち退きの関係もあり、敷地面積98坪、鉄筋コンクリート3階建てビルの工事は3期に分けて行われた。第1期工事を明治43年12月28日完成させている。第2期工事は明治44年3月31日開始し同年10月31日完成。第3期工事(銀座通り側)は明治45年2月起工大正元年12月完成した。この間に二女すみ、三女なか、三男張三誕生。
基礎工事は特に念が入れられ、当時払い下げになった外濠り線の軌条を縦横に配し、セメントは微粒セメント、砂利、砂等の配合にも正確を期して工事が進められた。
防火の為、窓には総て英国ピルキントン社製の網入りガラスが使われた。この建物は黒澤貞次郎自身の設計、施工であり、日本最初の鉄筋コンクリート・事務所ビルの栄誉を持つと共に、その容姿の端麗さに、銀座を行き交う人々に永く親しまれた。
大正12年(1923) の大震災により、地震による被害は免れたが、窓の一つが開けられていた為、近隣の人々の避難に際し残した家財に火が入り、内部は焼失した。
窓ガラス( 網入り) の取り替えと内装工事で復旧工事を終えた。
世界第二次大戦の空襲による被害は幸い免れた。ひび割れした網入ガラスの取り替えのみで修復したが、それ故に米国赤十字社の使用の為に、昭和21年1 月調達局により接収された。
接収期間中、外側は白ペンキで塗られ、外部に避難用階段の設置等の改造が行われた。
昭和27年(1952)接収解除されたが、元の姿に修復するのに半年余の期間を要した。
貞次郎は我子が帰るような安堵の思いがしたのであろう。その姿を見届けかのようにしてから昭和28年1月その生涯を閉じた。
黒澤 張三 記 1990・7
蒲田工場の建設
ユートピア「吾等が村」の建設
明治45年(1912)銀座黒澤ビルの建設を終えると、将来事務機の国産化に備えて、工場用地の取得準備にかかった。その地を大正2年東京近郊蒲田村、矢口村に選定した。東海道線列車の蒲田停車が実現したからである。
先ず、大正4年(1915)築地明石町の自宅を蒲田村字御園に移設させ活動の根拠とした。
大正6年までには、工場用地として、蒲田村(大字新宿)、矢口村(大字原志茂田、大字道塚)に2万余坪の買収を完了し、大正7年2月より工場、社員住宅の建設にかかった。そこには在米中に見聞した企業都市をモデルにした、工場村(カンパニー・ビィレジ)の夢が描かれていた。
幼稚園(2年保育)(大正9年開園)、水道設備(矢口原村水源)(大正12年完成)、小学校(1学級定員20名)(昭和6年開校)、その他厚生福利設備として、公衆浴場、家庭菜園、児童公園が設けられていた。
大正10年には第1期工事として、630坪の平屋建鉄筋コンクリート造の工場と、社宅が完成し、創業20年記念として機関紙「吾達が村」が発行された。
その当時には近くに、省線京浜間電化のため矢口発電所(大正4年)も開設され、新潟鉄工所、松竹キネマ撮影所、大倉陶園等が操業を始めた時期である。池上電車も蒲田・池上間が開通し、漸く近代化の姿を整えはじめた。蒲田は村から町えと町政施行され、数年後れて矢口もこれに続いた。 この工場生産は漸く軌道に乗り始めた電信用和文タイプライターの生産であり、木工製品としてセクシヨナル・キヤビネット、事務用の印刷製本業務であった。従業員数凡そ100名を数え、「吾達が村」の人口500名を数えた。
第2期工事として鉄筋コンクリート2階建事務棟1棟(完成)及び小学校2階建2棟を建設中、たまたま大正12年9月関東大震災に会い、工場は全壊の被害をうけた。
建屋の大被害に比べ、従業員は1名の死亡事故、負傷者数名で済ますことが出来たのは不幸中の幸いであった。
東京府荏原郡蒲田村字新宿 = 東京都太田区蒲田3丁目
黒澤張三 記 1989・8
電信用タイプライター カタカナ・キーボード
電信の我が国渡来は安政元年(1854)に米国ペルリ提督の「黒船」により徳川将軍への土産としてもたらされた。モールス符号電信機である。
政府による現業開始は明治3年(1870)9月東京 横浜間で始まった。(後この日を新暦に直し10月23日通信記念日とした。)明治5年には東京 京都 大阪 神戸 長崎へ回線が伸びた。当時着信した電文は墨と筆にて書かれて送達された。明治15年頃にはカーボン紙と鉄筆による方式に改められた。如何に鮮明にわかりやすく書き留めるかが電信業務の大きな課題の一つであった。
大正6年(1917)6月21日は我が国電信界と「クロサワ」にとって永く記念すべき日の一つである。この日大阪中央電信局に於いて和文タイプライターが2台現業受信に初めて用いられた。当時の局長は秋山宇喜太氏、通信課長は広島庄太郎氏であった。
これより先、大正3年(1914)大阪中央電信局では、欧文着信電報の翻写に欧文タイプライターの使用が実施されていた。この利用を更に和文電報にも及ぼすことが利便と考えた同局は、大正5年(1916〕春、電信用和文タイプライターの試作を黒澤貞次郎に依頼した。彼は広島通信課長の指導を受けながら鋭意この作業を進め、1年後これを完成させた。
器械は当時既に欧文電報受信用に使われていたL.C.Smith 社製のものを基準にすることが指定された。
キーボード配列は同局で1838通の電報この字数98450字を調査し定められたのが、その後長く使われた逓信省キーボードである。
その後大正13年には大阪局全回線タイプ受信化(300台)され、その好成績は他局への全面採用となった。当初は輸入機の一部の改造で納入され、これを「和文スミス」と称した。その後、純国産化された機会にこれを「アヅマタイプ」AZMATYPEと命名された。東京で造られたAからZまで打てるマシンの意である。昭和8年のことである。蒲田工場は昭和12年凡そ月産80台の規模のもので、以後主力は印刷電信機に代わっ た。
黒澤貞次郎は、この功績により昭和3年11月緑綬褒賞を授けられた。
黒澤貞次郎著・タイプライターの沿革 (昭和 2年)
村上 清 著・モールス・クラブ・ニユース(昭和39年)
広島庄太郎談・電信70年座談会記録・アヅマタイプカタログ
黒澤 張三 記 1989・8
電信一家・三代記・広島家 電文通信美し
昭和45年8月12日付 日本経済新聞に広島通氏の電信一家三代記が載せられた。
今では当たり前のことながら、先人達が電報の文字を美しく書き留めることで如何に苦労したかが伺い知れる。
このような立派な執念をもった方とパートナーを組むで開発の仕事に従事できた黒澤貞次郎は幸せであった。
電信用タイプライターはやがてテレタイプに変わり、機械式は電子式に、さらに光技術に発展する。
モールス符号の音響受信ではせいぜい1分間80字程度であり、1950年ごろのテレタイプは1分間300字、機械式の端末機では600字が限度であった。今電子の時代となり、さらに光の利用で速度は秒単位で数える時代である。
しかし如何に早さの時代でも、文字の美しさは最優先されている。
日本経済新聞・昭和45年8月12日
黒澤張三 記 1989・8
国産和文印刷電信機の開発
通信業務に於いて間違えを防ぎ、能率を高める為に自動化は必然の要求であった。
大正12年(1923)関東大震災の壊滅的被害の復旧の為、この自動化が取り上げられた。文字に関係のない電話は、直ちに外国技術を導入し、自動ダイヤル化が進められたが、文字のハンデを負う電信は遅れをとらざるをえなかった。
当時海外ではテレタイプによる電信の自動化が進んでいた。英文字は5単位の符号の組み合わせで済むが、かな文字は6単位の符号の組み合わせが必要であった。逓信省は米国クラインシュミツト社に試作をさせ、数台の試用をしたが価格の高さと部品補給の困難に難渋し、国産技術の開発が望まれていた。
黒澤貞次郎は昭和2年(1927)逓信省技師松尾俊太郎氏を迎え入れ、この試作研究にとりかかった。
一方逓信省は昭和7年(1932)電信電話技術調査会を設けて通信各社を招集し、設計規格を示すと共に6ケ月の期限にて説計書提出を依頼した。この期限までに設計説明書を出したのは黒澤他2社のみであった。逓信省は更に1ケ年の期限にてその試作を依頼した。約束期限までに納品したのは黒澤のみであった。
昭和9年、この試作機の経験を基に、新に実用機の設計を開始した。逓信省は大阪逓信局より長谷技手、西川工手を応援派遣してくれた。2次、3次と試作を重ね、最終仕様書がまとめられたのは、昭和11年12月のことであった。
昭和12年(1937)11月3日、東京 大阪間に国産初の印刷電信機(和文6単位テープ式)が実用開始された。国産化計画以来10年の歳月を要した。
この印刷電信機は逓信省のみならず新聞通信社にも採用された。この功績により、昭和15年(1940)大毎、東日通信賞が贈られた。
大谷薫著・電信あのころ
黒澤貞次郎・手記
黒澤張三 記 1989・8
タイプライター以外の取扱品 Ⅰ
ライノタイプ.バロース.
タイプライターといえばクロサワ、クロサワといえばタイプライターの信用をかちえてきたが、それ以外にも新しい数々の品を日本に紹介してきた。
MERGENTHALER LINOTYPE
ライノタイプとは余り聞き慣れない言葉と思うが自動活字鋳造機のことで、新聞社、出版社等で使用された。同社の最初のモデルは、極く単純機能の機械であるが1892年に出荷されたとのことである。その後改良に改良が重ねられ、多重機能のモデルとなり、実用に供されるにいたつた。
クロサワが取り扱い出したのは何時のことか詳らかでないが、恐らく第1次世界大戦の後の1920年頃かと思う。
JAPAN TIMES 社に何台かが納入された。他の事務機と異なり、在庫の必要もなく、カタログに記載もされず営業が出来た。特別の高額商品であり、これが売上られたときは、営業成績に特別の寄与をすることができた。 昭和の初め頃この取扱は中止された。
この機械の名は、当社の記録にあまり留めていないが、重要は項目の一つと評価されて良いと思う。
この機械を大量に使用することは、活字の鋳造に鉛の使用があり、鉛害のことも考慮されて、最近には、その危険のない写真植字の方式に発展した。
BURROUGHS ADDING MACHINE
読み、書き、算盤は生活の基準、当然ながら事務処理の基本ともなる。計算機の出現はタイプライターより早かつたであろう。然し計算の結果を記録として、書きだすことは大分後のことである。
計算機がクロサワのカタログに顔を出したのは大正4年(1915)のトライヤンフエダーの回転式計算機である。バロース社とは大正8年(1919)に総代理店契約され、大正9年発行のカタログには記録されている。卓上式の小型のものから、作表可能の電動大型のものまで既にライン・アツプされていた。
大型のものは東京ガス、大阪ガス会社に納入され、戦前までそれぞ
れ稼動していた。卓上用のものは当社に今猶保存され稼動可能の状態である。
バロース機の取扱も太平洋戦争の開始と共に廃止された。
タイプライター以外の取扱品 Ⅱ
IBM
INTERNATIONAL TIME RECORDING CO.
クロサワとIBM社との関係はタイム・レコーダー部門から始まつた。大正4年(1915)発行のカタログには、既に記載されて居る。スプリング捲き、振り子式カード記録機で、当時445円の価格であつた。
大正7年蒲田工場竣工後は時計ムーブメントとカード記録部分のみを輸入し、ケースの木製品部分を自作し組み合わせ、同じく自作のカード・ホルダーと共に一般顧客に供給された。
昭和の時代からは、親時計による電動式システムに切り変わり始めたが、振り子式も根強い需要が続いた。この1台は今猶当社に保存されている。
INTERNATIONAL TABULATING MACHINE CO.
IBMと言えば直ぐコンピユーターと思うが、当時はタビユレーテング.マシンでホレリス電気式会計統計機械と称した。
HOLLERITH 博士の発明による、カードに孔をあけ、分類機により選別し、総計作表印刷機で纏めるシステムである。主として国勢調査生命保険統計、在庫調査、原価計算に使用された。
大正14年(1925)の暮れ、森村組により日本で初めて日本陶器にこの機械の1組が据え置かれた。森村組ではIBMの代理店としての活動は本業の関係から適当でないと考え、森村市左衞門男爵と親しいばかしでなく、既にIBMの一部門のタイムレコーダーを取り扱つている黒澤貞次郎に、この機械の代理権を引き受けてもらうことにした。その結果、昭和2年1月1日代理権発効となつた。
クロサワでは、森村組から移籍された水品氏を中心に販売活動を展開し、三菱神戸造船所、三菱長崎造船所、呉海軍工厰等で主として原価計算業務に使用された。更に帝国生命、日本生命、武田長兵衛薬品会社等で統計業務にも使用された。
然し情勢は満州事変、上海事変と大陸に於ける戦時体制の急進により次第に諸般の事情が変化し、IBM本社に送付する業務資料の報告も困難な事情となつた。
昭和12年IBM社出資による、日本ワトソン統計会計機械株式会社の発足により、クロサワは代理権を譲渡した。然し時局は更に悪化し、太平洋戦争に突入、敵産処分の対象等で業務は停止された。
終戦後、昭和25年漸く業務の再開をした。
それより以前、昭和24年日本IBM社が発足しており、両者統合した。 コンピユーター時代への発展はこれから後のことである。
タイプライター以外の取扱品 Ⅲ
番号機、孔明機、木工製品 印刷、製本商品
明治42年(1909)の取扱商品カタログの中に米国 Bates 社製番号機やCummins 社製「 CHICAGO」小切手用孔明機等当時として斬新な事務用器具が紹介され、事務の省力化「LABOR SAVING」に力点をおくことに商品展開の努力がなされた。
後に、蒲田工場操業後は逓信省の要望で電報業務用の特殊番号機の国産化が行われた。
木工製品としては、当然ながら、タイプライター・デスクやセクシヨナル・キヤビネツト、及びカード整理容器が取扱商品として取り上げられた。
タイプライター・デスクはSmith PREMIER 社、キヤビネツトは米国のYawman & Erbe Manf. Co. の製品が紹介されている。
その後、蒲田工場の木工部操業により、国産化された。これら商品は良質の楢材、ブナ材を用意し、充分の乾燥処置後製品化され、その接合部分はダブテール嵌合により堅固に結合される方式が採られ、釘等が使用されていないのが特徴であつた。
これら商品は今猶現在、当社の事務室にて一部使用されている。また、IBM タイム・レコーダーも時計ムーブメントと印字機構部分の輸入をして木製本体部分は国産化がなされた。
事務の合理化の範囲として印刷、製本業務まで広げた。
文書整理として、ポスト・バインダーはImperial社、ルーズ・リーフバインダーはTengwall社の製品に範をとり国産化し販路を広げた。
印刷関係も各社のレター・ヘツド製作に信頼を得た。
その品質の良さはIBM カードの印刷をした点でも証することが出来た。
黒澤 張三 記 1990・ 5
工場付属設備
水道 幼稚園 小学校
水 道
矢口に黒澤村が開設されて、第一番の問題は井戸水の水質が悪く飲用、洗濯用共に難渋した為、多摩川の近くの原村に水源を求めて水道建設の工事までも行わねばならなかつた。
原村に堀り当てた井戸から埋設鉄管を通して、村の貯水槽まで良質の水が届いたのは大正十一年十二月、更に給水タンク、各戸えの配水管工事の完成は大正十二年五月二日のことであつた。
この計画を立てて以来、目には見えないが、多く年月と膨大なる費用を要した工事であつた。これが完成した時の「吾等が村」の村民の喜びは大変なものであつた。
この水道は終戦後、東京都の水道に切り換えられた。
幼 稚 園 と 小 学 校
教育の真髄は大学より中学、中学より小学、小学校より幼稚園であり、合わせて家庭教育との連携の幼児教育の重要性を認識し、更に自己啓発、生涯教育に心を傾け、自分自身で受け得なかつたことを人に与え、自ら自己啓発の良き模範を示した。
幼稚園は大正九年の創設。工場食堂の隣に一室が用意され、鈴木、間の二人の保母により一年保育、二年保育に分かれ運営された。
続いて鉄筋コンクリート二階建小学校二棟の建設にかかつた。この内一棟は小学校の教室専用、別の一棟は教員室、図書室、医務室、クラブ室、講堂等で村民の生活相談、生涯教育の為に使える場所として計画された。然し工事半ばで関東大震災に会い工事中止の止むなきに至つた。
震災の後の工場復旧完成後、改めて別の場所に木造平屋建校舎が昭和四年完成した。一級二十名を定員とし、先生も同じ社宅に生活しての体制を整えた。 初代校長は白坂、二代校長は坂本。
国民学校令の施行に強く反対し、昭和二十年三月学校を閉鎖した。児童達は近くの道塚国民学校へ移籍されたが、間もなく地方に疎開して行つた。校舎は昭和二十年四月の空襲により焼失した。
黒澤 張三 記 1990・7
関東大震災火災
大正12年(1923)9月1日の関東大震災火災は、漸く事業は発展の軌道を固めて来た黒沢商店に大きな災害をもたらした。
銀座本店は地震には充分耐え抜いたが、日比谷方面から発生した火災がが次第に拡大し、夕刻頃には銀座一面に広がり、翌朝までにこのあたりは総て灰塵に帰した。黒沢ビルも建物は残つたが内部に火が入り商品、書類等は灰塵となつた。
蒲田工場は建物はその敷地の液状化現象の影響を受け倒壊をした。然し火災の発生は無かつたので、工作機械、工具、素材、図面、書類等は温存でき、また従業員社宅には何の被害もなく、空地等を利用して農園もあり、緊急の食料保全も出来た。百名の従業員の内、工場倒壊の事故で一名の死者と数人の負傷者にて済ますことができたのは、不幸中の幸でもあつた。また工場従業員の殆ど全員は隣接の従業員社宅に起居していたので、この災害の復旧事業に大きな力を示してくれた。
それに比べ銀座本店の営業、経理の部門では、その従業員の殆どは各自の家からの通勤者のため、社の事業への復帰がおくれたり、また集団的の離散者(Runaway Boys) もあり、困難な一面もでたが、米国スミス社や、バローウス社等の全面的な支援もあり、最新事務機械の輸入に支障なく供給すること出来、事業の危機を乗り越えることが出来た。
この当時、貞次郎は、平常通り、午前中を蒲田工場で過ごし、11時半頃に蒲田駅にて電車に乗り、新橋駅に向つていた。大井町駅の手前いまで来た時に震災に会い交通は途絶した。徒歩にて蒲田に戻り、工場の災害を確認し、暗くなり、御園の自宅に戻つた。
蒲田の一帯は家屋の密集も少なく、二階建家の数軒が倒壊していたが、火災の発生もなく、比較的に平穏であつたが、本震の後、幾度も大小の余震が繰り返しあり、家屋内に戻るのが不安で、庭に蚊帳を張り一夜過ごした。
翌日からは、商品運搬用の馬力が唯一の交通手段になつた。
御園の住宅
かるた会 園遊会
蒲田に工場建設の計画と同時に、それに近接した場所に、自宅の構築が考慮された。工場は矢口村を中心に二万余坪が用意されたが、田圃地の為、土盛り工事作業に年月を要し、鉄筋コンクリート造りの主工場の操業開始は大正七年となつた。
住宅の蒲田村御園の二千余坪の敷地は畑地であり、土盛り工事も簡単で、工場より一足先に、大正四年暮れには完成、我々家族は築地明石町から移住した。
主建屋は木造二階建(台所、浴場のみ鉄筋コンクリート造)それに離れ屋(主人、主婦室)と倉庫、庭師の家が付属していた。
二階からは遠く富士山も眺められ、夜空には満天に星が輝き、夏には蛍も飛び交う別天地であつた。ただ近くにあまり住宅も無く畑の中の淋しい一軒屋であつた。
かるた 会
主建屋の二階の南側三室は普段は家族の寝室として使われたが、襖を開くと四十畳程の大広間となり、従業員の新年かるた会が催される場所ともなつた。
園 遊 会
庭には、池もあり、菖蒲も咲き、鯉も飼われ、広い芝生もあり、新緑の侯には従業員と家族の園遊会の場所としても使われた。
秋の紅葉の侯も風情があり、落ち葉を焚いて、焼き芋を賞味する楽しみがあつた。然し秋の行事は一回限りで余り催されなかつた。
父貞治郎は用心深い人で、秋は食中毒が怖かつたのである。
従業員家族を含めて五百人以上の弁当の調達と、それを市内から蒲田村まで運ぶ作業は容易なことではなかつた。そのため一番安全な新橋の「しのだ寿司」(稲荷寿司)と決められていた。
蒲田工場と銀座本社との運搬連絡は近くの遠藤という馬力屋さんが利用され、朝工場を出ると昼過ぎ銀座に着く、昼の休みを済ませて、荷物を積み替えて蒲田に帰ると一日の終わりである。
荷物の運搬に自動車が使われたのは昭和になつてからの事である。この住宅は昭和二十年四月の空襲で焼失した。場所は蓮沼駅の近く、今の大田区税務事務所のあるあたりが、その一部分である。
黒澤 張三 記 1990・6
工場の再建と第2次世界大戦
国産印刷電信機の生産
大震災の被害後、直ちに従業員総出による復旧作業が開始された。トタン囲いの仮工場の建設、鉄筋コンクリート建本建築工事と、よくこの困難に耐えて、昭和2年これを完成させた。本工場1棟(1080坪)、付属工場(食堂、浴場、)(180坪)変電室、車庫、消防ポンプ室が整備された。仮工場の一部は資材倉庫(224坪)として使用された。
更に社宅の増設(総計77棟、111世帯)、木造平屋建小学校校舎(昭和4年開校)(194坪)が整備された。
電信用和文タイプライターの生産も当初は機器本体を輸入し、活字、キー、送り車、目盛り尺等の変更作業であつたが、昭和8年には完全国産化の運びに達した。
昭和2年逓信省技師松尾俊太郎氏の来社を受け、和文印刷電信機の研究試作に着手した。
昭和7年逓信省は印刷電信機国産化の方針を打ち出し、これに応えて試作を重ね、更に逓信省より長谷、西川両氏の応援を得て改良を加え、昭和12年漸く実用機の生産が開始された。製品は逓信省(一般通信用)のみならず、新聞・通信社においても採用された。
この功績により昭和15年5月15日大毎・東日通信賞が授与された。以後工場の主力生産品は印刷電信機に向けられた。
この時、中国大陸では戦火が拡がり、日本国内でも戦時体制の強化が進み始めた。資材、食料の割り当て、従業員の出征応召(約20名)等である。
小学校は尋常小学校令に代わり、国民学校令が施行され、これを機会に廃校の止むなきに至つた。児童は道塚国民学校に移籍された。
工場は軍需工場として指定され、生産品の一部は陸軍通信学校、海軍技術研究所等への納入を行つた。
第二次世界大戦へ突入と共に諸般の事情は一層厳しさを増したが、増産への意欲を燃やした。食料の不足に対して工場敷地内の家庭菜園は大きな助けとなつた。
空襲による被害が盛んになると、工場の疎開が始まつたが当社は、隣の電車車庫と家庭菜園により、戦火を受ける心配が少なかつた。
昭和20年4月の京浜地区大空襲にも、小学校と社宅の5分の1程の焼失の被害で食い止めることが出来た。
黒澤 張三 記 1989 8
戦後の対応
昭和20年8月終戦の時点で、工場の被害は食堂に不発爆弾1ケと銃撃射撃による屋根に若干の穴が開けられた程度のことで済むだ。
昭和21年1月銀座黒澤ビルが米国赤十字の為接収された為、本社業務は工場付属棟に移転された。
壊滅状態の通信設備復興のため、通信機材の増産が要望され、懸命の努力が払われたが、資材の不足に難渋した。特に電動機の調達に困難があつ
た。
接収解除後の黒沢ビル復旧作業
黒沢ビルは昭和21年(1946) 1月、米国赤十字社が使用のために東京特別調達局により接収されたが、昭和27年(191952) 2月に接収解除された。
東京特別調達局の管理のもとで原形復旧作業が進められた。
工事担当は竹中工務店東京支店が担当した。
復旧作業の主な項目は
1 ・ 屋上の木造小屋の轍去
2 ・ 看板、非常階段の轍去
3 ・ 外部の白ペンキ塗りの洗い落とし、煉瓦修理。
4 ・ 入口 3ケ所のシヤツター取替
5 ・ 各階の間仕切りの轍去
6 ・ 2 階、3 階の便所の轍去
7 ・ 各階の内部の腰羽目( 人造石研ぎ出) のペンキ落とし
8 ・ 3 階より屋上に通じる部分の防火壁の原状復帰
9 ・ サツシュ( 上下窓) のチエーン交換
この中で外部ペンキ落とし工事は通行人への配慮もあり、最も注意を払われて行われた。
間仕切り設置の為のコンクリート柱、天井・床等へのボルト孔復旧にも注意が払われた。鉄筋コンクリート工事は行われなかつた。
この工事を完了して特別調達局よりの引渡を受けたのは6 7ケ月後の 11 月頃のことである。
工事担当者
東京特別調達局 総理府技官 岡 田 忠 弘
連絡係 吉 田 久 男
竹中工務店東京支店 支店長 濱 尾 安 一
工事監督 田 中 義 人
黒澤貞次郎の死去と葬儀
1953年 (昭和28年) 1月1日 この日は恒例の如く自宅(嶺町)にて午前中は主として家族の者達が、午後は会社関係の人達が入れ替わりたち替わり、年賀の挨拶に見えていた。
この前年2月に、銀座本社ビルが6年振りに接収解除され、原状復帰の工事が特別調達庁の管理で竹中工務店が実施し、11月末には、その工事が終り引渡を受け、営業、経理部隊の引越も完了し、わが子が帰つてきたような喜びに特別な気配が満ちて、祝杯を交わす度合いも一段と多く、昔の思い出話や、ビルの修復工事の苦心談等も繰り返されて上機嫌で過ごしていた。夕方には来客も帰り、あたりが暗くなつた時分、温かい炬燵から立ち上がり、寒い洗面所に出たところで、突然に倒れ意識を失つた。
家族の者達は電話での通報で集まつたが、意識の回復は得られぬまま4週間程を過ごし1月27日午前4時45分家族の者に見守られて帰らぬ人となつた。 享年78才。
内閣賞勲局は生前の功績を賞され従六位勲五等瑞宝賞が授けられた。
月花を残して眠る夢を見て 米の寿 結ぶ老松 の辞世の句を残した
2月2日葬儀が行われた。午前8時いつもの時刻に嶺町の自宅を出棺蒲田工場の玄関口、いつもの朝礼の場所で、工場関係の人々とのお別れ会を済ませ、午後1時半より銀座本社での葬儀告別式が行われた。
棺の置かれた所は、故人の事務机が置かれていた場所が選ばれた。
葬儀委員長大島義清博士の挨拶、岸田牧師聖書朗読、賛美歌、焼香も行われ、日本電信電話公社総裁、東京ロータリークラブ会長、同志社総長からの弔辞をいただいた。
2時より3時の告別式は1,500 人余の人々のご参列をいただけたが、会場には有志の方々の賛美歌の歌声も流れ、焼香の香りも漂い、それぞれの方が自由に別れの志の一時を過ごしていただいた。
銀座通りの真ん中での葬儀は稀なことでもあつた。翌日の毎日新聞に「タイプ王の伝記を臨む」の記事で紹介された。
黒澤貞次郎は辞世の句を残していた。米寿の年まで生きる夢をみての思いがうかがわれる。七十五才老と記されて昭和二十五年(死去の三年前)に書き残したもので、筆跡から、故人の自筆と思われる。
くろさわ物語 後書き
この「くろさわ物語」は昨年(1989)中村一雄取締役から部員へのPR用にと依頼を受け取り纏めたもので、この中の一部は既に公表された。
父貞治郎の没後、早くからその伝記の発行を望まれていたが、諸般の事情で今日も猶、果たせずにおることは残念である。
然るに、古い雑誌や、最近でも幾つかの資料に、誤り伝えられて居る事項が多いのは遺憾である。出だしの誤りは、辻褄を会わせるために更に誤りを重ねる結果となる。面白可笑しさ主体の週間誌の記事ならいざ知らず。歴史的資料の編纂には、その事実が充分立証できる資料を整えることが重要である。心すべきである。
上記の次第で各項目をB5版一頁に纏めた為、記事も全体としては、分散的で纏まりに難点があるが、取り上げた事項は総て充分立証出来る資料を基にし、単なる口伝等の事項は排除した。
猶、取り上げられるべき、事項は数限りなくあるが、ここで取り敢えずの区切りをつけた。
願わくは、これら正しい資料を基に、更に肉をつけ、形を整え、より良き伝記として後世に伝わることを望むものである。
黒澤 張三 記 1990・8
「クロサワ」を支えてきた人々
黒澤貞次郎の時代 (親族を除く)
銀座
営業部 海野 一郎 楠 久太郎 芝原 狷介
牧野 実 八城 勘治 柴田 輝美
高洲湘二郎 佐藤秀四郎 伊藤 鋭郎
堀井 孝栄(バロース担当) 田中啓次郎
水品 浩 (IBM担当) 田辺 金造
矢向 音吉(IBM担当) 森川鍵次郎
北川 宗助(IBM担当)
吉野 嘉成(逓信省担当)
臼井 弘 深澤 繁 食堂 溜 平治
経理部 山本 良衛 名鏡まさ
蒲田工場
工場長 庄野 篤郎
研究部 松尾俊太郎(元逓信省技師)
機械部 杉田 武夫 渡辺 章一 芦沢彦太郎
菊地勇次郎 細井太一郎 加藤正三郎
組立部 今島 博光 中村 喜一 加藤 正宣
田鎖 一郎 坂本理機夫
栗山 孝吉 堀 茂 小学校校長白坂 高重
椎橋 透 金井 好男 坂本 忠諒
田中千代造 神田 喜市 富岡光五郎
木工部 竹内 伸 座間 啄郎 黒木 茂
鈴木 安治 細井 嘉一 幼稚園園長鈴木 花子
印刷部 蔵田仙之助 植原徳太郎 間 えつ
村上 景治 古谷 利市
総務部 東瀬 為美 今島 博武 食堂 小出 包保
小林 銀弥 戸島 ちえ 農園 松本 泰造
協力工場 協力販売店
鋳物 東京鋳物株式会社 札幌 鈴木幾久太郎
板金加工 岡田板金会社 函館 西堀哲三郎
機械加工 小笠原鉄工所、水野製作所 仙台
防錆加工 日本パーカライジング㈱ 名古屋 篠田商会
塗装加工 城南塗装㈱ 京都 文適堂福田博治
ゴム製品 東京ゴム㈱ 神戸 吉田商会
モーター 精電舎、日立製作所 吉田幸太郎
広島 熊平金庫
取引先 門司 手塚商店
外務省、逓信省、各新聞通信社、 長崎 石丸文行堂
陸軍通信学校、海軍技術研究所、 石丸太郎
東京海上火災保険、日本陶器、 大連 内田洋行
東京ガス、三菱長崎造船所、等 友人
東京ロータリークラブ会員
取引銀行 横浜正金銀行、三菱銀行 (1927 1953)
ここに記載した以外に「クロサワを支えて下さつた方々」は大勢おら
れますが紙面の都合で全部を記載できませんでした。お許し下さい。
黒澤 張三 記 1990・7
黒澤貞次郎 交友
ロータリークラブ 高田 碌 (高田商会)
米山 梅吉(三井信託) 杉村 楚人冠(朝日新聞)
森村 市左衛門(森村組) 御木本 幸吉(ミキモト)
小林 雅一(内外編物) 牧野 虎次 (京都同志社) 大島 義清(東大燃研) 岡本 武尚 (弁護士)
東郷 安 (日本無線) 真野 文二 (東大工学部) 東ケ崎 潔(JAPAN TIMES ) 宮内 国太郎
小松 隆(日本鋼管) 立花 種忠
田 誠(交通公社) 中村 幹治
三輪 善兵衛(ミツワ石瞼) 大木安之助
吉住 小三郎(長唄研精会) 大久保 武
宮田 栄太郎(宮田自転車) 別所 重雄
渥美 育郎
日比谷平左衛門 大倉陶園
磯野 計蔵(明治屋) 大倉 和親
国分堪兵衛(国分商店) 日野 厚
亀井 要
キリンビール
風月会 楠 深
富井 政章(枢密院議員)
尾上 菊五郎(六代目) 蒲田不動産関係
鵜澤 聡明 (明大総長) 月村百太郎
宮岡 恒次郎(弁護士)
逓信省
広島 庄太郎
大内 誠三
鈴木 寿伝次
海軍技術研究所
田辺 一雄(勅任技師)
山本 (技術大尉)
「吾等が村」のその後 黒澤張三 1998.1
戦中の通信機の需要は国内民需と軍用の為増産が急がれた。戦争末期の空襲
の被害は、幸い工場本体には災害は無く、社宅の四分の一程度と小学校校舎
の焼失のみで済ますことができた。
吾等が村の中から多くの出征された方がでたが、その中の幾人かの方は戦死
をされ遺骨となつて帰られた方もあり、村人を悲しませた。
農園での収穫は戦中戦後の食料難の解決に幾らかでも役立てることが出来た。戦後の通信網壊滅の復旧には、資材の調達に不自由しながらも、最善の活動をすることができた。
1953年(昭和28年)1月黒澤貞次郎は急の病に倒れ死去した。
それまでの個人組織を株式会社に改組し、相続以後の会社運営が図られた。
戦後通信回線の開放が急速に進み、各企業が独自に回線網を活用することが
出来るようになり、これに対応するためと、電算機の端末機の目まぐるしい
発展にも対応するため、黒沢商店と富士通信機とが合弁にて黒沢通信工業株
式会社を設立し、黒沢商店蒲田工場を新会社に移管した。1957年(昭和32年)2月のことであり、この時点での移管従業員は 120名であつた。
付属の従業員社宅、学校等はこれと切り離し、逐次売却して相続税の支払に
充当した。この処理に6年程の年月を要し「吾等が村」は消滅した。
電算機の業界も急進展し新会社も蒲田の土地が手狭となり、南多摩へと移転
した。1965年( 昭和40年) である。この時の従業員400 名を数えたが、1976
年には、ここも手狭となり、福島市郊外に移転をした。社名も富士通アイソ
テツクと改称され、従業員1000名を超える規模にて現在運営をされている。
また、アイルランドのダブリンとタイ国バンコツクにも工場を展開し国際的
な規模となつた。福島工場に隣接して数百台分の駐車場が用意され、従業員
の大部分はマイ・カーでの通勤を楽しむ姿が見られた。
理想郷とは 黒澤張三 1998.1
この問題の関しては全く関係のない素人ですが、幼少の頃より蒲田で生活し
「吾等が村」成長を見て、戦争の直前よりは工場長としての職務を担当して
きた者で、さらに工場が新会社に移管されてからも役員の一人として関与し
南多摩への移転、さらに福島への移転を見て来たものとして、感じたことを
記述いたします。
ハワード氏の田園都市の構想は騎馬民族がその理想郷として農耕民族の理想
の姿の実現を試みられたのではなかろうか推察します。
そして福島工場の急速な進展の姿と比較して、これは農耕民族が騎馬民族の
機動力を羨みこれを存分に活用することが理想郷の条件として、これが戦後
日本の経済発展に大きく寄与したと思います。( しかし一部に大きな歪みを
を残していることが最近の多くの事件に散見されます)
「吾等が村」の構想は長く安定した経済情勢にては十分の成果を上げること
ができましたが、急速の環境の変化(戦争、敗戦、経済復興、科学の進展等)
に対応するには、福祉の優先よりも、機動力の効果を優先せざるを得ないの
ではないかと思います。
時代は、今新しい世紀をまじかにして大きく変わろうとしています。誰もが
ホーム・ページを持ち、インターネツトで結ばれ、電子民族に変わろうとし
ています。一部にはその歪みが現れてきています。
その時の理想郷はどのようなものに成るか解明が急がれます。
注 騎馬民族とは機動力を主体として身につけている人々
農耕民族とは Communityを主体として身につけている人々
電子民族とは機動力や Communityと関係なく、パソコン頼
りに見覚えのない人とも繋がりをもてる人々
何故 銀座 か 銀座魂
日本全国、東は釧路から西は長崎まで、○○銀座と称する街が四百以上もあるという。何故銀座の名前がそれほど使われるのであろうか。単なる賑やかな街と言うならば、原宿でも、六本木でも良いはずである。
明治の終わり頃、この銀座は新聞社や出版社等で賑わつていた。今の言葉でいえば情報発信地と言うのかも知れない。震災後百貨店の進出で買い物の街へと変身し、更に戦後フアツシヨンの情報発信地ともなつた。
グルメの街でもあり、画廊の街であり、映画演劇の街でもある。
然し真に銀座の名に憧れるかは、只一言でいえば銀座に店があることが信用に繋がるからである。銀座の名により「信頼」されるからである。
我々が銀座に店を構えるからには、この信頼に応えなければならない。
信頼を得るには多くの努力の積み重ねが必要である。そしてこれを失うのは一瞬の間である。このことを胸に深く刻むべきである。
「銀座魂」と言う言葉がある。山本嘉次郎氏の文章を借りる事にしよう。
明治維新と関東大震災と戦時空襲で、銀座は三度滅び、三度生き返つた。銀座魂があつたればこそである。銀座魂はこの試練でますます磨かれた。
銀座魂とは何か。士魂商才と言う言葉がある。武士の権威と商人の英知を合わせ持つことである。福沢諭吉はこれをもじつて和魂洋才といつた。
日本の心と西洋の頭である。この士魂商才と和魂洋才を合わせ実現したのが銀座魂である。
幾人かの例を上げ、その中の一人に黒澤貞次郎を取り上げた。関東震災で大被害を受けたが、立ち上がった。彼が取り扱つた事務機器の活用で日本の経営機能は欧米に追いつくことが出来、日本の経済発展に力を尽くした。その功績で勲章をもらい、日本商人の信用を世界に高めたと。
銀座は軽佻浮薄の巷ではない。皆で心を合わせ銀座魂を磨き上げよう。
黒澤 張三 記 1990・8