「新版富豪物語」 岩倉実三
月刊「オール生活」1953年2月号 タイプライターとともに五十年
高額所得の日本一
毎年の三、四月になると、大蔵省の国税庁から、前年度の所得決定額が、全国の首位者どころを集めて、ズラリと賑々しく 発表される。ジャーナリズムがまたこれを採り上げては、いわゆる「新版長者番附」として、デカデカと年中行事のように 社会の視聴をそばだたしめる。
一体誰がいくら儲けて、いくらとられるのか、誰がいくら稼いで、いくらしてやられるのか、他人ごとながらも、全くの 無関心ではおれぬ世人は、それらの数字をみて、大きくうなずいてみたり、小さく溜息をついてみたりする。そうして、自分の 一年分が、彼等の何日分、いや場合により、何時間分に当るかをそッと計算してみる。或いは昂奮し、或いは憂鬱になり、 人さまざまに何事をか考えさせられる。
人間というものはおかしなもので、自分のふところは余り気にしないくせに・・・事実は、分り切っていて、今更気にしても しようがないのだが・・・他人のふところは、その割に、馬鹿に気になる。さもしいといえばさもしく、いじらしいといえば いじらしい。そこで、恒例の「新版長者番附」の発表ともなると、自分には何等関係のないことながら、誰しも一応、ホホウ といった面持ちで、こくめいにそれを読みただしてみる。
ところで、その官製長者番附の中で、何処の誰やら、また何をやってどう儲けたものやら、一向エタイの知れぬ新興成金ばかり、 あわただしく入れ代り、立ち代り、彗星の如くあらわれ、彗星の如く消え去って行く中に、毎年きまって同じ額を出しつずけ、 しかも、だんだん上位に席をすすめて、昭和二十六年度の発表で、ついに全国一の高額所得者となって、その名を天下に とどろかしたのが、「東京・タイプライター、印刷通信機製造」という割註をつけた黒澤貞次郎である。
あわてもの揃いで、他人の商売ばかりがよさそうにみえる世人は、タイプライターの黒澤がそもそもいかなる人物で、 いかなる経営をしているか、肝腎カナメなそれを知らないで、ひたすら、「タイプライターというものは、こいつ、時節柄 馬鹿にいい商売とみえる。」
と、自分がタイプライター屋にならなかったことを千載の恨事として、その発表記事をねめつけるかも知れない。
しかし、それは大きに間違い、あまりにも早合点に過ぎるというものだ。
金持ちの一生態
金持ちは人にあいたがらない。したがってまた、あまり世間へも出たがらない。
たしかに、これは金持ち共通の、金持ちであるということそれ自体を資格ずける一つの生態であるらしい。昔からの金持ちが そうであったと同様に、新しい金持ちが、金持ちになったことを証拠立てる最初の変化は、まずむやみと人にあいたがらなくなる ことである。そうして、時には反体に、やみくも世間へ名を出したくてしようがなくなる手合もあるようであるが、概して、 本当の大金持ちになってしまうと、本当に世間へは出たくなくなってしまうらしい。
「新版富豪」の物語主人公に見立ててともかく、一応は御本人に御目見得しておかずばと、折をみはからって、 黒澤タイプライター氏に会見を申し込んだら、果して予期の如く、御丁重なる文字をつらねた御辞退の返書に接した。 タイプライター屋だから、そこは商売物のタイプライターで打って来てもよさそうなのに、半分だけは印字器で埋め、半分だけは 自筆らしい、さらさらがきであった。そうして、「店主」とタイプでいかめしく打った下に、「黒澤貞次郎」と ペン字の署名がしてあった。
あとで、いよいよの会見を遂げてみると、この「店主、黒澤貞次郎」はなるほどぴったりとした表現であって、 全部タイプで打ってもいけないし、全部肉筆描きにしてもいけない。ハイカラなようでもあり、ハイカラでないようでもあり、 新しいようでもあり、新しくないようでもあるのが、新版長者の筆頭第一、黒澤商店主黒澤貞次郎の印象であった。
普通一般なら、会社組織にしておるであろうところを、まだ個人経営という形で頑張っており、社長さんと呼ばるべきところを、 店主さん、旦那サマと呼ばれている。仕事以外、商売以外に、然るべき業界、社交界の集りに顔出ししてもよさそうな地位年齢 にもかかわらず、黒澤商店主という唯一つの肩書しか持っていない。カナモジ会、ローマ字会の会費だけは払っているが、 それにも絶えて出席したことがないという。そうかと思うと、一業一人で、最高級な職業人の団体であるロータリー・クラブには、 これはまた大した熱の入れようでもあるらしい。
新旧混交、和洋取りまぜ、人と話をするにも、常に適当な日本語が思い付けないというので、いつもコンサイスの英和辞典を 手離さないでいる御仁が、どこまでも古めかしい「個人商店のダンナサマ」で頑張っているのである。これがまた 新版富豪三役どころの、大金持ち黒澤貞次郎の特殊生態である。
全国一の正直者?
忙しいにも忙しかったであろうが、一応のインタービュー(記者会見)を断って来た黒澤老もまた矢ッ張り長者のものぐさと いうやつで、余計な人間には出来るだけあいたくなく、うるさい世間には出来るだけ顔出ししたくなかったものらしい。
金持ちで人にあいたがらず、世間に出たがらないのは、あえばあい、出れば出ただけ、それだけ必ず損をする・・・というのも、 ある程度事実かも知れぬが、それ以上にもまた、損など少しもしないでも、損をしそうな恐迫観念にかられる。それが 知らず識らずに、人嫌いとなり、出無精となって特殊の生態化する。これはもちろん、金持ちでもないものの金持ちの 心理を岡焼半分に解釈した結果であるが、黒澤老にいよいよあってみると、必ずしもそうとばかりは限らず、 有り体は、あまり金持ち顔をして人にあい、世間に顔出しするのが、とてもてれくさく、恥かしくてしょうがないという、 奥床しい謙遜からでもあるようであった。
こちらは唯だ一度あえば、そうして、何かちょっとしやべって貰えば、それでもうよろしいのだ。それでよろしい・・・それが、 初めはなかなかの難物だった。しかし、いよいよあってしまえば、人なつッこい、話好きな、ちょっとでいいつもりが、大いに 語っで呉れる黒澤老人であった。
「世間ではわたしを、大変な金持ちかなんぞのように思っていますが、金持ちでも何でも御座んせん。ただ一生懸命に商売をはげんで、 出来るだけ税金も納めたいと思っとるだけなんです。わたしより外に、いくらでも金持ちで、いくらでも稼いでおられる人はありますが、 そんな方はみな法人組織(会社)にして然るべくやっておられますから、わたし共のようなものが、つい全国一の納税者ということに なってしまうんです。
税金はなかなかに高い。しかし、正しく計算してみると、それが法的に正当なものとなっており、いやがおうでも、そう決っとるから、 そう出さんならん。税金を払ってしまえば、それこそあとには一銭も残らん。それでも、生命までもということにはならぬので、 一人前に喰わして貰って、働かせて貰って、社会に貢献させて貰うんですから、まア有難いことですよ。わたしが全国一になった というのも、わたしが全国一に儲けたわけでなく、ただ全国一に要領がわるいか、全国一に正直者であるかというだけなんです。 ねえ、そうじゃ御座んせんか。」
この最後の、・・ねえ、そうじゃ御座んせんか・・で、黒澤老は上体を前かがみにして、両手を繩のようにより合せて、とても うれしそうにしなを作る。いわゆる「日本一の馬鹿正直」を、あたかも、自分自身に認めて、自分自身に満足し切っているようすである。
税金といえば、多額納税であろうと、小額納税であろうと、乃至は脱税逃税であろうと、不満と泣言を洩らさないものはない 今日の世の中に、おお何んと、これはなかなか見事な態度では御座んせんか。黒澤貞次郎とは先ずこういう人物である。
模範納税のしにせ
そこで、その黒澤さんの納税振りも、言行一致に、まことに立派だ。ウソもなく、アイマイもなく、マッタもない。いつも期日までに ちゃんちゃんと完納だ。それこそ模範者中の模範、国税庁の大のホメモノになっている。
「黒澤さんには全く頭が下るですよ。日本一になって頂いて、それで何んのいざこざもなく、完納のトップを切って頂くんです からねえ。」
これは、何から何まで、黒澤さんを頂いてしまっている京橋税務署の感嘆である。
黒澤商店(銀座六丁目)との古いおなじみである京橋税務署の語るところによれば、黒澤さんは決して戦後の出来星なんぞではない。 昔からの歴っきとした多額納税者の一人で、いま試みに、手元に残っている「昭和十四年度東京府下多額納税者番附」-東京財務管理局作製- というのをみてみると、納税額五二、一〇八円三七銭(今日の一千万円にも相当するか)とあり、鍋島、浅野、阿部等の諸大名資産家に次いで、 前頭二枚目にちゃんと立派に納っているものだ。
もっとも、この多額納税者名簿というのは、その当時の多額納税議員(貴族院)選出の母体原簿で、地租及び営業収益税を主としており、 普通一般の所得税は含まれていない。したがって、現行の高額所得者名簿とは可なり異った性質のものである。だが、不動産所有が極めて少く、 純粋な個人営業の収益納税だけでこのへんの大物にまでなっているところから察すると、黒澤商店の実態実力は、十年、二十年前から、 すでに個人経営所得では、かくれたる日本一、二、ですらあったことがうなずける。だから、今更の黒澤貞次郎に驚いていては、 驚く方の認識不足も甚だしいというわけになる。
つまり、新版富豪日本一(二十六年度)の黒澤タイプライター氏は、敗戦でバタバタいかれてしまった数多い市井富豪中での、 唯一人といってもいいほどな、生き残り「戦前派」富豪の古ツワモノなのである。決してそんじょそこいらの、新興出来星成金とは一緒に みることは出来ない。黒澤老人に老舗主人らしい、古風なバックボーン(背骨)が具わっているのも、正にこれあるかなである。
こじんまりと堅実に 税務署の御先棒をかついだ摸範納税者物語りはこれくらいにしておいて、さて、その黒澤貞次郎個人の 所得決定額をのぞいてみると、
二三年度 二三〇〇万円
二四年度 二、九五八万円(全国六位)
二五年度 四、二四一万円(全国一位)
ということになっており、逐年の増加は実にめざましいものがある。昭和二十五年度分の日本一は、翌三十六年三月発表の際の順位で、 これはその後更正決定で追い上げられた真珠(佐世保・高島)、繊維(東京・佐藤)のダークホースがあって、実際にはいくらかその 序列も狂って来たようであるが、「正直申告」ではやはり日本一、「私はこれだけ確かに儲けました」という本人承知のものでは、 誰一人黒澤の右にでるものはなかったのである。
つゞいて、二十六年新設の富裕税申告では、ギリギリ決着のところ、二億四千六百五十万円の査定を受けたといわれている。いわば、 これは公認資産表ともみるべきもので、新版富豪としても最右翼の一人に数えられなければならぬ黒澤さんだ。
「税金を納めてしまえば、あとには一銭も残りませんが、それでも一人前に喰わせて貰えるのは、何んとも有難い次第で御座んして・・・」 という、その有難い次第が、赤手空拳から起って、間口二間、奥行五間の借家から出発して、タイプライター屋五十年の苦労で、 これだけの大きな累積となったのは、何んとしても異とするに足りよう。しかも、この黒澤タイプライターは、他の新版富豪の 諸事業の如く、何万、何千人の従業員を集めて経営されてはいず、十年一日、一貫して、百二、三十人程度の店員とエ員で つづけられて来ているのには、誰しもその意外に驚かぬものはない。
こじんまりと家族的に、そして、最大よりは最善をめざす・・・これが終始かわらぬ黒澤経営のイデオロギーであって、 今以って個人組織であり、今以って店主さんであり、旦那サマであるゆえんでもあるが、昔からムリな拡張を一度も試みなかった ところに、あえて資本を他に仰ぐ必要もなく、会社組織にして折角の家族主義に水をまぜることもなかったのである。
ついでながら、黒澤商店の現勢を御紹介しておくと、店主御大が黒澤貞次郎(明治八年生、七八歳)、支配人として銀座の 店を受持つのが長男敬一(ケンブリッヂ大学出身、五一歳)、工場長として蒲田の工場を担当するのが三男張三 (横浜高工機械科出身、四三歳)、従業員は前にも述べたように、 一貫して常に百二三十人を越えない。もともと停年などといったものはなく、七十でも八十でも働けるあいだ、 その働ける部署を考えてやって働かそうということだ。また店員、工員の新規採用はすべて従業員の家族に限り、 蒲田工場の周囲にはその社宅が百戸ばかりズラリと並んでいる。二万坪にも及ぶ敷地内には、農場、医院、娯楽場等もあり、 戦前までは、幼稚園から小学校さえも建て、まるで一つの「黒澤村」理想郷をなしていたものである。
黒板にかかされた漢字
黒澤貞次郎は東京日本橋に生れた。小学校を出てすぐ、十六歳でアメリカに渡った。
その間にどういう手ずるといきさつがあったか知らぬが、向うで最初に職を得たのは、ニューヨークの或るタイプライター 製造所で、それについて、自ら語るところはこうだ。
「その頃はまだ、アメリカでもタイプライターは新製作品で、一般的にはそれほど実用化していなかった。しかし、私は その将来性を見て取って、一所懸命に修繕や組立てについて勉強した。本当の仕事は工場内の掃除掛りであったが、 掃除毎に出て来るタイプの部分品とか、釘、姻鋲などを集めて工場長へ差出していたのが信用を博して、だんだん仕事の 重要部分が覚えられる方へ廻して貰えた。そして、足掛け十年のうちに、タイプーライター製造の技術をすっかり修得する ことになったのである。これで、私はとうとう一生をタイプライターと共に暮すよう、神様からのおはからいを受けてしまった。」
そこで、もう少し立ち入って、どうしてアメリカに興味をもち、どうしてタイブライターに精魂を打ち込んだかときくと、
「私はこれで、なかなかガクモンの出来た方で御座んしてねえ・・・」
という、ふるい自慢話から改まって出直した。
それによると、黒澤少年は小学校における飛び級の秀才で、卒業間際には同級中の最年少者であった。この最年少者を先生がまた 特別にひいきして呉れて、何かむつかしい問題が出ると、それ黒澤、やれ黒澤というわけで、年ばかりいって頭のわるい連中の みせしめになったものらしい。或る時、先生の指名で、黒板に大きく、
「猫が鼠を噛む・・・」
とかかされた。得意満面で、彼はさっそくかいて引き下ったところ、先生は失望顔で、
「これはちょっとちがう。カムという字の噛は字画がちがう。」
といった。黒澤少年の失望は、先生の失望以上であった。そうして漢字はどうしてこうむつかしいんだろう。 日本語にはどうしてこんなむつかしい字を一々覚えなければならぬだろうと、今ならば、さしずめ国語改良論者に、 「それそこだ」といわれそうな、大きな根本的の疑問にぶっかった。そこで、こんなむつかしい字を覚えなくても、二十六文字 さえ知れば何んでも十分に勉強出来るアメリカヘいって勉強しようと、えらく飛躍したことを考えたのである。
渡米の動機と目的がこういうのであったから、偶然に当たったタイプライターの製造事業が、たちまち、彼の興味と熱心とを とらえてしまったのは当然である。いちはやく彼は、タイプライターで身を立てることを決意すると共にいわゆる本場英語で、 何から何まで勉強するように努力した。だから、今でも一々の会話に、適当な日本語を見付けるためにコンサイスが必要なほど 不便な、すっかりあちらの人になり切っているのである。
それからもう一つ、彼は米国滞在中に、日本文字でも機械で打ち出せる、どうかして打ち出せろようにしたいものと考えた。 英文タイプでも、頭文字その他の記号を含めると、日本の五十音に近いだけのキイ(打点)になる。これなら日本のカナタイプも 必ず成立するにちがいない。成立させずにはおかぬ。こういうので、とうとうカナ文字タイプライターまで苦心の末 完成してしまったのである。
さて、こういうことになると、春秋の筆法でいって、「猫が鼠を噛む」の、噛むの字、タイプライター富豪黒澤貞次郎を作る、 というわけで、世の中もなかなか面白いことに相成って来る。
裸一貫から億万長者へ
明治三十四年(数え二十六歳)、アメリカでもそろそろ一般実用化の域に入ったタイプライターを土産に、彼は十年振りの 日本へ帰って来た。その方の知識と修練も十分、普及化の時機も絶好、それに多少の貯えも出来ていたので、東京に落ちつくなり、 彼はさっそく延二十坪ばかりの小さな家を借りて、タイプライター販売並に修繕の「黒澤商店」を開いた。それは住居、兼店舗、 兼工場といったもので、ニ階の廊下に空箱を並べて、手廻しの旋盤機を一台据えつけた程度のことであった。留守番はおいたものの、 もちろんまだ独身、何から何まで、一人でコマ鼠のように馳け廻った。しかし、本場仕込みの年季が入っているだけに、 また当時としては大した競争者もなかっただけに、彼の仕事は順調に、手がたく、すぐ大きくなって来た。 開業翌年の三十五年に、印刷局へ初めてアメリカからライノタイプを入れさせたのも、実は黒澤商店の御手並みだったのである。
生来自己宣伝のきらいな黒澤も、新機、新商品としてのタイプライターには、宣伝の秘術をつくさねばならず、 またつくしもした。ただし、それはあくまでも文化向上のための印字機普及であって、頼らんかな、儲けんかなの商買宣伝では なかったという。そうして、印字機の普及と改良とには熱中したが、ムヤミと自分の事業を拡張することはひかえて来た。 こじんまりと、そして最善最良へというのである。この方針はその後の五十年を通じて、今に変っていない。黒澤商店の営業と 生産スケールは、前にも再三述べたように、従業員百三十人を最大限度としている。手堅いといえば手堅く、 消極的といえば甚しく消極的である。蟹は甲羅に似せて穴を掘るというが、彼はしきりと、「私は私相応なことしか出来ませんで」と、 あまりにも御謙遜を極めている。或はその謙遜と手堅さが、彼の比類まれなる長所となって幸いしているかも知れない。
現在における黒澤商店の主要業務は、スミス・コロナ・タイプ販売の、日本総代理店であると共に、 通信事業用のテレライト(自動印刷電信機)製造の二つである。しかも、億万長者の黒澤店主は、自動車にも乗らないで、 国電利用の店舗工場往来を、日にち毎にち元気でつづけている。儲かるのが面白いのでなく、 働けるのが面白いからである。