黒澤商店及び黒澤工場の機関紙 「吾等が村」より
「吾等が村」 発刊の辞
黒澤貞次郎 1922年8月号
文明の進歩は人間生活の幸福を増進すべきはずなるに、事実は往々にしてこれを裏切る場合が少なくない。 現代社会の徴象とも見るべき大規模産業組織に伴う都市人口集中のごときは確かにその一例に他ならぬ。
都市の発達は社会進歩の必然的道程である併し都市生活は疑いもなく自然の恩恵に遠かるの生活である。さればこれをつぐのうて 余りある文明的設備の十分なる利益を享受するにあらずれば決して幸福とは云い難い。都市生活は自然と文明の二つながらの恩恵を 同時に求め得る所に都市生活としての理想あり、人間生活としての幸福がある。しかし何れの日に望み得るであろうか、文明を 求めて得ず不衛生に不愉快に生活難に、ただ自然に離反した罰だけを受けるの感あるは我国都市の現状である。
更に大規模工業の組織に至りては内的生活の脅威である。驚くべき機械の発達は尊き人間性までもその重力の下に威抑して遂に 機械化せしめた。我等は如何にして機械より更に人間性に遡るべきであろうか。
騒音ごう々たる工場の内に機械のごとく眼と手足とを働かし終日の勤労に疲れ果てたる体躯をば街頭に運ぶ時、 たちまちにして吾等は混雑黄塵泥ねいの新たなる困難に遭遇せねばならぬ。ようやくにして住家に辿り着くも 多くはもとより清新閑静なる自然に接して甦ることも出来ず不快と雑念との間に更に身心を損耗せねばならぬ。 神の生命を与えた人体にも病魔は宿る。社会に自然的に開展せる現象の一面にもかかる欠点の伴うもまた免れ難き所であろうか。 これらの欠点を除きつつ自然の進化に伴うこそ人間生活の使命ではあるまいか。
広々とせる田面の内に限りなき太陽の慈光を受けて何の不安もなくその日の労働に従事し家に帰れば青々として育ちゆくそ菜の 勢よき様を楽しみ心ゆく許りに大気を呼吸して自然に親しむは「吾らが村」の有様である。
地は近郊の蒲田にあり自然に親しみて文明に離れず内は労働を愛して人生を楽しみ田園と都市の恩恵は二つながらを 享有する所に「吾らが村」の理想がある。 現実を離れざる「ユートピア」これぞ我らが村の使命である。
秋の夜の集い YI生 1922年11月号
秋の清々しいある一夜、平和な村の人々には楽しい集いが開かれました。
その夜は丁度村の主も交わって、懐しい昔話が耳新しく村人達に話し始められました。
余まりに最初賑やかな為、初めの程は隅の方ではほとんど聞きとれない様でしたが、 間も無く静まりかえってはっきりとした主の声が正確に村人の耳ヘ流れ始めました。
「でようやく着いたのが丁度今夜の様な冷たい月が出始めた夕方でした。その時分西海岸のNと言えば小さな淋しい漁村に 過ぎませんでしたから、夜に入ってもあちこちにチラチラと貧しいランプの明りが見える位でした。
空いている腹とポケットを押えて出会った村人に尋ねました。
「村で私が働らく様な所を御存じ御座いませんか」
するとその村人は私の姿を繁々と見つめました。もっともその時私は十七そこそこの小さな子供でしたから不思議も 御座いません。間も無く村人は親切にSと云う漁場を尋ねる様にと教えてくれました。で一夜を過すと早速その所を訪れて その日からそのS漁場にて働らく事に成りました。
小さな私が昼間一生懸命大人と一緒に働いて一ドルの銀貨に変ります、併しそれでは到底自分がこの村で望んで居った事が 出来相に有りませんでした。何分物が高くてその日一日で一ドルの銀貨が解け消えて仕舞うものですから、それで私も 考えさせられて今度は少し余裕を作る為、昼の労れを推して夜の仕事をも働らく様に致しました。
一体その昼の仕事はと言えば御存知の鮭を缶詰にするのです。今と違ってその時分は可成りな労力が働らく人々に 課せられて居りました。夜の方はと言えば、是は又昼間仕事の材料にする鮭を舟から陸へと上げるのが夜の仕事と 定まって居りました。今ならクレンか何かを使ってどしどし片付けるのですが、その時分の事です、舟から陸へと一匹一匹 捕かんでは投げ捕かんでは投げしたのです。そーした様な仕事の為に全く一日を働き通しに働きました。何しろその時分に 自分が小さな室のベッドに腰を下ろすと十二時の時計を聞くのが常でした。
そーした日を一日続け二日続けして自分の願いを追々達して行くのを楽しみにして苦しみを忍んで行きました。
で可成りな日を過してようやく自分の願が適う日が参りました。
丁度その時その村にも春が訪れて参いりまして暖かな太陽が私の前途を祝福してる様にポケットの中には苦しんで働いた力が 重く恵ぐまれて居りました。
思出深い村の人口と懐かしい人々に名残りを惜んで希望に戦きつつ活々した足取りで光明の前途に旅立ちました。
と秋の夜長の徒然に村の主は自分の半生の一節を思い浮べつつ我々村人に語ってくれました。苦しい運命と戦って倦まなかった 平和な村の主に、村人達は心から尊敬と感謝の念を抱かずにはいられなかった。 (一〇、一一、一九)
鉄筋コンクリートエ事 建 築 生 1923年1月号W3
五十尺の大タンク、万年不朽の鉄筋コンクリート建造物が暮の二十五日に落成して高い足場もサツパリと取り払われ、 残るは下層の揚水装置のハウジングだけとなり、其の格恰のよい雄姿を現わした時、而して僕等の腕前を今更の様に村人が認めた時、 実に嬉しい感じがした。
で、お正月の屠蘇機嫌で、一つ気焔を揚げようか。
鉄筋コンクリートエ事では僕等は元老の仲間株だ、今でこそ猫も杓子も鉄筋だが銀座のお店が東京での最初の新式建築で、 而して僕等が施工したのだ。
起工は明治四十二年十月十八日と記憶して居る、工事は店の西北隅から始まって、板囲いが済んだ時「さあ工事を始める、 基礎から棟上げまで木材は一つも用いない、悉皆コンクリートで造るのだ」と、聞かされて狸の土舟でもあるまいし随分思い切った設計だと、 実は少しく気味が 悪かったが、やっつけろと始めたものだ。
今でこそセメント会社は二割の三割のと大配当をやって居るが、その頃は不況続きで、銀座の角店が鉄筋コンクリートで建てられると聴き、 よい広告になる、何千樽でも無代でお使い被下と申込んだそうだ、義侠の主人がそれは気の毒、余計儲けがなく共、五分の純益を見て 売ってくれとようやく承知させた、代価は当時の 市価より一割も高かったそうだ、其の上、板囲いにセメントの広告までしてやった、 今、憶えば隔世の感がある。
やがて根切も出来上り基礎工事が始まると驚いたね、何百本かの長い外濠電車の線路から外した古レールが持ち込まれて毎日毎日 カンカン々々と錆落し、往来の人達ちは何をやってるかと盛んに節穴から覗き込んだ、そうして清潔になったレールは、サンドリに組まれて、 一、三、五、のコンクリートで固められた、何の事はない鋼骨の入れてある人造石の素敵もない大きいステだ、西洋ではグリレージとか 洋式基礎とか言うのだそうだ、而て柱下は二重にも三重にも固められて地中から柱となる鉄筋が建てられた、丸棒は一寸から二分まで それぞれ配置された、何れもよく錆を落しセメント液を塗り 丁寧に組立てたものだ。
コンクリーートの配合から練り方まで注意に注意して砂利は二回洗い、砂まで洗うと言う始末、 練り方でも少なかろうものなら大目玉、実際、 馬鹿々々しい気の長い仕事と思った、併し、出来上ったコンクリートは立派なものだった、 仮枠の板目までが見事に転写されて、全く磨きのかけられた石の様で、薄すぺらな、焼き過ぎ煉瓦等でお化粧するのは勿体ない様であった。
で、尚一つ驚いたのは足場であった、主人公の新工夫で鉄材を主としたる釣り足場である、恐らく我国の建築では初めてであろう、 勿論此頃こそ、丸ノ内では珍らしくないが、実際、僕等の知って居る範囲では銀座のお店の建築程、深切に、熱心に丁寧に 出来上ったものは近代にないと思う。
噺は少し脱線する様だが、其の時分、幾度かおんぷして上げた、敬ちゃんが、今日は成人せられて英国に留学せらるヽ様になったのは 感慨に堪えない、折角自重して我等が村の良い後継者となられる様に、僕等も君の為めに大いに建設をやっておく。
(続き)1923年3月号
「べら棒め!!!人造屋にタバコも休みもあるものかい、セメンを練り始めたら片の付くまでやらなけりゃ セメンが風を引かあ!!!」
この意気地があって始めて立派な工事が出来るのだ、だからコンクリートを練り始めたら最後、槍が降ろうが矢が降らうが 区切の付くまでは、一気呵成に仕遂げるのが僕等の役目であり又覚悟である。
鉄筋工事で今でも忘れないのはお店の二階の床を打った日だ、その前日「明日は大コンクリ、仕度はよいかい」と、 材料は勿論のこと人夫の手配もその部署もすっかり調って「晴」の天気予報に勇みに勇んだ。
明くれば当日、薄暗い中に月島の家を出掛けて銀座に来てから全く明かるくなった、天候は予報通りの好天気で工事を始めた、所がさぁ大変!!! 仕事も半分の十一時頃から曇り始めた、雲足の速さたちまち墨を流した様な暗さになるとやがてゴロへゴロへと鳴り出したと同時に 大雨沛然として車軸を流す有様、雷鳴ますへ激しくなり遂には向う横丁の三十間堀に落雷したほどの大騒ぎであった。
折角打ったコンクリートは遠慮なく流れ始める、階下ヘはセメンの瀧が落下する、この天変地異の真最中、平気の平左で 「セメント」!!!「砂」!!!「砂利」!!!と号令勇ましく仕事を継続して主人公が上を下ヘと配給してくれる角砂糖のセメント漬けに なったのをほうばりながら、とうへ床を打ち上げた勇気には恐らく鬼神も泣いたであろう、実際仕事が終った時は僕等は勿論主人公も 佐藤さんもセメント液でびっしより濡れ、二目とは見られぬ姿であった、楠君も其時分はまだ可愛いゝ小僧さんで大いに手伝ってくれたものだ。
また建築生の自慢話でお聞き苦しい、否お読み苦しい所は御勘弁を願う、が実際コンクリートエ事の急所は、 水を注がれたセメントが硬化を始めぬ前にちゃんと練りまぜたものを仮枠の中に入れ掲き固めて仕舞うのにある。
村の消息 1923年6月号
英学教授
大講堂の落成に先立ちて従業員へ英学教授は開始せられた。 絶倫なるエネルギーの所持者たる店主は貴重なる寸暇を吝まれず親しく教鞭を採らるる。間に合せである教室は多数の生徒を収容する事の 出来得ない恨事は、………知識を外来に得ようとする人ばかりでなく一般的に必要に迫られつつある時代に、如何に現在の受学者が他の 従業者の羨望の的とならざるを得なかった。……… 切実に講堂落成の速かならん事を祈る。
第二期講習会
第二期タイプライターの構造及その調節に関する講習会は本月一日より開始せられた。前回の如く庄野篤朗氏主任講師の下に助手として 営業部の田中千代造氏が熱心講習を担任せられ傍ら店主が英字の手解きを教えられつつあった親切を特記する。 講習生は遠来の方々であったので建築中の一棟を宿泊所として急造する為に少からす木工部は繁忙を極めた。 昨年に比して長かった講習期日はつつがなく終られて、御園本邸の慰労会と記念の撮影を採られて二十日帰国の途に着かれた。
スペシャルボーナス
不景気来と事業縮小と失業問題にて毎日の新聞にて脅かされて居る時代にあたかも奇蹟のような事実は吾等が村のスペシャルボーナスである。 本月上旬最近の入店者を除いて一様に破格の金額を店主より贈与された。言うまでもなく一般緊縮を旨としなければならぬ時節がら、 絶対有益の使途に当てられん事を編集子が老婆心までに添えておく。
夜警の一夜 A生
1924年1月号W6 万物みな凍るかと思われる寒い夜だ、武蔵野名物のからかぜはビュービューと池上の丘を越して吹いて来る。
カチカチ、 カ、チ、夜は追々更けて舎宅の燈火も一つ、二つと消えてゆく、厚く凍った地上の淋しさは何んとも言えない。
舎宅の大通りから消防小屋の前を、それから今日も昼間一日働いたなつかしい工場は異状がないかとA館の変圧室に気を配り出入口は何れも しっかり押して見て戸締り厳重なのを見屈ける。
カチカチ、 カ、チ、淋しい地上にひきかえて冬の空の賑かさ、今夜は名残りなく晴れて天に一点の雲もない、星の観望にはもってこいの好天気。 白、黄、青、赤、とりどりの色で輝いているあの星ぼし、どれでもみんな何千万億兆里を三ツも四ツも乗け合せたほどの遠方にある太陽だ、 しかも大きさも光度も我が太陽の何十倍、何百倍と言うのだから自分の小微を感ぜざるを得ない、洪大無辺の宇宙と言うが恐らく 形容する詞はないのだろう。
何んと言ってもオリオンは冬の空の大建て者、今は丁度頭上に雄姿を現している三ッ星の剣をさげた風采はギリシヤの神話で猟夫だとの事だが、 大犬、小犬、の両星座を引率しているから尤もな事だ。
頭上から少しく西に六つ七つ密接しているのは七人の美しい姫君達が手に手をとり合って広いひろい天界の舞踏室ではしゃいでいるとか言う プレヤデス、一寸往って見たい様な気もする。頭上からは北西に行儀正しくW字形に列んでいる可愛らしいカシヲペヤがいる、北斗七星はもう大分 高くなったから十一時も過ぎたろう、この星さえ輝いているならば僕には時計は無用である。
カチカチ カ、チ、先刻から黒い影が見えたり隠れたり後から来る様な気がしたが彼は今、はっきりと向うに佇んでいる、果して曲者!! 近く寄って誰何してやろう。
「どなたです!!」返事がない、
「どなたです、何の用です」
怪しからぬ奴だ、正体を見届けてやれと一層近寄って見ると旦那様だ、にこにこ笑っていらっしゃる。
「今晩は、御寒う御座います」
「御苦労様、別に異状はないかい」
「はい異状はありません」
「では帰ろう、宜しく頼む」
と言い残して北極星の輝いている本宅の方へ消へてしまった。
もう程なく十二時、僕の当番も終いになる、それまでは星を友として愉快に勤務しよう、カチカチ、カ、チ。
御奉公を終えて 藤井利一 1924年3月号
麗らかな、のどかな、春が恵まれました。それでなくとも何時も春の様な平和な吾等が村へ、私は三ヶ月の 軍隊生活を済ませて帰って参りました。
私は健康と幸福とに輝いている、吾等が村の人々をどんなに憧れたことで御座いましょう。
わけもなく兵舎の蔭に沈んで行く太陽を見るに付け・・・毎月御主人様から送って下さる『吾等が村』誌を班で淋しく 読むに付けても・・・。御奉公を終えてこの村へ帰りました時、僕は丁度、そうです、それは砂漠通行者がオアシスヘたどり 着いた心地であろうと思われました。
翌朝から工場に出ると、アノ薄暗い班にひきかえて明るい明るいこの工場、アノ班長殿の光った目も無ければ堅苦しい 律則も無い只慈みの愛にもえた人々の瞳に迎えられるので御座いました、自由だ!幸福だ!腹から叫びたくなりました。
休憩時には相変らず熱心なボール。それも色々な工場の進歩と共に長足の進歩をしているのに目を丸くしました。少し 歩みました、桜はチロリチロリもう紅い火をとぼしております、スウッと爽かな春の風が吹いて行きます、アノ富士の嶺はと 見れば晴れ渡った西の空のあなた遥に灰色の霊峰が甲武の山々の上に聳えている、茫漠たる周囲遮るものもない、オヤ学校の 建築がもうあんなに出来ている僕は驚きました。
べルが鳴ると又工場で働くに余念もありません。
舎宅の方へ行った時鶯か何かの鳴声がしました、村は静かです、幼稚園からはコーラスのメロディが流れて来ます。
僕は鶯の様だった今島様を思いました、隊へも御便り下すったっけ、僕は今島様に逢いたくなりました、けれども今は祈るより 外ありませんでした。 (十一年三月)
東京から (一) K 1923年12月号W8 屋上の庭園、著しき都会の進歩で最近では余り珍しくもないが、つい四、五年前までは、都下の新聞社がわざわざ 写真班を向けられて、屋上の庭園で夕食後の店員がボールの遊技振りを撮られた、翌日の朝日新聞には立派なる写真版と共に 狭隘繁雑なる都会の大建築には是非共なくてはならない、とまで賞えられたものだ。
それかあらぬか近頃では相当大きな建物では大分屋上を庭園に利用するようになった、同じ地上でありながら一切の拘束を免れた ような気持ちのする楽園は我等が前には一ト昔も前から与えられて有ったのだ、何事にも人の意表に出て先鞭を付ける我等が店主は いささか自画自賛だが確かに当代の先覚者と言い得る事が出来よう。
(その当時の新開記事と写真を転載したいと思ったが事情が免さないので割愛した) 1922年12月号
英文欄
本欄は技術上もしくは文学上有益で趣味もありかつ諸君の職務上必要な知識となり、 又は語学研究の資料となる様なものを引続き掲げます。それ故なるべく保存して置かれる事をおすすめいたします。