黒澤工場見学
26年 2・6 御木本美降
26年 2・6 御木本美降
黒沢工場見学 二六年 ニ・六 御木本美降
同行者 小竹幸作 上田仮三 安薔薩雄 浜田大郎
蒲田駅に近い工場は二万坪、その中半分は住宅区域となって居りかつては百二十軒の工員住宅あり、現在八十軒残っている。 現在家族数千二百、黒沢敬一氏もその中の一軒に住んでいる。此の大きな厚生施設に投じた費用は工場に投じた費用と同額である。
全国の模範工場と認められて居る。現在従業員数百二十名昔も今も変りない、親子代々此の工場に勤めている。 工員はすべて工場内の住宅区域から通っていて外からは通はない。幼稚園と小学校がある。
各家庭は十坪あての菜園を待って居り、工場敷地の半分はかかる菜園である。此の敷地は工員三百名になる見込で作った。 工員百二十名中八〇%は二十年以上の勤続者である。
昼食は上下共に大食堂で一品料理を食する、風月堂のコック長が紹介した現炊事係は工員の為に美味かつ栄養豊富な食事を供する。 黒沢氏は十六オでアメリカに渡り帰国後今日の仕事を作り上げた、常に家族主義に徹し一業主義者である。本年七十六オ心身共に健全で、 毎朝八時半に電車で出動し工員各人の勤怠までしらべる。
会社は会議が多く経営者は組合と対立し之又会議を続け貴重な時間を潰す、 個人商店の特色は主人に奉仕の精神があれぱ事業の全責任を一人で持ち労資共に理想郷に達する事が出来る。 事業は御客様無しには成り立たない、御客様は何時も最も良い物を最も安く買いたがる、其の最も良い物というのはむつかしい、之には精神誠意、 忍耐をもって努力するより外はない。
特別な主人室はない、工場の一部に黒沢さんの机が置いてある丈である、背後には戦没工員達の写真が掛けてあり、黒沢商店の歴史を 語る多くの写真も壁にある。 御木本は震災と第二世界大戦の折二度黒沢さんのビルで仮営業した。その析の祖父が店員と一緒に会食をしている写真がある。
工場内部は整然と整頓がゆき届いてほこりも屑も無い、機械は磨きたてられピカビカ光っている。主人が中を歩いても誰も見むきもしない、 しかし別に忙しい様にも見え無い、我々の目にも良い仕事をしているという事が判然わかる。工場内部は禁煙である。 機械は危険防止の為金網で安全装置がほどこされている。 私の道楽は機械道楽ですという、無駄な機械は買わないが、必要ならぱ唯一つ世界最高のものを買い、 どの機械を見ても世界一流のメーカーのマークが入っている。
ここでは主人も工員もない、部長も係長もない、肩書がなんであろうと皆自ら体を動かして働いている。 どんな高貴の方が見えようと、接待の為に工場をみださない、門を入れぱ何人も黒沢の法律に従わなけれぱならない。 工員は子供の時から工場と共に育ったのであるから誰でも何でも出来る従って製品により製造工程が如何に変ろうとも人員配置に苦労はしない。
テレタイプやタイプの仕事は無事故と高性能を必要とする、良い品を作る為には多くの仕事をしない、 今日も昔も百二十人で然も今日の大をなした事実を深く考えるべきである。
エンヂニヤは二、三名いるそうであるが機械の改良、発明、新機械の製造など総て主人が指図Lて居る。 見渡した所中年以上の男女が多く、皆余裕のある気分で仕事をして居り黒沢の風を身につけている。健康状態も良く不平者の顔は見当らない。
この工場は基礎工事に出来る丈の費用を投じ屋根は嵐に耐え得る程度に軽くした、地質の悪い所だが普通の地震は感じない、 中地震は多少工場全体がゆれた程度に感ずる、大地震でも壊れない、「岩の上に建った家ですから風雨にあっても壊れません」と聖書の話をされた。
黒沢氏は借金をしない、あくまで自立主義の人である「私は年金にも入っておらず、 生命保険もかけていない。幾ら働いても税金にとられてしまう然し天国の預金は相当しているつもりだから私は死んでもおそれない」と。
日清戦争の時は持ち金といえぱボケツトに入っているだけ、全財産たる五ドル金貨を献金した、 今度は(日露戦争)二十萬円を献金しようと思ったけれどもそれでは賞与も月給も出ませんと会計に言われたので十萬円だけ献金した。
工場の時計は五分間遅らせてある。震災の時に時計が五分遅れていたために工員達は食事に行かず手を洗っていた、その為多数の人員が助かったから、 あわてるなと言ってあるのを記念して時計を五分間遅らせてある。 私は商品を作る機械を大切にします、然し機械を動かす機械(人)はもっと大切にします。