1941年 太平洋戦争開始
1944年(昭和19) 三月、国民学校令の施行に強く反対し、黒澤小学校を閉鎖。
1945年 四月、校舎は空襲により焼失。
1946年 一月、黒澤ビルは米国赤十字社が使用のために東京特別調達局により接収。
1952年(昭和27) 二月、接収解除。
古くから銀座6丁目で独特の建物だった銀座の店が,接収解除されてから氏は午後そこに出かけられ, 精根をつくして変りはてた建物を懐かしいもとのものにするべく自らコテを握って復旧修理に当られた。 (「黒澤貞次郎さんの追憶」大内誠三)
1953年(昭和28)
・・・正月元旦年賀に近親達が集まられた時は殊の外上機嫌で珍らしくにこやかに笑いながら昔の思い出話や・・・ 銀座営業所の修理苦心談にふけられたが,惜しいかなその晩脳いっ血で倒られたのである。(「追憶」)
1953年1月26日午後4時45分大田区調布嶺町1丁目94番地で死去
・・・枕頭に集まる肉親の全部の方々に見守もられつつ78才の大往生を遂げられたのである。
御子息達は氏が生前水薬と称して最も好きであられたビールを父の口にふくませられた。(「追憶」)
月花を残して眠る夢を見て 米の寿 結ぶ老松 (貞次郎辞世の句)
告別式は2月2日午後1時30分より思い出深き銀座6丁目の黒澤商店に於いて盛大に行われた。大島委員長の挨拶,岸田牧師の聖書朗読,讃美歌,次で 遺族総代,従業員総代,御志の方々の焼香が極めて簡潔に行われ,弔詞には日本電信電話公社総裁,東京ロータリークラブ会長,同志社総長のものがあり, 弔電,弔詞捧呈の後讃美歌があって大島委員長の挨拶があった。その時に伝えられたことは,霊の置かれた位置はかつて故人が長年の間営業所で座って おられた所の位置であること,また霊の白布に付けられた黒リボン上の金のネクタイピンは,最近スウェーデン国王70才の御誕生に当り国王の名前で ストックホルムロータリークラブより日本のロータリークラブ会員中最も貢献のあった人にあげてくれと送られて来た唯一つのものであることが公にされた のは列席者に多大の感動を与えた。(「追憶」)
2月13日内閣賞勲部から故黒澤貞次郎氏に対しその生前の功績をよみし従六位勲五等瑞宝章が授けられた。 (「追憶」)
「いくら税金関係でソンをするからといっても、私の目の黒いうちは事業を法人にしたくはない」 (アサヒグラフ 1950年4月)
画像 アサヒグラフ1950年4月号より
「世間ではわたしを、大変な金持ちかなんぞのように思っていますが、金持ちでも何でも御座んせん。ただ一生懸命に商売をはげんで、 出来るだけ税金も納めたいと思っとるだけなんです。わたしより外に、いくらでも金持ちで、いくらでも稼いでおられる人はありますが、 そんな方はみな法人組織(会社)にして然るべくやっておられますから、わたし共のようなものが、つい全国一の納税者ということになってしまうんです。 税金はなかなかに高い。しかし、正しく計算してみると、それが法的に正当なものとなっており、いやがおうでも、そう決っとるから、そう出さんならん。 税金を払ってしまえば、それこそあとには一銭も残らん。それでも、生命までもということにはならぬので、一人前に喰わして貰って、働かせて貰って、 社会に貢献させて貰うんですから、まア有難いことですよ。わたしが全国一になったというのも、わたしが全国一に儲けたわけでなく、 ただ全国一に要領がわるいか、 全国一に正直者であるかというだけなんです。ねえ、そうじゃ御座んせんか。」
(「新版富豪物語」 岩倉実三 月刊「オール生活」1953年2月号 タイプライターとともに五十年)
「私は今まで個人経営をやってきた。人からもなぜ法人にしないのかと問われるが、家族的経営を絶対正しいと信ずるから、 私の生きている限り、この方法は改める必要はないと思う」 (「実業の日本」1951年5月1日号)
貞次郎氏(75)はロータリー・クラブの熱心な会員。自動車も持たず、毎日、八時前には電車で工場に現われる。米国の スタンウエイ・ピアノ会社や、独逸のカール・ツァイス工場のような工場を作るのが念願で停年制はなく、七、八十歳の人まで働いている。 (「週間朝日」1951年5月6日号)
資本は絶対に他人に仰がない主義を奉じてきた氏が、無理しないで自然の理に即応して、今日の大をなしたのにもいわれがある。 サー・ロバート・ボールという人の書いた、「ストーリ・オブ・ヘブン」(天体の話)*は、氏の伴侶の書であった。これには太陽系の話、恒星との関係、 天体の運行などが、書かれてあるが、悠久の何千万年という天体は、常に一定の法則にしたがって、その活動を休むことがない。人類の繁栄もすべて、 これに学ばねばならないというのである。 *“The story of the heavens”Sir Robert Ball(「実業の日本」1951年5月1日号)
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黒澤貞次郎は個人経営を守り、株式会社への改組を絶対に拒否し続けるという、頑固な一面があった。 この結果、戦後の非戦災者税及び死後の相続税で、極めて過酷なる支払を余儀無くさせられた。
貞次郎の死後、遅まきながら株式会社への改組に踏み切った。
十月一日、株式会社黒澤商店が誕生した。(「くろさわものがたり」)
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K-2
1956年(昭和31)
十二月、株式会社黒澤商店と富士通信機両社の間で合弁会社設立に関する覚書が調印。
1957年
二月一日、黒澤通信工業株式会社が誕生。
・・・黒澤商店蒲田工場を新会社に移管・・・この時点での移管従業員は120名であった。
付属の従業員社宅、学校等はこれと切り離し、逐次売却して相続税の支払に充当した。この処理に六年程の年月を要し「吾等が村」は消滅した。 (「くろさわものがたり」)
S-2
1965年(昭和40)
電算機の業界も急進展し新会社も蒲田の土地が手狭となり、南多摩へと移転した。この時の従業員は四百名を数えた (「くろさわものがたり」)
1976年(昭和51)
ここも手狭となり、福島市郊外に移転。社名も富士通アイソテックと改称された。 (「くろさわものがたり」)
1979年
銀座黒澤ビル解体
1980年
8階建て新黒澤ビル完成
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