「ああ黒澤さん」 渥美育郎
東京ロータリークラブ週報 昭和28年2月 第40号
「本当に惜しい人だったね」、「モウ是からあんな人は出ないナ」。
黒澤さんの訃をきいたロータリアンーー恐らくロータリアン以外でも 君を知る程の人たちを挙って異口同音の歎声はこれでした。
私と故人との辱知は専らロータリーを通じての過去30年間でしたが、年を重ねる程に君を尊敬し愛慕する心持はいよいよ強まるばかりでした。 しかも人に対し世に処する君の挙措態度というものは、そこにいささかの衒(てら)いもなければ何の工作もない、まことに天真爛漫の発露であって、 私は常に君を以て「平凡なる偉人」と呼んでいたのでした。あのえびす様のようないつも笑をたたえた童顔に、ゆったりとした静かな物言い、 仕事の上でも又交際の上でもあの通りの偽りのない気持でその生涯を貫かれた事と思います。
但し又その半面には、いやしくも道理に外れた邪悪に対してはまた酷しい反抗をも敢て辞さなかったろうと思われ、 私などはお付合いの性質上ついぞそんな処を見た事もありませんが、 定めて永い公私の御生活に於て時には雷のおちる事も往々にして存しただろうと想像も出来ます。
かつて故米山翁から聞いた、故人があの大を以てしても尚かつ身を持すること只管(ひたすら)に謹厳、浮わついた奢侈や享楽は極度に これを戒めながら、しかもその従業員の福祉や国家社会への奉仕貢献のためには又財をおしまず正義一途にその範を垂れられた様々の事実、 更には君の御死後に於てその知己友人たちが二人寄り三人集まれば必らず話の出る君が過去の奮闘苦心の思い出、数々の他に比類なき美事佳談、 今更ながら「ああ真に得やすからざる人だった」とその都度一同は等しく粛然とするのであります。
終りに、御生前君としばしば語り合った一笑話を付加えますと、かつてロ-タリーの同好者が当時会員だった吉住小三郎さんを中心にして 時々催した長唄天狗会というのがあって、「長唄うぐいす派」と称して別に一派を樹て右の小三郎さんにも「鶯小三郎」という名取りの免状を 伝授するという凄まじい集団でしたが、故人は専ら洋楽の音譜から克明に独学された一流の唄いぷりで、万年筆を常に指揮捧として 自身の唄を身ぷり手ぷりタクトして居られたその可憐な滑稽さは今も目先にチラつくのですが、その頃の或年私は偶然君と大阪の出張先で出くわして、 直に君を拉して某所で長唄の競演会をやった事がありますが、その夜は彼の名曲「紀文大尽」のみを立て続けに数回もくり返し唄いつづけて、 各々自己陶酔の佳境をほしいままにした事がありましたが、頓(つかれ)て連立ってホテノレに引揚げたその夜半から俄かに天地鳴動して降るわ吹くわ それが阪神一面かけてのあの名だたる大風水害を惹起したのでありました。
丁度あの「紀文」の中のみかん船が遠州灘で大時化に遭ったくだりと 思い合せて、まことや我等入神の技は遂に雲をよび風を起せし次第にこそと、二人は鼻高々と笑い興じたのでしたが、そのため小三郎さんから その後両人に「紀文」の唄を封じると申渡されたなどという冗談の追憶もありますが、こんなほほえましい半面をも君は豊かに持って居られて、 それが又更に君を円熟した潤おいに色どったものと思われます。
ああ黒澤さん。君こそは本当にロータリアン中のロータリアン-――恐らく世界に求めて幾人と得難い正真のロータリアンであって、 心からなる敬慕の情はとこしえに吾等同人の胸に消えない事でありましょう。 謹んでここに尽きざる追悼を捧げます。