「祖先から教えられた
『積善の家には余慶あり』
との格言は私への唯一の遺産であります。私の両親は非常に善人でありました」(「黒澤貞次郎氏講演概要」)
1875年(明治8)
黒澤貞次郎の祖先は常州水戸に在住した。父慶助は幕末の動乱で東京日本橋に移住、 深川出身の妻トメとの間に貞次郎が生まれたのは1875年1月5日のこと。
7歳半で母トメを亡くし、10歳のころ日本橋の薬問屋へ丁稚奉公。
時代は英語が必要になってくると考えて一年二回、やぶ入りの時に小遣として金二十銭をもらう。それで英語の独案内を買って暗記する。 石油ランプの二分芯という最小型のものを求めて二階に置き、夜八時頃お休みなさいといって二階へ上ると,そのランプで独案内を読み、 覚えにくい字は腕をまくって奥の方に書つけ置き、翌日お医者さんへ薬を届ける荷車を引きながらこれを暗誦した。 (「弔辞」中村幹治)
かくして年期が明けて・・・お店の番頭格に出世するので羽織袴を作ってくれるのが吉例である。所が・・お店に番頭として止まりたくない、 是非米国へ渡って見たいので仕度料を現金でもらいたいと申出た。
(「弔辞」)
1893年(明治26) (数え年)19歳で渡米、シアトルへ
「19才 ヨコハマ タツトキ」と裏書のある写真
「・・・小さな私が昼間一生懸命大人と一緒に働いて一ドルの銀貨に変ります、併しそれでは到底自分がこの村で望んで居った事が出来相に有りませんでした。 何分物が高くてその日一日で一ドルの銀貨が解け消えて仕舞うものですから、それで私も考えさせられて今度は少し余裕を作る為、 昼の労れを推して夜の仕事をも働らく様に致しました。
一体その昼の仕事はと言えば御存知の鮭を缶詰にするのです。今と違ってその時分は可成りな労力が働らく人々に課せられて居りました。 夜の方はと言えば、是は又昼間仕事の材料にする鮭を舟から陸へと上げるのが夜の仕事と定まって居りました。 今ならクレンか何かを使ってどしどし片付けるのですが、その時分の事です、舟から陸へと一匹一匹捕かんでは投げ捕かんでは投げしたのです。 そーした様な仕事の為に全く一日を働き通しに働きました。何しろその時分に自分が小さな室のベッドに腰を下ろすと十二時の時計を聞くのが常でした。
そーした日を一日続け二日続けして自分の願いを追々達して行くのを楽しみにして苦しみを忍んで行きました。・・・」 (「秋の夜の集い」、「吾等が村」誌より)
1896年(明治29)
太平洋岸に上陸してまず,芋ほりをやった・・・ そのうちに農事の手伝いよりも鮭漁の方が収入がよいというので更に北上して働いていたら多少の貯金が出来た。 時あたかもニューヨーク行きの鉄道が三線共に競争をはじめ,東へ東へ二十五弗という宣伝であったからこの時とばかりニューヨークに向った (「弔辞」)
エリオット・ハッチ ブックタイプライター社に就職。
ニューヨークでは家事手伝いに廻るうちエリオット氏に気に入られ同家に継続して働くことになり, 一年ばかり過ぎると学校へ通わしてやるということであったが・・・あなたの工場へ入れて下さい、と頼みブックタイプライターの工員と・・・なった (「弔辞」)
1899年(明治32) ひらがなタイプライターを発明
「アルフアベツト」大小文字数と「いろは」の文字数は、略同数であり、欧文を和文に変えるには、 単に活字を置き換えることで済む。
しかし当時は日本文を横書にする慣習はなかった。縦書きの要求を満足させなければならなかった。今では誰もが当たり前のことと思うが、 活字を90度横に向けると共に用紙を横に寝かせることで、縦書きを可能にした着想は高く評価される。今もワープロに使われる技術である (「くろさわものがたり」黒澤張三)
「日本字のタイプライター」
貞次郎が発明した「ひらがなタイプライター」を紹介する1899年9月3日付時事新報
・・・その当時タイプライターが創作時代より実用時代にようやく入った時で、又米国の子供たちが文字の簡易の為、 いかにもたやすく小学教育を受けつつあるを目撃して、我国でも漢字を廃し、 かなもじを採用したらばと強く感じたのがタイプライター業に従事する動機でありました。
で、1896年ニューヨルク在留中「エリオット、ハッチ」の工場で段々と研究をつづけ、1898年の末には機械らしきものが出来あがりました。 電信用という考えがなかったのでその書体は「ひらかな」でありました。明治三十二年九月三日時事新報がその紙上で、 かなもじタイプライターの発明を紹介しました
(「タイプライターの沿革」黒澤貞次郎)
・・・今更申すまでもなくタイプライターはヨーロッパ及びアメリカに広く用いられ、その特色の一、二を挙げれば、 速やかに書き得ること達筆の人も及ぷべからず、明らかに書くこと能書の人も比ぶあたわず、故にこれを読む者の時を省き誤りを除きその便利なること、 一々挙ぐるを要せず実に文明の進歩に欠くべからざる機械と存じ候。
我等いささか感ずるところあり、世に先んじて日本字タイブライターを造り侯へぱ御賛成ありて御友人に御披露下され候へば幸福に存じ侯。・・・
1899年8月9日、東京盲唖学校校長 小西信八氏宛の手紙(原文はひらがなタイプライター印字)
1901年(明治34)
2月、タテ書きカタカナタイプライターを製作。
・・・続いて翌三十三年七月、逓信技師大岩弘乎氏にもお見せした、 その時同氏は、自重して大成せられる様大いに奨励してくれました。また同氏はカタカナ機を作る様、注意をしてくれました。 それから六ケ月の後カタカナ機が出来ました。(「沿革」)
(上)エリオット改造型カタカナタイプライター、逓信博物館蔵
(右)同機を使用した日記1901年2月
エリオット・ハッチ
ブックタイプライター
1901年
6月、エリオット・ハッチブックタイプライター10台余りと同社日本総代理権をもって帰国。 京橋弥左衛門町(現、銀座4-2並木通り)に黒澤商店開業。
1904年8月18日発行の広告
「商人の儲けは第ニであって、 社会奉仕が第一であらねばならぬ」 (「我が社の標語」黒澤貞次郎)
開業当初は店主兼店員、テーブルも椅子も機械の空箱で代用するも、卓上旋盤を一台備える。以来、迅速な保守サーヴィスを座右銘とし、 この卓上旋盤は現在(2008年)も銀座ビルに保存されている
「商人は商品を売って、金さえ取って仕まえば後はドウでもよいと云うものではない。 その売った商品に対しては、あくまで責任をもたねぱならぬ。もし私の店で買った商品にして、誤って悪い品があったとしたら. 私の店の全資産をもってするも、私はその人に対して迷惑をかけない覚悟である」(「標語」)
1906-7年(明治39-40)
銀座表通り(尾張町2-1、現、銀座6-9-2)に土地を取得、それに隣接した尾張町2-2/3へ店舗を移す。
尾張町仮店舗
1907年3月1日時事新報 広告