大田区史研究「史誌 31号」
特集 田園都市ー蒲田工場村の記録
座談会「吾等が村」を語る 黒澤宏、小林成行、尾崎真幸
黒澤工場の記録について
「史誌 三一号」黒澤工場の記録について
黒澤張三
先般の「史誌三一号」にて黒沢工場及びその付属設備「吾等が村」につき紹介をされましたが、せつかくの企画ですが、事実と相違の点があまりにも多いので残念に思います。
面白いこと本位の週刊誌の座談会の記事ならいざ知らず、公式の区史に関することならばいささかも史実と異なることを許されず正確を期さねばなりません。
特に、伝記のなかで、幼少の頃の環境、体験はその人の生涯の行動に大きな影響をもたらすものであり、その事業の背景を知る為にもその正確さは重要な要素となります。
初めを誤ると、辻褄を合わせる為に、次々と誤りを重ね、歪みが拡大されてしまいます。
更に、写真の説明の誤り、製版作業の誤りは特に事実に大きな影響を及ぼします。厳しい責任を負うべきものです。
家系
黒澤家に残された過去帖によれば、元禄の頃から記載されているが、当時としては珍しく七十才、八十才の長寿を全つとしうた者が何人かみられる。父貞次郎は明治八年生れ、昭和二十八年没で享年七十八才であつた。
慶応のころ、常州水戸より日本橋大門通りに移住した慶助を父とし、深川の亀沢家の二女とめを母とし、その間に誕生している。
明治十五年八才のとき、母とめを失う。やがて父慶助は深川に移住し、明治四十五年その地で没している。黒澤家の墓地は両国橋を渡つた少し先の左側、今の墨田区緑にあり、震災前は母とめの命日八月一日に家族そろつて墓参するのが習わしであつた。墓は昭和の初めに多摩墓地に移し替えられた。
小僧奉公
貞次郎は十才の頃(明治十七年頃)より日本橋の薬問屋に小僧奉公で働き、小学校の授業出席も思うにまかせぬ時もあり、その為小学校卒業も果たせぬ事態であつた。
明治二十六年、十九才(数え年)のときに漸く小僧奉公を終え、番頭格に出世を機会にその祝い金(羽織、袴代)を渡航費に替え、予てから念願の米国に渡つたのであつた。
「史誌三一号」にて、家業の薬問屋の手伝いをし、坂本小学校を卒業、二十四年十六才にて渡米し十九才で一時帰国、再び渡米したという此等のことは事実を証する資料は無い。
それまでの黒澤家の家業は詳らかでない。家業の手伝い等の生易しいことでなく、他人の薬問屋での小僧奉公での辛抱の体験である。
二十四年十六才は満年令で数えている、十九才で再び渡米は日清戦争の真最中であり徴兵適齢者がそのようなことは出来なかつたであろう。当時は年は数えで数えるのが通常、満で数えるのは、後からの工作と思われる。
掲載写真は「一九才 ヨコハマ タツトキ」と裏書きがあるもので、数え年で数えれば、以後の社会事情と符合してくる。
米国上陸・タイプライターとの出会い
シアトルに上陸、暫くはその地で労務仕事で過ごしたが間もなく、故国では日清戦争が始まつた。その戦勝を祈願して何にがしかのお金(一〇ドル)を献金したといわれている。
明治三十年頃ニユーヨークへ移動した。当時の大陸横断鉄道の運賃は二十五ドルを要したといわれている。
その地で幸い、エリオツト・ハツチ社に務める機会を得た。生涯をそれと共にしたタイプライターとの出会いである。
その製造技術を習得する傍ら、平かな文字のタイプライターの試作を心がけ、明治三十二年にこれを完成させている。
「史誌三一号」にて、無蓋貨車での大陸横断とされているが、敗戦時の難民輸送ならいざ知らず、当時で四日間をも要した行程では考えられない。当時ヘア・カツトが二十五セントであつたという。二十五ドルはその百倍。今ヘア.カツトは二千円、その百倍は二十万円になる。米国までも飛んで行ける価値である。どうして無蓋貨車なのであろうか。
藤倉電線創業者松本留吉翁の伝記によれば、
当時の横浜 米国西海岸の渡航費は三等船客(二段ベツド十名合部屋)五十円であつたとのこと、当時の為替相場一ドル二円で換算して二十五ドルになる。二十五ドルはそれほどの貴重な価値のものである。
黒沢商店創業
明治三十四年六月帰国、京橋区弥左衛門町に店舗を構え黒沢商店の営業を開始した。
明治四十年銀座尾張町に土地を得、そこに仮営業所を移す。明治四十一年再度渡米、桑港経由シカゴ、ニユーヨークを視察、商談を済ませ帰国。銀座尾張町に、わが国最初の鉄筋コンクリート事務所ビルの建設にかかる。
工期を三期に分け、第一期を明治四十三年十二月に、第二期を明治四十四年十月、最終三期を大正元年十二月にそれぞれ完成した。
これが終わると直ちに蒲田の工場建設計画に着手した。
「史誌三一号」に明治四十一年再度渡米は丁度桑港大地震のときとあるが、桑港大地震は一九〇六年で、その二年後の訪問が正しい。
そこには、当時横浜正金銀行桑港支店に勤務していた義理の兄、穂積太郎の案内を受けての視察である。
銀座黒沢ビルが明治四十四年完成とあるが、それは大正元年十二月が正しい。
蒲田工場
太田区史として大切なのは、この背景の基に建設された工場村「吾等が村」の事実である。
工場は二万余坪の敷地買収と田圃地の土盛り作業に年月を要し、工場本体(鉄筋コンクリート平屋建、二棟)が完成し操業開始は大正七年である。
蒲田の自宅と庭
これより先、御園に二千余坪の敷地に自宅の建設を大正四年暮れに完成し我等家族は築地明石町より移住した。私が四才の時である。
私はそれから昭和十九年結婚までの凡そ二十八年間をその住居で過ごした。
そのころ二階の窓からは遠く富士山も眺められ、夏の夜空には星が輝き、茂みには蛍が飛び交うような場所であつた。
主建屋は木造二階建て、それに離れ屋と倉庫と庭師の家が付属していた。
二階の南側の三部屋は普段は家族の寝室であつたが、襖を開くと大広間となり、従業員の新年かるた会の会場にも提供された。
庭には広い芝生もあり、新緑の侯には従業員の園遊会の場所としても使われた。
「史誌三一号」に高床式地下室で鬼ごつこをしたり、物干し場にしたとあるが、それは誤り、そこは随所に上下から梁が出て、子供といえど遊び回つたり、物干しが出来る場所でなく、普段は鍵がかけられていた。子供が悪いことをしたときに、母が「地下室に入れますよ」と戒めに使う場所であつた。子供には怖い場所との印象しか残つていない。
さらに鉄筋コンクリートの応接間とあるが誤り。鉄筋コンクリートは当時しばしばあつた河川の氾濫による出水に対応しての床上げの為の基礎部分(高さ凡そ一米半)と防火の為に台所と浴場の外郭工事のみが正しい。
園遊会は通常は新緑の季節に限られていた。
庭の紅葉の時期も奇麗であつたが、紅葉狩りはただ一回の特別の催しの時だけであつた。
父は用心深い人であつた。秋は食中毒が怖かつたのである。従業員家族も含めて五百人以上のお弁当の調達と、市内から蒲田村まで運ぶ作業は容易なことではなかつた。一番安全のため新橋の「しのだ寿司」(稲荷寿司)と決まつていた。
震災前の蒲田工場と銀座本社との運搬連絡は近くの遠藤という馬力屋さんが利用された。
朝工場を出ると、昼過ぎ銀座に着く、昼の休みを済ませ、荷物を積み替えて蒲田に帰ると一日の終わりとなる。
荷物の運搬に自動車が使われ始めたのは昭和になつてからのことである。
この自宅は昭和二十年五月空襲で焼失した。
今大田税務事務所のあるところが、その一部である。
水道
工場本体の建設完了と共に付帯設備としての社宅、食堂、浴場、幼稚園の建設が進んだ。
然し、現地の井戸の水質が悪く難渋した為、多摩川の近くの原村に水源を求めて水道建設の工事までも行わねばならなかつた。
「史誌三一号」に掘割で導水とあるが、それは誤りで、原村に掘り当てた二本の井戸から埋設鉄管を通してポンプ送水されて、貯水槽で受け、更に給水タンクにポンプで水上げされて、各戸に配水された。
その完成時父は水源でポンプに電源を入れて急いで自転車で工場隣接の貯水槽のところに来たが、水は届いていなかつた。これは一大事と驚いたが、長いこと待つてから漸く水が流れて来た。
水の流れより自転車の方が早かつたという逸話を残している。後で誰かが計算したのであろう、この埋設された鉄菅の中に満たされる水の量はビール壜に換算して八千本分に相当したと言う。良い水を得た「吾等が村」の村人の喜びは大変なものであつたようだ。時あたかも大正十一年十二月二十五日クリスマスの日であつたという。この上ない大きなプレゼントを戴いたと感謝された。
この水道は終戦後、東京都の水道に切り換えられて廃止された。
幼稚園・小学校
教育の神髄は大学より中学、中学より小学校小学校より幼稚園であり、合わせて家庭教育との連携の幼児教育の重要性を認識し、更に自己啓発、生涯教育のことに心を傾けて、自分自身で受け得なかつたことを人に与え、自からは自己啓発の良き模範を示していた。
幼稚園は大正九年の創設である。工場食堂の隣に一室が用意され、鈴木、間の二人の保母により一年保育、二年保育に分かれ運営されていた。
続いて鉄筋コンクリート二階建て小学校二棟の建設に掛かつた。この内の一棟は小学校の教室専用、別の一棟は教員室、図書室、医務室、クラブ室、講堂等で村民の生活相談、生涯教育のために使える場所としても計画がされていた。然し、工事半ばで関東大震災に会い工事中止の止むなきに至つた。
「史誌三一号」に工業学校建設中の被害とされているが、父にはその意図は何も持つていなかつた。自分が小学校の勉強を充分出来なかつたことを思い、せめて従業員の子弟には理想的の初等教育をと願つてのことである。
震災後の工場復旧完成後、改めて別の場所に木造平屋建校舎が昭和六年完成した。
その設備としてスチーム暖房がされていたとあるが、石炭焚き温水暖房が正しい。
また貞次郎が校長とあるが誤りで、校主であり、校長は初代白坂、二代坂本が務めた。
一級二十名を定員とし、先生も同じ社宅に生活しての体制を整えた。
白坂校長には開校の直前に半年にわたる米国欧州の視察旅行をする機会が与えられた。
その学校施設経営概況に教育方針として次の如く書かれている。
一、個性適応の教育。
二、個性の中核は道徳。道徳重視の教育。
三、正しく、豊かな常識涵養の教育。
四、上級学校入学準備教育の排除。
五、生涯教育の為、自啓能力を重視する教育
六、日本個性の体認を重視する教育。
七、自然愛好の情を養う教育。
昭和十八年国民学校令の施行に強く反対し学校を閉鎖した。
児童達は近くの道塚国民学校へ移籍されたが間もなく地方に疎開して行つた。
校舎は昭和二十年五月空襲により焼失した。
ユートピア「吾等が村」
貞次郎はこの工場設備を見学に来た人に次の如く語つて居る。
この試みは単なる福利事業の一部分と考えている。然し世の中はとかく事志と一致せずアアしたい、コウしたいと希望しても中々実現しません。この事業は元来借金して行うものでなく、営業上の正当の利益を割いて初めて健全に発達するもの、毎年の営業が順調に行くとも限らず、時には天災地変もあることでその進歩発展は実に歯痒いほど遅々たるものです。
幸い私の志望の幾分かを実現し得たとすれば誠に幸福です。
経営・管理・給与
株式会社による組織力の活用の経営については関心がなく、個人経営によるワンマンとしての力の活用に生涯執着した。
その一方ではお家芸でもある事務の合理化等は早くから取り入れられていた。
勤労管理には当初よりタイム・レコーダーが使用されていた。初めは振り子式の手働式であつたが、昭和になつて、親時計から連動する電動式に変えられた。いずれも米国IBM社製のもであつた。
給与は二十五日締切、月末払いの月給制度がとられていた。賞与は会計年度の六月より十一月、十二月より七月とし、年度末が済むと十日後にその成績に応じて支給されていた。
即ち暮れは十二月十日前後、お盆は七月十日前後である。労働組合組織があるわけではないし、一発回答そのものである。臨時賞与の支給のこともあつた。
「史誌三一号」に暮れの賞与が年末大晦日に支給されるのが風習としているが、そのようなことは無かつた。機関誌「吾等が村」にも賞与支給日がそれぞれ書き止められている。
戦時体制・終戦・復興
工場は戦時体制下、資材配給の困難を受けながらもテレタイプ、通信用タイプの生産を続行して軍部、逓信省の要望に応えた。
農園設備は食糧の不足に大きな手助けとなつたのと同時に空襲火災による延焼防止に役立ち、工場は被災を免れた。
終戦後の壊滅状態に陥つた通信設備の復旧に対応するため努力が重ねられたが、モーター等の他工場からの製品の補給に難渋した。
銀座本社も被災を免れたが、昭和二十一年一月接収され、米国赤十字の活動に供された。
本社は蒲田工場内の一部に徹退した。
本社ビルは昭和二十七年接収解除されたが、元の姿に改修するのに半年余の時を要した。
父は我が子が帰るような安堵の思いがしたのであろう。その姿を見届けるかのようにしてから、昭和二十八年一月その生涯を閉じた。
筆者略歴
黒澤貞次郎三男明治四十五年生
横浜高等工業学校機械工学卒業
昭和九年蒲田黒沢工場に入社後
工場長、副社長、社長等を務め
現在㈱クロサワ代表取締役会長
大田区史研究 史誌 31 「吾等が村」を語る座談会
正誤事項
1・ 写真(P 7) 文中にて十六才の時渡米の際の写真とされておりますが、本写真
の裏には「コレワ 十九才 ヨコハマ タツトキ」と記されて居るものです。(資料1)
2・ 写真(下) 〔P10) 新工場のは左右反転している。( ネガの裏返し) (資料2)
3・P 4 「二十四年十六才で渡米」「二十七年一時帰国して再び渡米」「スミス・プレミア個人会社に入り」は事実を立証する資料はありません。
二十四年十六才は満年齢で換算されています。この計算なら十九才は二十七年、このとき日清戦争の最中であり、兵役のことを考えれば一時帰国の事は考えられません。
渡米は十九才(数え年)明治二十六年(日清戦争の前)が正当とされ資料が整います。
1、写真があること、2、父自身の手記「渡米後間もなく日清戦争が始まつた」3、
親友中村氏の「黒澤氏の追憶・弔辞」にて渡米費用の調達が語られている。4、父の手記にてエリオツト・ハツチ社に就職と記され、帰国直前までニューヨーク滞在。
(資料3、4、 )
4・ P 6 室町三丁目に生まれるは、立証する資料がありません。 現存している黒澤家の過去帳によれば「日本橋区大門通リ ニ住ス」とあり、また箱崎町の名も書かれていることから、現在のシテイーターミナルの辺りか、蛎殻町あたりと推定される。住地を限定するならば、「日本橋区」を正当とします。(資料 5)
5・P 7 「十六才で渡米」は誤り。「黒沢貞次郎、アメリカへ出発の時」は「コレワ 十九才 ヨコハマ タツトキ」が事実です。 (資料1)
6・P 8 「無蓋貨車なら」立証出来る資料はありません。今でも三日三晩、貨物列車なら四日間、敗戦時の難民輸送ならいざ知らず、大陸横断三線完成で輸送力の余るとき無蓋貨車旅行は考えられません。当時の物価は父の手記で「ヘア・カツト二十五セント」であり二十五ドルはその百倍。今日本で調髪千五百円、その百倍は十五万円であり、当時の二十五ドルの価値から無蓋貨車のことは考えられません。
(資料6)
7・P 9 「アメリカに行つた年が一八九一年」前出の理由で誤り。「黒沢ビルが明治四十四年完成」は「大正元年十二月」が正しい。 (資料7、年譜)
8・P10 「二階建ての工業学校」は建設当初より小学校の用途を予定した。
「後に自宅も蒲田に作る」は自宅建設の方が先、大正四年完成、明石町より移転。
(資料8)
9・P13 「今のプランタン銀座のあるところ」は銀座三丁目で、最初の店のあつ弥左衞門町一丁目は今の銀座四丁目二、銀座教会の裏、並木通り弥生ビルのところ。
「間口二間、奥行十二間」は奥行六間が正当、当時の地図にも記載され、現在実測も可能。 (資料9)
10・P16 「三十一日にボーナスを貰う」誤り、当時賞与は営業期末直後即ち六月及び十二月の上旬に支給された。臨時賞与の支給もあつた。 (資料10)
11・P17 「平仮名をつけるよう逓信省のサゼスチヨン」誤り、カタカナ機を作る様注意されたが正しい。 (資料11)
12・P18 「自分の姉さんの嫁ぎ先」は 自分の妻の姉の嫁ぎ先が正しい。
「高床式、雨が降れば物が干せた」床下は随所に上下からの梁が出ていて、子供でも遊び場所には不適で鬼ごつこ等はできない。 別に広い洗濯場、雨天物干し場が用意されていて、地下に物干しの必要はなかつた。台所の床下部分のみは、他よりやや深く掘り下げられていて、薪、木炭、石炭の貯蔵に使われた。
13・P23 「工業学校」誤り( 前出)
14・P25 「校長は自分」誤り。自分は校主、校長は初代白坂、2代坂本が務めた。「スチーム暖房」は誤り。「温水暖房」が使用されたが正しい。 (資料12)
15・P29 「堀り割で水を流す」誤り。水源地からポンプにて鉄管を通うして送水された。
16・P31 「私立小学校はいかん、道塚小学校へ転校」誤り。貞次郎は国民学校令の施行に反対して閉校とした。道塚国民学校へ転校が正しい。
17・P32 「ボーナスは三十一日」誤り。(前出)
18・P35 「キリン・ビールの株券」誤り。印刷のお手伝いをしたのは期末営業報書、配当金送付書等が正しい。株券印刷の設備は無い。
19・P36 「鉄筋コンクリートで、大変立派な応接間」誤り。鉄筋コンクリートは台所と風呂場のみが正しい。応接間は木造が事実。
20・P36「一九〇八年渡米、その年がちょうどサンフランシスコ地震の年」は誤り。サンフランシスコ地震は一九〇六年。地震の二年後、当時横浜正金銀行支店に勤務していた穂積太郎(夫人が妻の姉)を訪ねての視察である。 (資料13)
21 P39 富士通と合併は誤り。合弁(共同出資)ガ正。
追記 P:7 「家業の薬屋の手伝い」誤り。薬問屋に小僧奉公で働きながらの勉学をしたのが正しい。 (資料 4)
明治十五年母とめ死去後、凡そ明治十八年頃より薬問屋に小僧奉公で、小学校の授業出席も思うにまかせぬ時もあつたようだ。凡そその頃から父慶助は深川に移住していたようだ。母とめは深川の人亀沢家の二女である。 (以上過去帳による)
震災前、母とめの命日八月一日には、両国橋の少し先、今の江東区緑所在の寺に家族一同で墓参をするのが習わしであつた。黒澤家の墓の隣に亀沢家の墓もあつた。
黒澤家の墓は震災後墓地整理の機会に多摩墓地に変わつた。
昔の罐焚きの技術 片手で罐の蓋を開け、片手でシャベルで奥深い灼熱の火床に一様に、まんべんなく石炭を投げ込まねばならぬ技術は尋常一様のものではなく、子供に出来る業ではない。
資料の中に二つの誤りがあります。
1995 12 黒澤 張三
1・写真 この写真の裏には「コレワ 十九才 ヨコハマ タツ トキ」の記載があり、当時は年齢を「数え」で数える風習がありましたから、これは明治26年(1893年)に相当します。従いまして明治24年と添書があるのは間違です。
2・履歴書 この履歴書は黒澤小学校の設立の為の申請書に添えられたもので、従つて相当に形式を整えることに気を使つた点が見られます。
明治23年 渡米 は誤り。 1項の写真の裏書きによる。
明治14年から明治24年頃の10年間は黒澤貞次郎の生涯で最も苦しい時期でこの間の様子を話すことを好みませんでした。明治15年、母を亡くし、薬問屋での小僧働き、小学校と言っても学制改革の最中でもあり、今では想像も出来ぬ勉学の困難さ等を乗り越えねばならなかった。
後に雑誌等で立身出世の記事の取材で記者等にこの時代のことを追求されると米国に行っていたと逃げたようである。
渡航費の捻出は、18才(元服)、小僧から番頭への昇格祝の袴代を
現金にしたとも言われている。
明治26年 渡米 が正しい。
明治30年 ニユー・ヨークに移動、エリオツト・ハツチ、ブツク タイプライター会社に就職。
明治34年 帰国 以後は正しい。(くろさわ年譜 参照)
大田区史編さん室長宛 手紙
拝啓
秋の色も深まり、益々ご清栄の段、お慶び申し上げます。
この度、太田区史研究 史誌 31 にて当社旧蒲田工場及び付属設備「吾等が村」
につき企画掲載をいただきまして、有り難うございました。
本件につきましては、私が東京羽田ロータリークラブの会合にて西野区長にお目にかかりました節にもお話があり、ご協力をお約束申し上げたものですが、せつかく出来あがりましたものに、間違いの点が余りにも多いので残念に存じます。
週刊誌の座談会ならいざ知らず、公式の区史に関係するならば、間違いをそのままにしておくことは出来ません。
資料を整えるのに時間がかかりましたが、この度、一応誤りの点を取りまとめましたのでお目にかけます。
何卒訂正に関しご配慮下さいますようお願い致します。 敬具
平成元年十月二十七日
㈱クロサワ取締役会長 黒 澤 張 三
大田区史編さん室長 石 場 殿
太田区長
平 野 善 雄 殿
「史誌 31号」特集 「田園都市ー蒲田工場村の記録」
を読んで