黒澤貞次郎さんの追憶 大内誠三
あの見るからに何時もニコニコとした温顔の黒沢さん,日本に於ける平仮名タイプの開祖であり,また和文タイプライター の製作者として,また国産印刷電信機の創造者として我が国の電信事業に偉大なる足跡を残した黒沢さん,一大家族主義を以って 他に類例を見ない労資協調融和の楽園たる理想的模範工場と経営をうちたてた黒沢貞次郎氏が逝かれたことは,斯界にとって 洵に惜んでも余りあることで,ここにその偉業を追憶して氏を偲ぶよすがとしたい。
たゆまざる努力の―生
氏は明治8年1月5日水戸に生れる。間もなく東京に出られたが、年少時代の逆境は氏をして独立発奮の志を立てられたらしく, 小学校在校時代の或る時「猫が鼠を噛む」という字を先生から書かされた時,満足に書けなかったという一事は, なぜこんな難しい字を覚えねばならぬかということで,国字に対しての深い関心を持たしめた動機となり, 先進国と云われたアメリカに渡って青雲の志をたてることとなったのである。
16才の時シアトルに渡り、次いて待望のニューヨ-クに行き、艱難辛苦をなめて独学自修中,たまたまタイプライター製作所に職を得, ここで氏独特のねばりと不屈の精神で昼夜の距てなく働いた。その精勤と着眼と勉強ぶりは賞讃の的となったが、「門前の小僧 習わぬ経を読む」のたとえで、俊敏な氏はタイプライタ-の製造,修理法を手引される内もう一応の理論と仕事を覚えていた。 そのうちフト脳裏をかすめたものが小学校時代の出来事である。日本字でも文字を打つ機械が出来たらどんなに便利であろうか, 英文タイプライターでも頭文字やその他の記号を含めると50音と同じ数字になる,こうこして撓まざる努力と研究を重ねた結果, 遂にニューヨークのエリオント・ハッチ工場で同社と協力して日本文字平仮名タイプライターを作り上げた。 これは明治32年8月3日の時事新報に仮名文字の写真と共に「日本字のタイプライター」という表題の下に掲載されてある。
明治34年アメリカで既に実用化に発達していたタイプライターをお土産に,日本総代理販売権をもって帰国されたのが年僅かに26才であって, 将来一般に普及使用されるに至るべきその有望なる前途に着目されたことは洵に烱眼と云わねばならない。 帰朝の翌日その販売の白羽の矢を立てたのは外務省で,何等紹介状をも持たず,飾らざる誠実な奮闘的な無名の青年の言動が痛くも当事者の 心を動かし,首尾よく一台を買上げられるに至ったのを手始めとして,縁故を辿らず,何処へでも行ってタイプライターの効能を堂々と述べ, 熱心に一生懸命販路の拡張に努力した結果,遂に明治45年今の銀座の店を完成するまでの商運の発展をみるに至った。 因みに銀座の店は氏自身で設計されまた監督されたもので,鉄筋コンクリート建物として当時は始めてのものであったという。
氏は更に国内に於いてタイプライターの製造に志し,大正元年より現在蒲田の工場の土地買入に着手,大正7年に完成をみたもので、 現蒲田工場は大正12年震災後昭和3年に再建になったものである。
黒沢さんと逓信省,云い換えれば我が国の電信事業の発達とは実に切っても切れない深い縁がある。 和文タイブライターの試作と採用及び国産和文印刷電信機の製作実用化の2つは氏が残した偉大なる功績と云わねばならない。
我が国の電信の進歩の一半に和文タイプライターの採用があったことは議論の余地のないところで,その発展の経過を辿ってみると, 明治44年頃から実施せられだした自動回線の現字紙テープ貼付受信方法で,自局着信となる欧文電報の翻写に欧文タイプライターを利用する 方が便利だということが考え出され,大阪中央電信局では大正3年から実施されていた。ところがその利用を更に和文電報にまで及ぼすの 利便を考えた同局では,大正6年当時日本に於ける唯一のタイプライター輸入修繕商であって,和文タイブライターの製作利用を考案した 黒沢貞次郎氏にL.C.Smith式タイプライターをもととし,これを和文電報に適するようキーボードの文字配列等を指示してその改造試作を 依頼した。
これは大正6年4月に出来上ったので,直ちに¨実験の結果成績良好なることがわかり,同年6月21日から大阪中央電信局に於いて 和文電報翻写用として実用に供せられた。以後不便不利の点を改善改良せられつつタイプ受信は好成績をあげ, 大正13年には大阪局全回線タイプ受信となり,その好成績は他局への全面的採用となって今日では音響受信に迄広く普及されている。
この邦文タイブライターの完成と,氏の業績は国家の認むるところとなり,御大典に際し実業界の功労者として, 昭和3年11月17日「夙二米国ニ航シテ機械工業ノ実地ラ学ビ邦文タイプライターノ製作二志シ刻苦研鑚遂二之ガ完成ヲ見ルニ至ル 爾来鋭意事業ノ発展ヲ図リ今日ノ隆盛ヲ致ス洵二実行ニ精励シ衆民ノ模範タル者トス」との主旨で緑綬褒章を贈られた。
印刷電信機の国産化
黒沢さんの生涯中最も著明なる功績は,国産印刷電信機の完成である。昭和15年5月1日東京日日, 大阪毎日新聞社は第2回目の大毎東日通信賞として賞脾並に賞金を贈り,日本精密科学の粋,六単位印刷電信機,欧米人の驚異の的 黒沢氏の偉業という見出しの下に同氏の業績を称えたのであった。
これより先逓信省では,欧米に於ける印刷電信機の実用から夙に和文による印刷電信機採用に関心を持ち, 大正14年米国クラインシュミット会社の頁式テレグラフタイプライターを和文用に改造したものを購入して実験した。この成績がよかったので, 昭和2年東京,大阪始め主要都市幹線に僅かばかり実施せられていたのであるが,何分にも値段が高いのと, どうしても将来国産化せねばならぬという見地から,昭和5年その国産化問題が具体化し,逓信省電信電話技術調査会で鈴木寿伝次, 島田新次郎氏らを中心として,その型式等に関する方針を決定,昭和7年7月1日黒沢,日電,冲、安立,目端,井上の6ヵ所を招集し、 設計規格を示すと共に1カ年の購入台数を内示,6ヵ月以内に設計試作を依頼した。
この期限内に設計説明書を出したのは黒沢商店外2ヵ所であって, あとは辞退した。そこで,この6社に各1台宛の試作を依頼することになったが、昭和8年12月26日の約束の期限内に納品したものは 黒沢商店のみであった。
その頃の黒沢商店蒲田工場は電信タイブライターエ場として本邦唯一のものであって,機械に関して優秀なる腕を有する工場長庄野篤朗氏と それに逓信省より入社されて居た松尾悛太郎氏があって,松尾式印刷電信機を完成されていた。試作品はこの印刷テレライト電信機を提出 されたもので,昭和9年1月より10ヵ月間に渉り試験規格を定めて詳細試験した結果受信機はスミスタイブライターを電気的に動作 させるように工夫されたもので,実用化するには根本的設計替をせねばならなかった。
その結果更に逓信省から適当なる技術者を 派遣協力することとなり,長谷,西川の両君が選ぱれて行き,一丸となって製作に専心努力したため第2回目の試作品のうち鍵盤讃孔機及び 送信機は実用化が出来たが,受信機の方は外国特許を避けるため無理な設計をなすより外なく,遺憾乍ら実用化に迄到らなかった。
しかし乍ら黒沢氏等の努力はこれらの技術上の困難をよく克服して,昭和11年10月第3回目の試作品が提出されるに及び試験検討の結果漸く 実用機設計の見透しを得るに至り,かくして国産化計画以来5年目の昭和12年実用機が生産され,菊花香る11月3日東京, 大阪間に実用されるに至ったのである。
5ヵ年の短日月に於いて国産機の完成を見たことは外国にもその例を見ないことで, 実に黒沢氏の国産化に対する献身的奉公精神と,黒沢工場並に関係者一同の決死的努力の結果であったのである。
その後電信技術の進歩に伴い,昭和15年同工場で印刷機による自動交換方式用の受信鑚孔機の試作品の完成をみたが,戦争で一時停頓し, 遂に昭和24年その実用の実を結んだ。
即ち氏がその愛する黒沢工場に於いて作り出したものは,6単位鍵盤鑚孔機,自動送信機,自動受信機及び受信鑚孔機であって, 6単位和文印刷電信機の国産化に成功されたことは電信用和文タイブライターの完成と共に我が国電信事業に特筆大書して 残さるべき輝しい偉業であると思う。
製品に対する責任感
黒沢さんと逓信省即ち電信との関係はこればかりではない,和文タイプライターの採用によりオペレータ-の電信タイプ ライター講習を黒沢工場で引受けられたことで,大正11年より昭和18年6月迄数十回に亘って行われた。 また印刷電信機の講習も昭和25年5月より18年頃迄行われた。
この間にあって黒沢氏は講習を多ける人々に対して約1ヵ月位に亘り社宅の一部を開放し宿泊,食事の世話迄も 面倒を見られたのである。
黒沢さんの作ったタイプライターで特に銘記すべきことがある。昭和6年天皇陛下が生物学御研究用としてカードの整理に お用いになるため特に字の小さいアルファベットと片仮名を打つことの出来るタイプライターを特別に作って差上げたことで, その内の1台は今尚黒沢工場に記念としてまた予備として保存されてある。
斯くの如く黒沢といえばタイプライター,タイプライターの黒沢と迄云われる程世に有名であるだけ,氏は自分の所で作り出された製品に 対しては絶対の責任を持たれると共にまた大なる自信をもたれていた。事実黒沢の製品が優秀であるということは万人が認めていると同時に, 氏は自社製品の信用ということに就いて非常に重要視されておられたのである。自分の処で作ったものは一品たりともおろそかにしない, また売り込んだものに対しても後々迄責任を持つという考えで,製品を作られた。氏は売ったタイブライターの修理のため, 始めの内は氏白身で工具部分品の入った箱を持って自らサービスに廻られたということである。現にこの小型トランクは今も工場にある。
こんなわけで,氏の製品に対する観念は実に厳密で,タイプライター並びに印刷電信機の或る部分に対する鉄の材質に就いても, これはスェーデンの鋼でなければ駄目だ,これを用いなければ製品の信用が落ちるといった確たる信念があったようである。 これがため国産品で代用するということも氏の満足するものでなければ駄目であった。
戦時戦後の逓信省のタイブライターと,印刷電信機の需要に対し充分応じられなかったことも黒沢製品はあく迄責任を持ち,良質精巧なる 製品の供給をモットーとし粗製乱造はやりたくないという氏一流の責任感の発露であったものと思う。
黒沢工場の模範的施設
黒沢さんの偉業として更に特筆すべきことは,蒲田にある黒沢工場の模範的施設と氏の経営法である。即ち氏は同工揚をして子孫並びに 従業員の子孫のために永遠の安泰なる生活郷たらしめ斯界の大完成を図らんとする理想の下に,工場従業員に対しては大家族主義を以って臨み, 所謂労資の差別的待遇を行わず,最も合理的方法で経営されていた。
国鉄蒲田駅の近くに約15,000坪を画してしようしやに装い立つ黒沢タイプライターエ揚(大田区御関町3ノ1)はあたかも黒沢村長を頂く 村落の如き観を呈し,工場員はさながら兄弟の如く和合友愛に融け込み乍ら楽しい作業に従っている。この工場は他工場に見るような 縦覧謝絶の札も厳しい門も、また門衛もない。 明るく自由に開け放たれた門から簡単な事務室受付迄どうしても工場とは思われない。 工場には応接室もなく,皆広くゆったりと場所がとってあり,その秩序整然たること清潔なこと,採光の完全なこと等はエ場として 批判の余地がなく、これら総て氏の意図の表現である。
現在の従業員は約150名で,その家族を合わす戸約400名を算するが,氏はこれに対して工場敷地内に住心地よい羨しいばかりの住宅街を 建設して住ましめてある。戦災で今は無くなったが,その教育機関として黒沢幼稚園及び小学校があり,その他娯楽室, 図書館等幾多の施政があって,子弟教育に力をつくされたことは余りにも有名である。
黒沢工場を尋ねた人は何人も感歎をして帰るのが常であるが,その質問は何時も決まっている。
これに対して氏は次の如きことを云われている。
工場に来られた方がきまったように何か信念があるか、資本はどうかとかお尋ねになりますが,これと云って特に遠大な計画とか, 大資本は持っていない,よくこれまでやって来たものと自分乍ら驚きもし感謝もしています。 謂はゞ一粒の良種が幸いに土地を得て温き時の恵みにより芽を吹き,これが従業員諸君の心からなる丹誠により年と共に成長して, 苗となり,水となり,枝を張り,葉をつけてご覧の通りやや大木となったのであります。
福利施設と申しますか,学校とか住宅の経営或いは食堂の設備については出来る丈やっているつもりであって,特に,従業員 諸君に恩を施すとか何とかいう積りでやっているのでは決してありません。私は年少にして働かねばならぬ境遇に置かれました 関係上,自分等と一緒に働いてくれる方々の子弟をして曾て私が甜めたような苦杯を喫せしめたくない。どんなことがあっでも 小学校丈は満足に卒えさせてあげたいと斯様な考えから学校を作りました。
また近くに住宅があるので,家に帰って一家団らんのうちに食事をするということは家庭愛からみて誠に結構なことで ありますが,工場の食堂で一同が一緒になり,さゝやか乍ら昼食を共にするということも一つにはお互が苦しかった昔を偲ぶ よすがにもし,また一つにはお互の親密を増すためにも幾許かの効果があろうと思っています。
住宅につきましても以前は家賃が高かったので住宅を作ったならば従業員の方々にも多少楽になって貰えるかと1軒,2軒と 増して行ったのが今のようになったのでありまして,樹木が相当ありますのも或いは儲けて作ったのであろうと思われるかも 知れませんが、この樹木の一部分は苗木であるが他の大部分は種からの芽生であって、これまた時の恵と人の丹誠の所産に 外ありません。学校も幼稚園もここでは只生きた人間を作る基礎教育さえすればよいのだと考えております。
これらの福利施設と中しますかを作るのに一時纏った金を出したのでは決してなく,その時々に作ったので,今から顧みてもよくもまあ 出来たものと我乍ら感心もし,また驚いております。総てこれ丹誠の華であり実であって,決して私のみの功労ではありません。
因みに云う,今でも社宅の家賃は4円,5円,15円で電気,水道代も含まれている由で,しかも家賃のとリ方は月給袋より 差引かず,各自が納めるというのも今時に珍らしいことである。従って労使間のイザコザなぞは一切起らず,父子二代はもとより, 孫迄の三代の従業員もあった由で,皆黒沢氏を慈父とあがめ,また氏は可愛い子供と考えて育まれたから,正に類例のない一大 家族主義の理想的工場である。
黒沢さんがかつて長者番付のl位,2位であったりしたのも税金を国家に対する御奉公であるという信念から卒先なされた 為であって,また経営上に於いて銀行借金はせず,手形は絶対に書いたことがないなぞは大いに考えさせられるものがある。 現在の日本に何人と数えられない稀な有徳の人であり,また我が国立志伝中に特記されるべき人であると思う。
氏は事業に対して実に刻苦精励何事でもやり遂げるという強い意志の人であって,卒先陣頭に立たれ身を以て範を示された。 その精勤振りは1年のうち休むのは元且だけで、日曜日も祭日もなく,毎日8時半開始の工場へ必ず8時には出勤されていた。 先年大雪の時総ての交通機関の停止した時にもあの大雪の中を調布峯町の自宅から工事へ徒歩で出られたということは常人の 真似の出来ぬところであろう。
私生活の一端
氏の私生活は極めて質素であって,己れに薄く他に厚く永年着古した黒背広に編み上げ靴という自ら節の堅いことは有名 であり,歩くことが健康であると考えられていたためでもあろうか,決して自動車には乗られなかった。氏は食物に注意され 新鮮なものを好まれ,またよく噛むことを信条とされた。ビールは最も好まれたものの一つであるという。
氏は聖書をよく愛読された。然し氏の宗教観は形式にとらわれず,場合,場合に応じていいと思われるものを採られた。 地鎮祭は神式でやられると思うと結婚式ぱ牧師立会で行われたりした。
黒沢商店のユカリの地であり,古くから銀座6丁目で独特の建物だった銀座の店が,接収解除されてから氏は午後そこに 出かけられ,精根をつくして変りはてた建物を懐かしいもとのものにするべく自らコテを握って復旧修理に当られた。
この無理が御老体にひびいたものか12月末ふとして引かれた風邪が遠因ともなったものか今年正月元旦年賀に近親達が 集まられた時は殊の外上機嫌で珍らしくにこやかに笑いながら昔の思い出話や(頭書の猫と鼠の話)銀座営業所の修理 苦心談にふけられたが,惜しい哉その晩脳いっ血で倒られたのである。
然しこれは2、3日にして意識を回復されたが,無理を 重ねられた老体は回復のカ足らず,百方医療を尽されたが,遂に28年1月26日午前4時45分枕頭に集まる肉親の全部の方々に 見守もられつつ78才の大往生を遂げられたのである。
御子息達は氏が生前水薬と称して最も好きであられたビールを父の口にふくませられた。御木本真珠翁の年迄生きると常に 言われておった黒沢貞次郎氏は功なり名遂げて天寿また必ずしも短くなかったとは申せ,君の如き尊敬すべき事業家を喪った ことは洵に国家の一大損失であり,痛惜に堪えぬところである。
告別式は2月2日午後1時30分より思い出深き銀座6丁目の黒沢商店に於いて盛大に行われた。大島委員長の挨拶,岸田牧師の 聖書朗読,讃美歌,次で遺族総代,従業員総代,御志の方々の焼香が極めて簡潔に行われ,弔詞には日本電信電話公社総裁,東京 ロータリークラブ会長,同志社総長のものがあり,弔電,弔詞捧呈の後讃美歌があって大島委員長の挨拶があった。
その時に伝えられたことは,霊の置かれた位置はかつて故人が長年の間営業所で座っておられた所の位置であること,また霊の 白布に付けられた黒リボン上の金のネクタイピンは,最近瑞典国王70才の御誕生に当り国王の名前でストックホルム ロータリークラブより日本のロータリークラブ会員中最も貢献のあった人にあげてくれと送られて来た唯一つのものであること が公にされたのは列席者に多大の感動を与えた。
2時より3時迄に行われたー般告別式に参列された方は,内外著名の士多く,約1,500名であったが、特に附記することは形式 がちな葬式も故人にふさわしいやり方で讃美歌の清い合唱の中に焼香をやり,また参列者が故人の発明品の記録写真中を進むのも黒沢さんの 意に合したものと云えよう。
終りに昭和28年2月13日内閣賞勲部から故黒沢貞次郎氏に対しその生前の功績をよみし従六位勲五等瑞宝章が授けられた。 民間人にしてこの栄を浴されたのも例のないことで,叉以て故人の偉業と徳の至すところである。
黒沢さんには夫人を始め3人の御令息4人の御息女皆健在で,夫々活躍をされている。願わくば父君の偉業を継ぎ,国家の ためまた我が国電信界のため貢献されんことを切望すると共に,御一家の御健康と御活動を祈って止まない次第である。 (筆者は,元逓信省工務局機械課長、現在九州碍子株式会社々長)