家族主義積善自治の工場 模範工場巡り 警視庁工場課
(現代仮名遣い訳)
編者識
本稿は警視庁工場課に於いて調査しつつある優良工場の報告である。
「模範工場巡り」と題して本誌に掲載するの光栄に浴したので、先ず原稿の入手順に黒澤工場と渡邊工場とを皮切りとして毎号連載する事になっている。
産業に於ける福利施設が近世の産業上並に社会上に最も重大で且つ広範な影響を持つ折柄恐らく本調査は労使関係に於ける無限の興味と教訓とを含んで労使一如不足なき真の姿を顕現するであろう。
その一 積善自治の工場 黒澤タイプライター製造所
一、本工場の概略
東海道本線蒲田駅の南口に黒澤商店工場というのがある。線路を隔てて株式会社新潟鉄工所と相対立している。対立という形容はあるいは当らないかも知らない。 というのは新潟鉄工所は屹立せる大岩石の如きに引比べてこれはまた平たい磐石の様であるからである。そのいずれにしても列車又は電車の上からは一方は 見上げ一方は見下すというニ様の形態が現出されることになる。
この平たい磐石然たる黒澤工場はその設備と経営上の施政に於て、先に警視庁工場課から優良工場として推薦され殊に管下一般工場主が見学した所である。
もしこの工場が村落にあったならば一つの部落を形成し、この部落はあたかも黒澤部落ともいうべき大家族制度下に円満なる発達を遂げ、世と共に推移って 自活自治、産業報国の赤誠を以て勤勉努カ日も尚足らずという模範部落の一つであろう。
此所には大資本組織の工場と異なれる数々の施政があるのでその大略を紹介しよう。
二、黒澤丸
工場主黒澤貞次郎氏は常に自家工場を船にたとえて黒澤丸と称し、船長以下全員(男工一一六名、女工一六名)がこの船と運命を共にする覚悟と責任を 一同に託されるのである。
思うに船は何時でも順風に帆をあげるという様に望み通りに行くものではない。「シケ」を食って何時難破しないとも限らない。如何に全力を尽して 航海の安全を欲しても何時如何なる障害が勃発するかは憶測することの出来ないものであるが、この黒澤丸が今日の安航を続ける迄には随分難を経て来たとの ことである。而して今日無事の航海を続けながら、いささかたりとも国家社会に貢献せんと奮励これ努めているがこの産業報国も微力なる為め遺憾ながら 九牛の一毛、大海の一粟たる程度であるとは工場主の謙譲の見解である。
三、黒澤丸の建造
海上に浮べる城は御国の護り、蒲田区志茂田町六十二番地に大磐石の黒澤丸は黒澤工場一大家族の守である。その堅城と頼んでいた工場建築物は彼の 関東大震災のため倒壊したので全員鳩首相談の結果、倒れるのには倒れるべき原因があるからだ、今度は一つ自分達の手で造ろうではないかというので、 一切を自家工場従業員の手で仕上げたのだそうである。 鉄骨鉄筋コンクリート平家建一千八十坪、素人造ではあるが堅牢本位の念入仕事で三年の日子を費し単に工場の建物を自家従業員の手で建築したばかりでなく、 附属住宅から一切の建物その他いささかの人手を煩していないという家屋の自給自足この点だけでも一寸真似は出来ない。
四、タイプライター
今日都合生活者にタイブライターを珍しがるものはない。多忙なる事務上の必需品として商家の金銭登録器と一般ではあるが、これが如何に事務上の能率を 挙げているか、この点に就ては人々は割合に無関心な様である。
黒澤氏がタイプライター製造の動機を伺うに氏が弱冠の頃、青雲の志抑へ難く,単身アメリカに渡っていること八年、その間彼の地でタイブライターの工場に 働いた時から胸底の秘策はいよいよ堅く持して動かざるものになった。日本もやがてはこの国に負けない文明国になる。と同時に社会的事務も非常に繁雑を来す のに違いない。そこで今日の言葉で言えば事務の機械化能率化ということに考え及んで一つこの方面の仕事をやろう、それにはこのタイプライターは 持って来いである、とこの決心を懐いて帰朝後本事業は創められ、多年の辛苦と研究を経て今日の盛運を致しているのであるが、翻って考えて見ると氏の 渡米したのは明治二六年で氏が十九歳の時である。明治二六年といえぱ我が国の国会が始ってようやく四年目で日清戦争の前年である。当時我か国は外国文化の 輸入に汲々たる時であったが、単身海外に渡航するの勇気ある人はそう幾人もあった訳ではない、連盟脱退後の日本、メード・イン・ジヤパンの世界市場席捲、 隆々たる日本の存在は世界の隅々までも響き渡っているが、当時の外国は横浜あるを知って初めて日本という国があるのかと首を傾けたという話を思出す につけても当時の情勢が追想されるではないか。これにつけても氏が在米八年間の労苦は並大抵では無かったであろうことを想像するに難くはない。
それは兎に角として、氏がタイブライターに着眼したのには、今一つの理由は日本の仮名を欧式に則ってというのが今日世に出ている和文スミス タイブライター製造の始りとなったのであるという。
五、一粒の良種
「一粒の良種が幸に土地を得て暖き時の恵に依って芽をふき、それが従業員諸君の心からなる丹誠により、年と共に成長して苗となり、木となり、 枝を張り葉をつけて大木となる。本工場も創業当時は矢張り一粒の種にしか過ぎなかったのである。
明治三十四年現在の営業部を銀座六丁目に事務用器具の営業を始め、二階と三階を修繕工場として二三人の職人がいたのに過ぎない。その後十年間に 於ける事務の機械化と能率化はどんどん進歩して、なかんずく氏の在米当時なお幼稚なりしタイブライターの実用化を思わしめることの切なるものがあった のであったので、大正三年氏は現在の工場長庄野篤郎氏を渡米せしめ欧文タイプライター製造の技術を習得せしめた。大正四年初めて二台の和文スミス タイブライターが大阪中央電信局で試用されたのであるが明治三十二年氏が試作して以来実に十八年目である。
六、電信機
従来の電信は受信機の発する音響を手記していたのであるが、この手記に代ったのが和文スミスタイブライターである。現在各所の電信局に使用されて いる約五百台のこの和文 スミスタイプーライターは、これなき以前に比して如何に我が国電信界の能率を高めたか、文字,数字、記号の三種合して八十四、電信局員の指が 機上に躍っているのは実に目覚しい限りであるという。
本機を世に出してから以来これが改善進歩に力を致すと同時に、これを発信、受信の両機に装置して、いよいよ電信事務の機械的能率化に貢献せんことを 企図し、これが研究と実験の好果を収め得たので、近く自動印刷電信機として奉仕することになるとのことであるが、これが使用される様になった暁は、 現在一分間八十の送信能力が、一躍二百七十という約三倍半にスピード化して、電信事務上のエポックとなるは勿論、益々多忙なるべき我が国電信界にとって 誠に慶賀に堪えない次第である。
七、清潔整頓
清潔整頓は工場を快適ならしむぺき一要件たると同時に、危害防止の一方法たるは申す迄もない。
将来の準備も考えられてあるのではあろうが、現在の作業に対して十分の面積が各個の作業に与えられてあり、各自が自分の工場としてその持場々々に 誠意を以ているからこの辺の注意もよく届いているので、工場長が管理に骨が折れる様なことはいささかもない。
本工場ではタイプライターの外に番号機、数字打抜機その他事務用の機械製作部、印刷製本部、木工部の三部の職場に分れているが、その何れの場所を 見てもきちんとしたものである。
八、月給制度
従業員は全員月給制度で年二期の賞与がある。月給制度は諸種の便宜上これを採用しているのではあるが、黒澤丸の乗組員として一大家族の一員として 伝来の忠実性はその出勤に於て、その作業に於て何等の懸念を要しないし、病気その他の個人的又は家庭的事故のあるは人生何人も免れざる所、これあるが 故に生活の不安に焦慮せしむるが如きは家庭的生活を楽しめる者の採らざる所、むしろかかる際にこそ尽すべき情宜の家族愛にその根本精神がある。 故に安心して職務を励み各その職分を全うするの精神に至っては、父母兄弟姉妹が各その分に応じて家業に尽すのと何等の変りがない。
九、昼食
食堂は非常時の際は何時でも工場として使用出来る様にしてある。此所にも周到なる用意の程がうかがわれる次第であるが、全員昼食はこの食堂で 認めることになっている。
直ぐ側に住宅があるのに特に一堂に会食するのは黒澤丸が難航時代を想い起すよすがともなり、一日一回全家族の顔合わせともなり、その間に 有言無言の親愛さが加わり一家族全体の健康と今日平和の仕事に勤務し得る感謝の念も起るという工合に色々の有益のことがある。
十、住宅
全従業員に住宅が給せられている。一号住宅は六畳、八畳、四畳半、二畳の四室、二号住宅は六畳、四畳半の二室、いずれも一戸建、三号住宅は 二号と同様六畳、四畳半の二室ではあるが一棟二戸建となっており総ぺて百二十戸ある。
そこらの貸長屋式の住宅ではない。皆自分の家族の一員が住うのであるから、それぞれ普通の住宅同様に出来ている。その上誠に気持のよいことには 何の家にも相当の庭があり、囲いがあって樹木か沢山植付けられてあることだ。これとて種を蒔き、挿木をし、又は苗木から育て上げたというのだから嬉しい。 その上電燈は工場の方から配分されており、家屋の建方も全部一階建で区画整然たるものである。
十一、浴場及水道
男女二室の浴場があり、男子は終業時の五時より、女子は家庭の都合を考えて四時から入れるようになっている。
水道は地質の関係からこの付近は一帯に植物の生育が思う様に行かないのみか飲料水に困難である。この飲料水には一苦労したとのことであるが、 約二里離れた所に水源地を見付けその所から私設水道を敷設している。水の悪質と健康、これが精神上の影響等をも思い合せる時望んでもなき善い施設と 言うぺきであろう。
十二、学校
住宅の外れに黒澤幼稚園並に黒澤小学校がある。目下園児四十名、小学校児童一年より六年迄合して百四名収容され六人の先生と保母に守られている。
十三、町会
冠婚葬祭その他社交的一切の事柄は、住宅全体なる町会がきりもりしている。この 町会は単に工場関係者の内面的方面のみならず、一般外部の町会へ交渉応接の機関となっている。
十四、植木品評会
従業員中には植物の愛好家が相当に多く、毎年朝顔、菊、さつきの品評会が行われる。これは期間的趣味のこととて、毎年楽しい行事となっている。
十五、菜園
工場の左右には道路を隔てて約二千坪の菜園がある。無論工場の敷地内ではあるが、空き地のままに遊ぱせておくのはもったいないので、野菜作が始った のである。各戸共、若干坪宛の土に親しめる所で、これがまた従業員並家庭の大変な楽しみである。葱、大根、かぶら、ほうれん草、思い思いの野菜が 得られるので.自給自足とまでは行かない迄も町の八百屋さんには縁が遠くなるという。
十六、家族主義の根本精神
「積善の家には余慶あり」これは工場主唯一の祖先よりの遺産であるという,場主の両親は非常に善人であったので、その余慶を以て氏の今日があることを 喜ぶと同時に、この唯一無二の遺産はまた子孫に伝承して積善生活の本道を離れしめない様にしたい。必ずや子孫の身の上にも余慶あり。この積善生活を 喜んで行るであろうことを信ずる。一切の施設は今日言う所の福利施設に相当するものではあるが、これは求むる所を先にして行っているのではない。 祖先伝来の積善生活たる遺産を使っている迄である。
・・・・(以下 略)