「実業の日本」誌1951年5月1日号
所得税長者番付第一位のタイプライター王・黒澤貞次郎氏 甲賀一郎
戦後の成金王者として、世間に宣伝された者も次第に影をひそめ、永年培かった実力に物いわせる財産家が、再びフットライトを浴びてクローズアップ されてきた。
その中にあって、毎年、新聞紙上を賑わす長者番付に、この十数年必ず名を連らねている人がある。
それは、本年度所得税四千二百四十一万円で第一位、富裕税では二億四千六百五十万円と報ぜられている、黒澤貞次郎氏だ。ではこの黒澤氏とは一体どんな男で あろうか。財産家としての氏を知る人は多い。しかし、日本文化に貢献してきた氏の業績を知る人は、案外すくないのである。記者は一日、蒲田郊外にある黒澤商店、 タイプライター工場を訪ねて、氏が如何にして今日を築いたかその半生の努力の跡を訊いてみた。
むずかしい漢字
「猫が鼠を噛む」たどたどしい文字が黒板に大きく書かれてある。明治初期の東京某小学校の一教室である。秀才だった少年貞次郎は、学年をとびこえて兄さんみたいな 同級生と机を並べていたのだ、最年少者として鋭い頭のよさを示していた彼に、担任の先生が級中で誰も書けなかった字を書かしたものである。書き終った彼は満面 紅潮して壇をおりた。しかし、彼の軽い満足と得意も、教師の、「噛むという字の画が違う」の一言によって、瓦解して行くのを覚えずにはおれなかった。なぜ、 こんなに難かしい字を覚えなくてはいけないのか。早熟だった彼は外国語に比べて、その不必要なる困難を痛感するのだった。そうだ、先進国といわれるアメリカに 渡って、勉強しよう。旧来の考え方のみを教えようとする日本では、将来の期待はもてない。「こんな漢字が書けなくては駄目だ」とヤリごメられた鬱憤も、 こう考えてくると大きな希望に変わってゆくのだった。
英語を本場で習いたい、それだけの希望がアメリカヘ渡る動機だったのである。
勿論、「人に頼らずに独立してゆく」という少年の勝気さは、三ツ子の魂百までの諺のとおり、黒澤氏の根本信条となったことはいうまでもない。その頃に、 タイプライターで身をたてることなどは、思いもよらぬことだった。
ニューヨークのタイプライター工場
十六歳、待望の地ニューヨークにきてみると、見るもの聞くもの珍しくないものはなかった。まず、最初に職をえたのが、ニューヨークの、とあるタイプライター 製造所である。
彼独特のねばりと不屈の精神をもって、昼夜の距てなく働らいた。まっさきにやらされたのが、工場の掃除である。大きな場所だけに一回の掃除をすると、 タイプの部分品とか、釘、螺鋲などが相当集まる。それを一纏めにして工場長などに渡したものである。これが黒澤氏に対する信用となったことは当然であるが、 それにも増して彼の勉強ぶりは、賞讃の的となった。世話にも「門前の小僧習わぬ経を読む」といわれているが、俊敏な彼はタイプライターの製造、修理法を手引される 時にはもう一応の理論を心得ていた。だんだん仕事を覚えてゆくうちに、彼の脳裏をフトかすめたものが、小学校時代の出来ごとである。日本字でも文字を打つ機械が 出きたら、どんなに便利であろうか。英文タイプライターでも、頭文字やその他の記号を含めると五十音と同じだけの数字になる。こうして弛ゆまざる努力と研究を 重ねた結果、遂にカナ文字タイプライターの完成となったものである。
足掛け十年の米国滞在中、タイプライター製造を修得したのみならず、最初に念願した本場の英語は建築学にしろ工学にしろ、自然科学を学ぶのに、どれほど役立った かは、はかり知れないものがあった。彼の持論によれば、書物は知識の泉であるともに、技術の宝庫でもあるというのだ。
明治三十四年、アメリカでもそろそろ実用化の域にまで発達したタイプライターをお土産に帰国したのが二十六歳の時であった。
東京に帰えると早速二十坪ほどの家を貸りて、二階の廊下に空箱を置き、手回しの旋盤を備えつけた。節約を旨とする彼の事業経営は、机もいらない、椅子もいらない、 その代り利用できるものはフルに利用することから始まった。他人よリ資本を借りて事業を始めれば、失敗した時に必らず迷惑をかける。これほど企業家として 不本意きわまることはない。この考え方が黒澤氏の今日を築いた原動力となったことに、疑いをさしはさむ者はないであろう。
成功した電信印刷機
何分、毛筆ですべて認めなければならぬ時代だ。文字を打つ機械・・・まず氏の仕事の第一歩は、この機械の有効さを説明することから始めねばならなかった。 自己宣伝の嫌いな彼も、これが日本の文化発展に必らず補益するという自信の前には、必死の努力をつくさねばならない。先進国でやっと普及し始めた、 タイブライターの有望性をいち早く洞察した、その慧眼にはまず敬服せざるをえない。
終戦直後はじめて日本に特派された新聞記者が、車中でパチパチと機闘銃を射つようなスピードで膝にのせたタイブを操り原稿を書いていた。これをみた某会社の重役は、 この機械文明の一端に、日本を破る力が秘められておったのだと会う人ごとに、話していたという。しかし、これが何十年も前に黒澤氏によって、宣伝されておったの だから、まさに霄壤の差を感じさせるものがある。
また、明治三十五年、印刷局にはじめてライノタイプをアメリカからもってきて、据付けたのも黒澤氏であるという。 それはさておき、明治三十二年カナ文字タイプを完成したが、日本に帰ってこれを商業的に売出すとなると、とてつもない障害に気がついた。カナ文字会とか ローマ字運動などをやっているのはほんの一部の人達がやっとロに出し始めた時だ。
それも物好きのキチガイ的沙汰と思われていたのだし、第一会社でも銀行でも、官庁でも、カナ文字だけを使っていろところは、ありはしない。これでは経営的に合う はずがない。しかし、こんなことでヘコたれる人ではなかった。エジソノやフランクリンの本を小さい時から、読んでいた黒澤氏にある日チラリと浮んできたのが 電信である。そうだ電信文なら全部カナ文字だけである。手で打たれる音を耳で聴きとる電文には間違いもある。何しろ人間は生き物であるから疲労の度や気分に 禍いされることが大きい。機械で打って機械で自動的に復字されるなら、こんなに素晴らしいことはないだろう。かくして考案されたのが印刷電信機であった。 これが黒澤氏の財源となったのはいわずのことである。この機械は早速各新聞社に採用され、その性能を謳われたという。これによって、日本の通信文化に どれほどの寄与をなしたか、今更、くどくどしく述べる必要はないであろう。
現在、黒澤工場で作られているのは六単位印刷電信機といわれ、電気的に動作されて百里でも千里でも、遠近にかかわりなく電流の到達する限りは使用できる。 受信速度、毎分二百六十八字の高速度でモ-ルス符号によるものより、三倍半の能率をあげうるという。
苗木を育てる 経営法
現在の蒲田工場はこの地方の草分けであった。設計もすべて黒澤氏の手によりなされ、それも漸進的に増築していったのだ。資本は絶対に他人に仰がない主義を 奉じてきた氏が、無理しないで自然の理に即応して、今日の大をなしたのにもいわれがある。サー・ロバート・ボールという人の書いた、「ストーリ・オブ・ヘブン」 (天体の話)は、氏の伴侶の書であった。これには太陽系の話、恒星との関係、天体の運行などが、書かれてあるが、悠久の何千万年という天体は、常に一定の 法則にしたがって、その活動を休むことがない。人類の繁栄もすべて、これに学ばねばならないというのである。
黒澤氏がとってきた経営法もこれに類似している。植木屋から買ってきて植えた樹は大嵐が吹けば倒されてしまうこともある。これに反し、苗木から育てた樹は、 雑草をとり手入れさえしてやれば、しっかりした根を大地に張って、暴風雨にも地震にも耐えうるものだ。植木のごとく支え棒をする必要はない。他人に資本を 仰いで企業をはじめるのは植木するのと同じだ.経済不況に見舞れて支え棒の銀行に駈けつけても遅い。だが金が出来るまでは仕事ができないといっているのでは、 一生たっても事業ができるものではない、蟹は甲に似て穴を掘る。ここから一歩一歩前進しなければならない。
奏功した家族主義
黒澤工場は、したがって今までに一度だって、新聞募集で工員を採用したことがない。事業の将来性が一般に了解されてくると、つきあいのあったブリキ屋などが、 職人をつれて仕事を手伝おうといってくる。遠縁にあたる誰れ、彼れが働きたいといってくる家庭的工場だったのである。
工員も全面的に黒澤氏に信頼をもち、氏も家族的待遇をもって、これを世話してきた。二万坪の工場敷地には、その後拡張工事がつづけられてきた。社宅も 百二十世帯まで入れるものが出きたが、空襲で四十軒は焼失してしまったものの、この家族的紐帝には何ら変りはないという。近所に学校ができるまで、 工員の子供達は遠くまで通わねばならなかった。家族的経営をやってきた氏は、まず幼稚園、小学校を建て、子弟の教育に当った。しかし、これも 国民学校と改称される頃には、創立の趣旨と反するというのと付近に学校が設立されるにつれて廃止してしまったが、その任務は完全に果されたのである。 現在でも一世帯十坪の菜園が作られているが。これは独立白尊の心を養い、自然の恩恵と人間処世の術を説くために、始められたというが、野菜の欠亡時代には 大いに重宝がられたものであった。
黒澤氏も労働者の苦痛は、ことごとく体験してきた。世人はそれは前世紀のアメリカの体験だったというかも知れない。しかし、「私は工員と同じ家に住み、 同じように働らき、利益は公平に分配している」というのも事実なのである。大正昭和の不況期にかけて、さらに終戦後にも一人の争議計画者も出さなかった。 家族的経営法は完全に凱歌を奏していたのだ。愛の工場と呼ばれたのも、またムベなるかなである。銀座に鉄筋コンクリートの黒澤ビルを建築するに際しても、 黒澤氏は建築に関する内外の書を読破して皆で検討している。人間は心のもち方一つでどうにもなるのだ。
ここに一つのピンがある時も、これは何で作られ、どの位の人手をへて、どうして作られてゆくか。そういうことを家族の一員として皆で研究してゆく。 こういうことがわかれば、自分達の作っている製品が、どのくらいのコストがかかり、どの位の額で売られてゆくか。こうみてくると自分達の得てる給料が、 果して妥当なものであるか、どうかがはっきりわかってくるというのである。「私は今まで個人経営をやってきた。人からもなぜ法人にしないのかと問われるが、 家族的経営を絶対疋しいと信ずるから、私の生きている限り、この方法は改める必要はないと思う」と自信のほどを、ほのめかす黒澤氏でもある。
千万長者の弁
「税金はなかなか高い。しかし正当に計算してみるとそれが法的に正当なものである。税金を払って了えば、後にはそれこそ一銭も残らない。しかし、 税務署だって、生命まで奪ってしもうことはない、一人前に喰わして貰って、それで社会に貢献できるのであれば、何のことがあろうか」と。実に堂々たる 長者番付第一人者の言葉は、聞く人をして畏服せしめるものがあろう。
本を読みさえすれば、何でもわかるという黒澤氏は六法全書を熟読して、友人の弁護士に、これでやっと君達の仲間と一緒に話ができるといった。ところが 弁護士は即座に「君、そんな無駄な努力はやめたまえ。正直に仕事をしている人に法律などは、あまり必要はないものだよ」と答えたという。黒澤氏の経営法、 処世術が如何に正しいものと評価されているかが、この話によっても、窺われるであろう。
「渾身の力をもって事業に当たれ資本は第二の問題であるが、それも自分自身の力で作ってゆかねばならない。」この信条はまさに鉄言であろう。 自己宣伝の嫌いな黒澤氏は、タイプーライター業者として、会費を払うだけのローマ字会員でありカナ文字会員であるが、その立場を利用して、 自分の商売の為にしたことは一度もないという。
やっと話しが終って、コンサイス(板についた英語を話す氏は適当な日本語をみつけるのに字引をみておられた)を手放した黒澤氏の背ろの壁には、 従業員で戦死した人達の写真が八枚もかかっていた。家族主義の現われなのであろう。