我が黒澤村想い出ばなし 水戸幸子
(株)クロサワ社内報 「ひろば」より
父から聞いた水道工事の話
私の父は東京ガスで組長をしていた長兄を頼って埼玉県の栗橋から上京し、東京ガスで配管の仕事をしておりました。結婚後、 本郷の春木町で、雑貨屋をしていた母か、あまり丈夫でなかった事もあり、どなたかの紹介で蒲田なら閑静でよいという事で、 黒沢工場に入社し、経験を活かして、水道工事に従事する事になったのだそうです。
水源地は今の多摩川大橋のすぐ近くにあり、土地の農家の方達のご協力を得て、黒沢村まで水道を敷いたという事です。 水源地から来た水は、大きな池に溜められ芝を植えられた浄水場で浄化され、ゴクソゴクンと音を立てて、タンクに揚げられて、 各家々に配水されたのです。
私は父に浄水場の上にあがって、蓋を開けて、中を見せてもらった事がありました。
中では奇麗な水が、まるで躍っている様に見えたのを覚えております。
その後、水源地が枯れて来て、水の出が悪くなり、夏等タソクまで水を汲みに行く様になり、東京市の水道から配水を受ける 様になりました。
父は本宅(社長宅を私達は本宅とお呼びしておりました)で水道が故障した時等、よく出かけて行って、修理をして おりました。
五分遅れの時計と岩崎さんの思い出
大正十二年の関東大震災の時、工場の時計が、たまたま五分遅れていたそうです。その為に従業員が、全壊した食堂に行かず にすんで助かった事を記念して、ずっと五分遅れにしてあるのだと聞かされておりました。
その時、従業員の岩崎さんの奥さん(秋田出身の美しい方でした)が、多分食堂だと思いますが、揺れがひどい為、 テーブルの下に入り、片方の手をテーブルにかけ身体を、ささえていたところに大きな石柱がたおれて、腕を肩から失なう大怪我 をされてしまいました。
その後、片腕だけになられた小母さんは、女の子を生み、家事一切をなさり、私も近所でしたので、子供ながら感心して見て おりました。が、掃除、洗濯等、ロ、手、足を使って、それは上手にやっておられました。特に編物は、帯に編棒の片方をはさみ、 それは早く上手に編みあげるのです。私は小母さんの編んだセーターを着せられ、母に、人間は努力すれば、何でも出来る とよくいわれました。今は故人になられた小母さんを、私は忘れる事が出来ません。
震災の時、父は社宅に帰って来る時、水が出て大変だったと私に話した事があります。
いつの新聞でしたか、地震の時の出水の記事を読みました.か、この辺一帯は出水の注意をした方がよいと思いました。
壊れたコンクリートの建物
関東大震災で外壁だけになった建物を、私達は、コンクリと呼んでかっこうの遊び場にしておりました。夏は大変涼しく、 朝からゴザを持って出かけ、勉強したり、オママゴトをしたりして楽しく過した思い出の場所だったのです。
この建物は学校だった事は聞いておりましたが、これが黒沢小学校誕生にもなったのだと思うと感無量です。
映 画 会
黒沢では、年に何回か食堂で映画会が行われ夕食をすませると、誘いあわせて食堂に集まり一夜を楽しく過しました。映画は、 チャップリンのものが多く、殆どのチャップリソ映画は見せて頂いた様に思います。
食堂のカレー
食堂のチーフ小出さんのカレー、メンチカツ等の美味しかった事、今でも同窓会等で集まった時に、食堂のカレーの話が出て、 どんなに美味しいといわれるカレー屋さんのカレーでも、あの小出さんのカレーには、かなわない味だと、皆、あの味を懐かし がっております。食堂のカレーは前もって頼んでおくと、一杯二十銭で売ってくれたのです。
お鍋をもって食堂に行くと、こげない様に二重になった大きな鍋から、大きなおたまで一杯、鍋に入れてくれるのです。この カレーの時は、何杯もごはんのおかわりをして、母にお腹をこわすと叱られたものです。
黒沢のお父さん達は、子供の為に、カレーのほか、美味しいカツ、メソチカツ、親子丼等の時には、家に持って来てくれたのです。 それを皆で分けて、美味しく頂きました。
又それが、私達の楽しみでもあったのです。
薪と木工場
黒沢工場では、年に何回か、木工場の廃材を薪として従業員に下さいました。指定された日に、一反風呂敷を持って、 木工場に行き、一軒、風呂敷一杯の薪を頂いて、それをひっぱって家に持って帰りました。
その当時は、薪でご飯を炊いておりました。朝おこげが出来た時は、お正油をかけてお握りを作ってもらって、よく食べました。 それが又、とても美味しいのです。この様にして、工場と社宅といつもつながっていた様に思います。
ロケ地としての黒沢村
壊れたコソクリの前の広場は、阿部正三郎、三井秀男、磯野秋雄のトリオの兵隊物シリーズのロケがよく行われ、学校の休み 時間にとんでいって見たものです。
絹川京子扮するクー二ヤンが、監督さんのオーケーが出るまで、何回も同じ事をくりかえすのをみて、俳優さんて大変なんだな と思ったものです。このロケ中に、エキストラの兵隊の銃が暴発し、大きな音がして、びっくりした事があります。今なら 大騒ぎになった事でしょうが、怪我人もなく何事にもならずにすんでしまいました。
又工場の広場では、江川宇礼雄、鈴木伝明、大日方伝さん達のロケがよくありました。水道タソクの裏は松の植込みがあり、 そこを海岸の松原にみたてて、金色夜叉のロケがあり、当時の林長二郎、田中絹代さんが散歩する場面を撮った事があったそうです。
斉藤達雄、八雲理恵子さんのコソビのロケの時、電線にかかった凧をとろうとして電線から落ちる場面で、斉藤達雄さんが 落ちるに落ちられなくなり、下に布団等敷いてやっと落ちて撮影が終った事もありました。
この様に、工場の昼休み、学校の昼休みに、皆ロケを見物し楽しんだものです。
黒沢村から見えた蒲田駅
父達が黒沢に来たのは、大正八、九年の頃だと思います。当時の蒲田駅は社宅(ポチャポチャ池のそぱの三号社宅)から見えた そうで、駅員の「蒲田、蒲田」という声が聞こえて、乗降する二、三人の姿が見えたとか、いかに、田舎だった事か分かります。
今の新蒲田一丁目あたりは、「原の三軒屋」といって、本当に淋しいところだったそうです。
現在のユザワヤ近くに、三島家の別荘があり、あの不如帰の浪子さんのお姑さんのモデルといわれるご隠居さんが、看護婦さんに 手をひかれて庭を散歩している姿が、垣根ごしに見られたと、母は私に話してくれました。
私の小さい頃の三島ヶ原は草ポウボウで、夜は追はぎが出るといわれ、夜の外出には、小田原ぢょうちんをつけて出かけたようです。
「三島ヶ原」の名は、御園中学の校歌の中に、その名を残すのみとなりました。
黒沢と私の家
私の家は、三号社宅から二号社宅と二度うつりまして、今区民センターの南口のところが、私の家があったところで、まだ 当時の椎の木が一本残っております。犬の散歩で通る道ですが、いつも懐かしく思いながら歩いております。
父堀越長太郎は、六十五歳で亡くなるまで工場に勤務いたしました。叔父堀越計は、早く亡くなりましたが、叔母堀越うたが、 停年まで勤務致しました。私の弟堀越貢は、黒沢工場から南多摩にある富士通にうつり現在も勤務しております。小林総務課長様は 弟を御存知だと思います。
又、私の小さい頃、母方の従姉の遊橋市が、本宅にご奉公にあがっておりまして、園遊会で本宅に行った時、二階で裁縫を している従姉の室で遊んだことを覚えております。
黒沢小学校の思い出あれこれ
黒沢小学校が開校され、私が矢口東小学校から転校したのは二年生の初め頃だったと思います。
校長は、鈴木先生、姓に、坂本先生(後に校長)ご夫妻、富岡先生。黒木先生は一年程あとに赴任されました。
同級生は十四名、天野勲、芦沢実、石橋徳次(病死〕、日吉昌一郎、田中十一,丹羽一雄(病死)、榊原忠男(戦死)、 金子(村外の子弟)、鈴木延義(村外の子弟、戦死)、中村一江、吉田孝子、山田芳子、堀越幸子、藪静江(後に転校、病死)。
木の香りとペンキの匂いのする教室で、私達生徒、一年、二年、三年の三クラスだけの授業が始まりました。グリーンの黒板、 一人一人の机と椅子、何もかも新しく、わくわくしながらの毎日の通学でした。
講堂や廊下の窓の柱には、『史誌31号』にもありましたが、いろいろな木の標本と、いろはかるたの小さな額がかかり、 かるたの英訳文が書いてありました。時折おとずれるアメリカのお客様を案内された、旦那さんが、一つ、一つのかるたを 英語で説明されていらっしゃったお姿が目にうかびます(私達は社長さんを旦那さんとお呼びしておりました)。
講堂には大きな柱時計があり、静かな放課後、時を報らせる美しい音色が学校中に響きわたるのを、ほれぼれ 聞いた事を想い出します。
各教室には学年に応じた本棚があり、本が大好きだった私は、小さな体(万年チビが私のあだな)で、何冊もお借りして、 家でむさぼる様に読みました。学校の本は殆んど読んだと思います。この本は本宅の方々が読まれたものを頂いたのだそうです。
五年生の教室の壁にはってあったハガキはアメリカの発明王エジソンから旦那さんに来たものでした。エジソンから ハガキが来るなんて、旦那さんは偉い人なのだと子供心に思ったものです。
学校の横の三号社宅の裏に、一人半坪の生徒用の小さな農園があり、大倉農園に、馬糞等の肥料をもらいに行って、 小さな鍬で耕し、畝の作り方、種の蒔き方等を教えて頂きました。
じゃがいも、さつまいも、唐もろこし等を植えて、収穫したさつまいも等は皆で食べた様に思います。この経験が 戦後の食糧難時代に大変役立って、結構いろいろな作物を
教員室の前の廊下に一日おきに小さな売店が開かれて、工場から筒井さんがお出になって、ノート、鉛筆、 消しゴム等の文房具を売って下さいました。今は故人になられた筒井さんの優しい笑顔を思い出します。
学校では何をするにも人数がたりない為に、ニクラス合同で行ないました。
学芸会で児島高徳を演じた時、私達六年女子は世話係、児島高徳は六年の天野勲さん、同じく天皇は鈴木延義さん、 あとの生徒は、家来達、五年の女子はお供の侍女という具合でした。劇が終わって、紙で作った衣装をおさえながら、 記念写真を撮りました。私の古いスクラッブブックにこの写真が残っております。
運動会の競技も同じで、黒沢村全体の催しの様に賑やかに行なわれました。
運動会の会場も私達の頃は、水道タンクの前の広場、壊れたコソクリの前の広場、一度は、東洋オーチスが建つ前の 広場でやりました。
その頃グリコの一粒三〇〇メートルのキャラメルが売り出され、皆、グリコの一粒をロに、足にはヨーチソを塗って 走ったのを覚えております。
修学旅行も行われ一期生は松島地方へ、私達二期生は関西へ、そして京都の宿は、黒木先生のお兄様 (奥村電機の重役で石川芳郎様)のお屋敷に二晩泊めて頂きました。
出発の時は、黒沢工場正門前で父兄の見送りを受け、お餞別を頂いて出発しました。
黒沢村近辺の四季
摘み草
私の母は人間は一年の内二、三回は野の物を食べなければいけないと申しておりました。
春は餅草、嫁菜、つくし等、特につくしは、引込み線の線路に陽炎がたつようになると、一斉に芽を出し、小さな バケツを持って、二、三十分も摘めばバケツー杯になりました。それの袴を取り茄でて灰汁をとり、かたくしぽって、ごま油で 炒め正油で味つけしただけのものですが、私の大好物で、今でも娘の住む鶴見の野原で摘んで、ほんの少しですが、 食べるのを楽しみにしております。
夏になると多摩川の土手から、あかざの芽を摘んで来て、おひたし、佃煮にして食べました。素朴な味で、 美味しいものでした。
おはぐろトンボ
お盆の頃になると、おはぐろトンボが、ゆらゆらと飛んで来ました。母はお精霊様が来だのだからとってはいけないと 申しました。たよりなげに、ゆらゆら飛んでいる姿を見ると、本当に魂が飛んでいる様に思えて、子供心に何か仏様を見ている 様な気持になったものです。
とんぼ取り・夕涼み
夏の陽が少しかたむき始めた頃、用水の上はトンボの群が飛びかい、もち竿、竹箒等をふりまわすと面白い様にとれ、 又おとりのトンボでおつながりにして遊びました。
夕食が終わり、あたりが暮れてくると、皆、団扇をもって、蛸の手橋に集まり、大きい子も小さい子も仲よく話をしたり、 ハモ二カを吹いたり、花火をしたりと、楽しい夕涼みの一刻を過しました。
蛍狩り
夜になると、用水の両岸の草の茂みに蛍があかりを灯し、飛びかう蛍のひかりの尾を追って、団扇でおとし、おせんべいの 白い袋に入れると、中で蛍のひかりがよく映るのです。又、蛍を蚊帳の中に放って楽しんだりもしました。
多摩川用水
水のきれいな用水には、川藻がはえ、その影に小魚がおよいでいたり、水すまし、あめんぼう、げんごろう、 やご等よくとりました。
水も温んでくると、雨あがりの午後等、男の子が用水につながる小川に入り、両側の茂みを棒や足で魚を追い出し、 用水の入口のところで女の子が四角い網をはって、鮠、鮒、朝鮮鮒、川海老、どじょう等とって遊びました。今でも 朝鮮鮒はきれいな魚だったと思っております。
父母が黒沢村に来た当時は、用水でしじみがとれたそうで、私は弟のおしめの下洗いに行ったり、暮になると障子を洗ったり、 生活にも利用したのです。それも、支那事変、満州事変と戦争が始まると、蒲田地区も工場、アバート等が建ちはじめ、 用水の汚れもひどくなり、魚等すめないドブ川になってしまいました。現在は、多摩川用水の跡の標を残すのみとなりました。
椎の実・雁
黒沢の社宅には、たいていの家に推の木、楠が植えられておりました。私の家の椎の木は女で、秋も深くなり 夜木枯しが吹いた朝、庭に出ると、艶々した茶色の推の実が落ちており、それをホーロクで炒って、すきとおった白い実を、 四、五粒位を楽しみながら食べました。
晩秋の頃の蛸の手橋からの夕景は格別で、後藤家の大きな藁葺屋根、大きな松の木が、暮れなずむ夕映えにくっきりと 浮き出し、その上空を雁の群が渡って行く様は、一幅の絵を見ている様で、子供心に何て美しい景色だろうと思いました。 そして皆で、雁、雁渡れ、と歌いながら、それぞれの家路についたのです。今でも目をとじるとその版画の様な、 夕景が浮んで参ります。
梅園
お正月も過ぎ、二月になると、よく古川の梅園に行きました。宗匠頭巾に道行を着た、お年寄りが、梅の木に短冊を さげていたり、大きな藁葺屋根の家では、句会をしていたのでしょうか。年配の方達が集まっていた事などがありました。 私達は梅園の後にある、築山に登り、多摩川の土手の向うに聳える富士を眺めたり、持っていったお菓子等を食べたり、 夕方まで楽しく遊びました。
坂本先生に教えて頂いた、多摩川の歌の歌詩の一節
桜よ、多摩川の堤はながしや、うらら、白雲、大富士、
高嶺、逢かに聳えつつ、秩父、箱根の山桜、桜よ、
多摩の真多摩の、花びら桜
ここまで覚えておりますが、私の好きな、歌です。
(新蒲田在住)