黒澤貞次郎氏講演概要
只今御紹介に預りました私が黒澤で御座います、御暑い中を態々御出て下さいまして有難う御座います。私共がかように 工場を経営致して居りますと時々工場を見に来られる方々が御座いますが、その方々はきまった様に、何か信念があるかとか、 資本はどうかとか御尋ねになりますが、私はこれと云って特に遠大な計画とか、又は大資本と云う様なものは持って居らない のであります。かような呑気な漫然としたことでよくもこれ迄やって来られたものだと自分ながら驚きもし 感謝も致して居ります。言わば一粒の良種が幸いに土地を得て温き時の恵みに依り芽をふきそれが、従業員諸君の心からなる、 丹誠に依り年と共に成長致しまして苗となり木となり枝を張り葉を付けて御覧の通りの梢々大木となったのであります。
創業以来三十四年になりますが、その間財界の波乱があったことも二、三に止まらず且又関東の大震災もありましたが、 この小資本のこれと云う設備もなく、大生産力も持たないちっぼけな個人工場がこれ等の苦境の荒波を無事に乗切り今日迄 存在を続けて来たと云うことは、誠に有難いことゝ感激致して居ります。この頃の言葉で云えば福利施設と申しますか 学校とか住宅の経営或は食堂の設備とかに付きましては私は出来る丈けやって居るつもりであります。然し之は 特に福利施設として従業員諸君に恩を施すとか何んとか云うつもりでやっているのでは決してありません。 私から申しますと変でありますが、私は小学校も中途にして、働かなければならぬ境遇に置かれました関係上、自分等と一緒に 働いて呉れる方々の子弟をしてかつて私が舐めた様な苦杯を喫せしめたくない、何んなことがあっても小学校だけは満足に 卒えさせて上げたい斯様な考へから学校を作りました。私の工場には食堂も御座いますが近くに 住宅を作ってありますから 家に帰って一家団らんのうちに食事を摂ると云うことは家庭愛の上から申しましても誠に結構なことゝ存じますが、この 食堂で一同が一緒になりささやかながら、昼食をすると云ふことにも一にはお互いが苦しかった,昔を偲ぶよすがにも、 又一にはお互いの親密を増す為めにも幾許かの効果はあるだろうと思ってやって居ります。
食堂に当てました建物は非常時に際しては直ぐにも工場として使える様にと考えまして工場と同様に作ってあります。 次ぎに住宅でありますが今から二十年前には家賃が高かったこともありましたので住宅を作ったならぱ、従業員の方々にも 多少は楽になって貰へるだろうと思って、一軒二軒と増して行ったのが今の様になったのであります、樹木も相当に ありますので或は儲けて作ったのだろう等と思われるかも知れませんが、この樹木は一部分は苗木からであるが他の大部分は 種子からの芽生えであって、これ又時の恵みと人の丹誠の所産に外ありません。前にも申上げました様に、学校と致しましては 小学校と幼稚園がありますが、ここでは只だ生きた人聞を作る基礎教育をさえすればよいのだと考えて居ります。
これ等の福利施設と申しますかを作るのに一時にまとまった金を出したのでは決して無くその時々に作ったので、今から 顧みましてよくもまあ出来たものだと我ながら感心もしまた驚いても居ります。総てはこれ丹誠の華であり実であって決して 私のみの功労でも何んでもありません。
斯様に申し上げますと、或は恩に慣れ又は情に甘えて成績が低下しやあしないか、又は収支が償はぬ様なことはないか等と 申される人も御座いますが、私の所ではもと々恩情を施さんが為にやっているのではありませんから、恩情の蔭に怠けると 云ふことはありません、少くとも私は聞いて居りません、御覧の通り多分に素人臭い所が御座います様に此等の建物は自分で 材料を購い自分で柱を立て屋根を葺いて出来たのであります。
何時までもこの工場が存続しそして、又我々が栄えて行く為には必ずや一致団結の力を要するものであって、算盤を弾いては 到底出来るものではありません、それは未知数の集積でありまして決して理窟ではないのであります。
小工業の経営をやれば儲ける時もありますが、又損をする時もあります。商売である限り損得のあるのは止むを得ないことで あります。儲けたとか損をしたとこか言う事は単に帳簿上の計算にのみ依るべきものではなくて、後になって螺子が殖え 材料の在庫が増して居ればそれは儲けたことになるのであります。私はかように考えて居ります。儲かった時には 損をしたと思って何か品物を作ればよい、損をすれば極楽銀行に預金をしたのだと思へばよろしいのであります。
諺に「国乱れて忠臣顕れ家貧しうして孝子出づ」とか申しますが斯様に集団的生活を致して居りますと平常は色々な私共の所の 様な福利施設とか云うものがどれ丈け役立って居るかなどと云うことは判りませんが一朝有時に際しましてあゝよかったと 思われることが時々あるのであります。彼の関東の大震災の折がそうでありました。私の所では皆の者が散りぢりにならず、 一つ所に居りましたので、直に集ることが出来翌る日から自分達の工場は自分達で作らうと云う決心になりまして この工場が出来上ったのであります、これなどは集団の関係に依る賜であると思って居ります。
福利施設とか云うものは 結局火災保険或は生命保険をかけて居るのと同様だろうと考えます。此の種施設が私の道楽でない事は勿論でありますが決して 又恩を売る為のものでもありません、祖先から教えられた「積善の家には餘慶あり」との格言は私への唯一の遺産であります。 私の両親は非常に善人でありました。其の餘慶で私が今日あることが出来、また私が出来る丈けのことをして置けば 私の子供達にはきっと良い餘慶に預ることが出来る考えで居ります。
この種事業は今後とも継続してやる心算であります。 時折私は皆の者を集めて話をすることがありますが。その時私はこの工場を船に喩へまして私はこの黒澤丸の船長であり、 皆さんは船員である、如何なる苦難に遭おうとも如何に波が荒かろうとも全員が協力一致してその持場を守るならば、 黒澤丸は決して沈没することはありますまい、然し、皆さんが不注意で或は怠けて働くならば、この船には穴が開くかも 知れないからよく気を付けて決して穴を開けてはならない況んや沈没させてはならない、私は常に同一の船に乗組んで居る 心算であります。
何かやって国家社会に貢献をしたい之が私の念願であり、そして叉同時に此の黒澤丸の港でもあると信じて居ります。
これで私のお話は終りたいと思います。永々と御清聴を煩しまして有難う御座いました。
質問応答
△資本なしと云わるゝが初めは如何
△製作工程中能率増強に関し特別の組織ありや
能率増進と云うことは大分以前より叫ばれている事ではありますが.私は良品を作ると云う事が最大の能率増進なりと 信じております、もともと数量の多寡は問題でない要は如何にして、良品を作るかにある、特別の組織は持っておりません。
△創業当時より製品を作りしや
当時は設備が無かったので部分品のみしか作らなかった
△最初幾人位居たか
ニ、三人しかいなかった。今工場長をやっているのが一番古い。
△今迄に悪い職工が居たか
時にはある様だが私は知らん。やめた人は少い、近所で労働争議があった時に私の所へも来ると云うので来たらお弁当でも 作ってやろうと思っていたが、遂に来なかった。
△、雇入は如何にしてやるか
大てい紹介による血縁関係(職工の)者が相当いる
△学校卒業者は工場に収容するや
本人の希望次第である
△停年制ありや
私自身が停年にされるのが嫌だから左様なものは作ってない。
△創業当時同業者ありや
ない、商売は同業者がないとやりにくいものだ、同業が増すと云う事は仕事に見込があると云う事になる。同業者の出来る程有難い。
△何故に仮名タイブライターを作りしや
これを作った動機は,日清戦争当時支那は知られていたが,日本は知られていない日本人が支那人と間違われるのは人種が 同一であるからでもあるが、一つは同一の文字を使うからである.支那人と間違われない様にと思って明治三十二年初めて作った。 実際に使い初められたのは大正四年で、作ってから十八年目に中央電信局で二台使ったのが初めてである。