「弔詞」 中村幹治
「弔詞」 中村幹治
黒沢さんが亡くなられたという新聞をみて驚きました。だが考えて見るとお互様八十に近い高齢であるから枯れるのも寿命と いうべきであろう。御遺族の方には百歳までも生きて貰い度いのが人情であろうが年に不足はない筈である。 唯老人達の一致した願いは永く病床に呻吟したくないということである。
君はタイプライターの黒沢さんという有名人になられた。又近年発表される所得税番付に於いて首位に近い位置を保うて 居らるるので、この方面でも成功された人である。併し私の信ずる所ではそのような通俗な名誉と利益には寧ろ淡泊であって、 諭しみは別にあったと思う。君の米国で作られた仮名字のタイブライターを日本の電信に利用するという夢をもって帰朝された 時に機未だ熟せず、多年別方面に進展を計られたが、幾年の後新にテレタイプの時代となり,昔の夢を再現する情熱が日本式 テレタイプを完成させたのである。
宿願の完成した喜びは他人のうかがうことのできぬ愉しさであったと思うのである。かくして国家に貢献され, 利潤の生ずるのは自然の成行に過ぎないから、増産を要求されても之に応ぜず単価の値上げさえも断わられたとの噂さがあり、 唯々密かに夢の達成に満足して居られたように思う。
私は君との関係に於て只一知人に過ぎない存在であるが,何となく意気相投ずるところあったというか, 君の一般的社交の線を超えて種々御高説を聞く機会があったと思うのである。
初めてお目にかかったのは明治三十八年頃京橋弥左衛門町かにお店を持っていられた時、 野田正一君と私が共同で数寄屋橋に開店した碌々商店が発展の為新肴町に移転し、僅か六七軒の隣家となって エリオットプックタイプを一台分けて頂いたのが最初の縁で、懇親を加え君の手づからの西洋料理に招かれた記憶がある。
銀座尾張町の今井商店が悲境に落ちた時,碌々商店の取引関係で,債権者会議に野田君出席して, 地所家屋を処分して整理するということになり、碌々で買ってはどうかと言われたそうである。機械屋に銀座の表通りは必要がない, 黒沢さんに好適だと思ってお話をして、この銀座の御店が出来ることになったのである。
黒沢さんは純粋の江戸っ児である。そして米国で生活方式を作ってこられたから,日本風の愚痴っぽい無駄話は大きらいであった。 友だちと話をするにも,一般には適当なユ一モラスなたねを用意して居られたように思う。 蒲田へ帰る電車の中で酔って眠り横浜まで持って行かれ目がさめて反対側に飛び移ったら,それが東京から今着いた電車で、 眠っていた方が東京行であった。到着しても醒めない客はそのまま秉せて戻る積りらしいなどという話は度々衣がえして伺いました。 そういう君が偶然の機会に於て、私に幼時から苦労された経歴を語られたことがあった。 恐らくは君としてはめずらしい事でないかと思うのでここに御話を偲んで見たいと思うのである。
銀座のお店が出来て何年もたたない頃かと思う,夕飯後お店の前を通ると店の人、数名を集めて 君が何か説教して居られるので一寸寄ってみたら丁度よい所に来た,まあ私の言う事を聞ふて呉れというのがはじまりで, 君の経歴を君自身から聞かされたのである。その動機というのは,君が幼時小僧奉公中に勉学が出来なかったので 店員には夜学の便を与えるという私の同情を無視して雨が降ったから休む少しばかり頭痛がするから休むと欠席ばかり している。そんな学問きらいな連中はみんな退学せよというていたのだ。どうです心がけがちがうでしょうということであった。
君は幼時日本橋の薬問屋に小僧に入った。時代は英語が必要になってくると考えて一年二回藪入りの時に小遣として金二十銭を貰う。 それで英語の独案内を買って暗記する。石油ランプの二分芯という最小型のものを求めて二階に置き夜八時頃お休みなさいというて 二階へ上ると、そのランプで独案内を読み、覚えにくい字は腕をまくって奥の方に書附け置き、 翌日お医者さんへ薬を届ける荷車を引きながら之を暗誦したそうである。
然るに一度御主人が之を見つけ生意気だというて本を取り上げ,時間があり過ぎるからだと九時まで売薬の印紙はりを手伝わされた。 君はそんな理不尽な圧迫に負ける人ではない。又本を買いランプを求めお蔵の三階に置いて 就寝前一、二時間は三階でかくれて勉強をつづけたという。
かくして年期が明けて二十一の徴兵検査がすむと愈々お店の番頭格に出世するので羽織袴を作ってくれるのが吉例である。 所が君はお店に番頭として止まりたくない是非米国へ渡って見たいので仕度料を現金で貰いたいと申出たそうである。 いずれ相当ゴタダタもあったろうが,とにかく望みが通って渡米することになり横浜に出てツルシの洋服を買い船賃を払ったら 一銭も残らないので、それまで着用していた日本着物と帯まで質に入れ八円を得て船中の小遣としたという。その頃は見せ金など 必要もなく渡米は楽であったし、独学ながらバーレーの英国史が読めたというのだから大したものである。
太平洋岸に上陸して先ず,芋ほりをやった。連中は移民同様で労働者だから英語の通じる君は直ちに斑長ということで専ら 雇主との交渉に当り,一人から毎日十仙づつ支払う慣例で,十数人の斑には数十仙の収入と,体力はないから仲間の半分の賃銀 としても合計は多くなるという事であった。
そのうちに農事の手伝いよりも鮭漁の方が収入がよいというので更に北上して働いていたら多少の貯金が出来た。 時恰も紐育行きの鉄道が三線共に競争をはじめ,東へ東へ二十五弗という宣伝であったから此の時とばかり紐育に向った。 例のブルクリン橋上を行李をかついで渡った田舎者さと笑われた。
紐育では家事手伝いに廻るうちエリオット氏に気に入られ同家に継続して働くことになり, 一年ばかり過ぎると学校へ通わしてやるということであったが,君はあなたの工場へ入れて下さいと頼みブックタイプライターの工員と なられたのである、とこれがその夜の御話である。
君はそれよりタイプライターの製作に通暁して日本仮名字のタイブライタ-を作り,之を電信に利用したらぱと考えて, 逓信省に見本を提出したら有望だということで大きな夢を抱いて帰朝されたのである。 然るに仮名字タイプライターは電信用として数台の見本位の買上げで君の夢は実現しなかったのである。
従って君の苦労も一方ならぬものがあって,一般のタイプライターと事務用文房具に新らしい進路を作られたのである。 君の才能と信念は着々と実現して業務隆昌に赴き,大地震の時には蒲田工場は倒壊し,銀座の店も隣人の持ち込みたる家具の為類焼し, 横浜税関に於ても多大の焼失せるものあり全財産を失いたるやに見えたるも,君は百万円の貯金を準備して居り 即日回復にかかることが出来たと言われた。
通信機中最も時勢に後れたる電信機が改良進歩を企図せらるる時機到来して最新の頭脳により驚くに足る装置となった, その中核を為すものはテレタイプである。君の研究は昔の夢の継続であり,米国で習得された技術,仮名字タイプとの因縁, それを解決せんとする努力は君の情熱によって実を結ぴ今日工場の主要な製品となったことは当然である。
君は物を製作さるるに当って能くその使用上の要点を研究された。それゆえに日本人の偽造が上手だといわれるような外見にとらわれず, 使用上不満足の起らぬことに全力を尽された。
カードの寸法の厳格さその切断室の備品を見ても知ることができる。十年前のものと今日のものを合せてこばの揃うのは当然である。 帳簿の表紙の如き全くクロースに包まれて外よりうかがい知ることのないボール紙が厚い一枚でなく薄い三枚縦横交互に張り合せ. 恰もベニアのように狂を生じない用意をするという良心的工作を説明されたこともあった。 この誠実が君の成功の根元であり之に勤勉と聴明なる理想が益々効果を加えたものと思うのである。
五十年に近き御厚誼に私が時々接触をして来た因縁に故阿見左門のことがある。 私の兄が友人に頼まれたとて宇都宮中学を卒業したという栃木の田舎丸出しの青年阿見を碌々で使って呉れという。 生憎碌々では其時二人の青年を採用した直後で,私の自宅に置いて他に就職を求むることにした。君の御話によると, 舞鶴海軍工廠で英文タイピストを一人依頼されているが中々田舎へ行く人がない.中学を出て居れば一カ月位の練習で間に合うと思うから 希望があれぱ教えて見よう.その代り少なくとも三年は辛棒しなければならぬという条件で阿見がお世話になったのである。
一ヵ月位の練習と言われたものを二十日間で卒業し、朝八時から五時迄の間昼食に十五分を休むだけという努力を買われたか、 四五年後には黒沢商店の人となり,その誠実,正直.忍耐という点で君の御信用を受けたらしい。その後十数年後胸を病み死亡してしまった。
遺族として末亡人と二人の手供があった。君は態々会社に私をお訪ねになり,故阿見の為に遺族を社宅に止め、 一般社員も忠実なる永勤者にはこの位までの待遇をしてやるという最大級の取扱をしてやる。未亡人は裁縫が上手であるから、 多少の内職も出来るから何とか生活を続け得ると思うが、これ以上は私に然るべく指導せよとの御話があり、 勿論お引受けをしたので以来二十年彼等は幸福に生活し子供は電話局の技官として成績もよく、君の恩恵に感謝感激の念を忘れたことがないと 信じている。
君は信念の強い方であったから相当にワンマン振りを発揮されたが一面阿見の場合のように忠実な者には情に厚い所があったりで私としては 大に敬意と謝意を持っていました。今日この告別式に際し君を偲び深く追悼の意を表したいと思う次第である。 昭和二十八年二月二日