Post date: Oct 6, 2013 12:22:38 AM
◆講師:穂村弘(歌人、エッセイスト)
◆コーディネーター:池上冬樹(文芸評論家)
●小説
・竹野正哉さん「すいがら」(5枚)
・佐藤麗さん「ル・ガ・エ・カイユー」(15枚)
・香川秋さん「引き出しの中のネズミ」(20枚)
●エッセイ
・大野水絵さん「桜子」(3枚)
・佐藤信子さん「思い出の日差し」(3枚)
・杉本みはるさん「嘘つきナイチンゲール」(4枚)
・根多加良さん「日本の風物詩・パンツ重ね」(11枚)
今月の講師は穂村弘先生。現代を代表する歌人であり、エッセイの名手でもある。前半は、穂村先生のトークを交えつつ受講生が書いたテキスト7編の 講評を行った。後半は、歌詞における言葉の表現について、穂村先生にお話しいただいた。
(穂村先生)
まず、エッセイ4編の講評から。最初は『嘘つきナイチンゲール』。池上先生は「おのろけを読まされても面白くない。エッセイは嘘があってもいい。 読者が共感出来るように書くべき」と述べた。穂村先生は、タイトルにある「ナイチ ンゲール」という言葉を使用することには問題があると話す。「その言葉が看護婦の代名詞として対応する期限というものが徐々に薄れていく。使おうとする言 葉の対応期限ということもよく考えた方がいい」。 また、冒頭部分より『ゴボゴボと』『ガクリと』『ニヤリと』といった記述が多いことを指摘、文体が通俗的過ぎるとした。「読者は、この記述の文体を見たと きに、どの程度エンタメ寄りなのか、純文寄りなのか、詩的な散文詩寄りなのかを感じとる。この文体は、テーマと長さの割にはややエンタメ寄り過ぎ る。作品の長さやテーマに適正かどうかを考えながら書いてほしい」。
2番目は『思い出の日差し』。「いろんなことを盛り込み過ぎて散漫になってしまった。1つのテーマに限定し、もっと具体的に書くこと」と、池上先 生は短い枚数でエッセイを書く場合の注意点を述べた。穂村先生は、冒頭の「私にとって子供の頃の思い出は (略) アンドリュー・ワイエス のあの懐かしい日差しの風景なのです」という一文を、「絵画という、既に他人が表現した表現で自分が語り出したいことを言ってしまっている。他の 表現で自分がこれからやらなくてはいけないことを置き換えるというのは、やってはいけないこと」と指摘、言葉で表現するということについて、次の ように語った。「誰だって起きる可能性があるようなちょっとした体験でも、言葉の斡旋でそれが鮮烈に見える。その辺の独自性を、大事に言葉にして いきたい。短歌では、描写しろ、という。叙述と描写の違いがあって、苦しくなると叙述したくなるのだけれど、それを堪えて描写に徹しろ、という。 こういう文章の場合、その描写の臨場感が重要になるから、頑張る必要がある」。
3番目の『日本の風物詩、パンツ重ね』。「ありもしない話をあたかもエッセイのように書くというのは、以前からある。こういった作品を書く場合、 過剰なまでのユーモア、あるいは文明批評といったことが必要で、どのくらい描くかということが重要」と池上先生は話す。穂村先生は、この作品に適 切な文体について「レポートや新聞記事、風物詩を語る慣用句だけで埋め尽くすことが重要で、そこに素顔が出てはいけない」と語る。また、「作者の 筆力の割には長過ぎる」として、「自分が捌ける、完全に素知らぬ顔をしきれる分量で書くといい」とアドバイ ス、ラストについては「矛盾が生じてしまった。ラストはカタルシスに結びつけたい」と述べた。
4番目は『桜子』。池上先生は、美文調で書かれた文章を指摘、「どうしても自己陶酔している作者の顔が見えてくる。美文というのは文章が勝手に動 いてしまい、読んでいる人間の気持ちを鼓舞する前に作者の中で完結するようになっていく。読者の気持ちを動かす文章であるかどうかをもう少し考え て。もっと普通の言葉でいい」と話す。穂村先生も「綺麗 な言葉だけで書かれているが、それは表現ということにおいては、汚い言葉だけで書かれているのと同じこと。作者が先に陶酔すると、読者は陶酔出来ない。 酔っぱらいと同じ原理で、先に酔われると残された方は冷める。我慢して読者を先に酔わせること」と続けた。穂村先生が、この作品の長所とし てあげたのは、体言止めや倒置法のリズムが非常に良いということ。「だから、こんな 美的な単語を使う必要は全然ない。一番いいのは、『春の作法』っていうところ。非常に、 おっ、と思わせる言葉なので、他の綺麗な言葉を全部落として、ここが浮かび上がるようにしたらいい」。
エッセイの講評の後、池上先生が穂村先生に「エッセイを書くときは一番何を考えるのか」と質問を投げかけると、穂村先生はご自身が挑む「表現」に ついて、独自の見解を話してくださった。
(池上先生)
「何にも無い状態でこうやっている時の情報量って ものすごく多い。見えているもの全部は表現しきれない。われわれ今生きている人間は、政治とか経済とか愛情とか、そういういくつものフィルターを掛けて合 意している。そうしないと、社会としては効率が悪すぎるから、政治的合意、経済的合意、愛情的合意、無数の社会的合意みたいな ものがいっぱいある。表現というのは、それをもう一度解体するってこと。その合意を破るってことです。でも、その合意っていうのは、そう簡単には破れない 強固なもので、とりわけ最も強固なのは初期設定。つまり、男と女がいるとか、死ぬとか、動物種が我々に与えた摂理のこと。例えば『他の命を食べな いと自分の命が維持できない』なんてことを表現しようとすると、すごいハードルが高くなる。だけど、宮澤賢治のような天才はそれに挑む。このレベ ルではないにしろ、これは厳然と生理的にその摂理に挑んでるな、ということはあると思う」。
小説3編の講評へ。初めに『ル・ガ・エ・カイユー』。池上先生は「書きたいことが見えてこない」「描写に喚起力が無い」の2点を指摘。また「語り 手が話を進めていく場合、語り手は感情を出さない方が読者は着いてくる。語り手は冷静にその場所にいて、読者にそれを伝えるような触媒の役割をし た方がいい」と話す。穂村先生は「言葉の重複、何を指すのかがあいまいな表現、文脈がゆれる部分があるので、精度の高い描写を心がけて」と述べ た。穂村先生が「いい文章」としたのは、「なぜかサンダルに白いソックスをあわせており、そこだけが奇妙に周囲の景色から浮き上がっていた」とい う一文。読者にリアリティを感じさせる文章なのだという。リアリティを生む理由についてこう説明する。「この文は、社会的にも経済的にも政治的に も恋愛的にも全てのフィルターにかからない、つまりどうでもいい情報。それを書かれると、なぜか読者は『ってことは、これはリアルなんだ』と思 う。歴史的、経済的、政治的、社会的、恋愛的な中の価値ある情報は、提示されてもそのようなリアリティを生まな い」。
次は『引き出しの中のネ ズミ』。池上先生は「亡 くなった人への配慮が無いと、震災を書くのは難しい。亡くなった男性と対比して、『オレは子供がいて幸せだ、よかった』という話にされると、子供を失った 人はどうなるんだよ?と思う。そこに非常に引っかかる」と話す。穂村先生は「この作品は記述レベルが高い。書き方においては、減点するようなとこ ろはほどんど無い」と 評価。震災を書くことについては、「池上先生がおっしゃった、最大の問題点がある」としながらも、表現者の視点から、次のような意見を述べた。 「僕はこの有り方もあると思う。ただし、作者が指摘のあった欠陥を認識していれば。それを分かっていて、しかし人間にはそのような認否人性があ る、ということを書くつもりで書いているなら、この書き方でいけないとは思えない。そうは言いたくない。地名を架空のものにしたからといって、そ の問題が解消 されるわけじゃない。ハリウッド映画やテレビドラマなら、他者への配慮がなければ成立しない。だけ ど、表現として、短い文章だからこそ、しかし人間にはその部分はあるということを突き付ける書き方を、それはいけない、とは言いたくない」。
最後は『すいがら』。池上先生も穂村先生も「緊張感がある」と評価。穂村先生は、その緊張感について、「やや病理的なものの感じるぐらいの緊迫感 で、『すいがらが放たれ (略) 男はそこから動けなくなる』ことが、魔術的な条件反射のように1行目から読まれる。非常に魅了される」と話す。 ただし、「文中、作者がやろうとしていることが、言い方から出てしまった部分がある」と指摘、「ここはやや馬脚を現している。書き手と読み手は、 カードを先に出した方が負け」と述べた。また、ラストが「惜しい」とし、次のように話した。「この種の文章は、最後が信じられないようなことが起 きて欲しい。これは詩の文体。詩の文体というのは、最後何が起きるか作者も分からない。短歌や詩にある、韻文的な、すり抜けたオチを参考にした い。最後は散文になってしまっているので、韻文で突き抜けないといけない」。
講評の後、『なごり雪』(イルカ)『大阪で生まれた女』(BORO)『夜霧のハニー』(アニメ『キューティハニー』エンディング曲)『そして僕は途方に暮れる』(大沢誉志幸)『Vendôme, la sick KAISEKI』(菊地成孔)の5曲を穂村先生自らが選曲、それらがなぜ人の心を惹きつけるの か、歌詞における言葉の表現について解説いただいた。
『なごり雪』が名曲になった要因の1つは、<君はきれいになった>というサビの言葉が、実際に目の前にいる相手に対して言うのではなく、心の中で ずっと繰り返されているところにある。
『大阪で~』は、サビのところで関西弁になる歌だが、<あなたに着いていこうと決め た>の部分だけ、<あんた>ではなく、とても丁寧に<あなた>と発声する。そこに非常に清純な感じが出る。
『夜霧の~』は『キューティー・ハニー』というアニメの終わりのテーマ。 最後の方の<どこかで呼んでるハニー~誰かが呼んでいる>からにじみ出る「自分はキューティー・ハニーとして悪と戦う。だけど独りになると誰かの呼び声が 聞こえる」といったヒロイン性。
『そして僕は~』は詩のすごさ。文法的におかしい、ねじれた変な日本語であるにもかかわらず、理屈を超えた圧倒的な説得力がある。
『Vendôme~』 は、言葉の綱渡りみたいなところが全部いい。特に、宿命的な女性の名前を挙 げながら、<生きてればいくつになるのね、・・・いくつになるのね>って言い続けるところは、感情に訴えてくるものがある。
穂村先生の解説が終わると、池上先生は「歌詞とか、想いというのは、言葉が成り立って表現し得るもの。小説家はひとつのことを書く場合、ある種の 勢いを必要とする。だから、言葉使いということを考えはするものの、どうしてもストーリーの方に身をゆだねてしまうところがある。でも、こういっ た有名な歌詞にあるような言葉のテンポの使い方、関係性を表すための言葉の利用の仕方があるということも知っておきたい。小説を書く際に参考にな るはず」と締めく くった。
(H.F.)