Post date: Mar 24, 2012 11:24:55 PM
講師:佐伯一麦(野間文芸賞作家)
コーディネーター:池上冬樹(文芸評論家)
「ブリを捌いたときに刃がこ ぼれて。包丁の刃が入っているかどうかなあ、と思ってブリ大根を食べるのはスリリングでねぇ」。受講生の笑いが会場に響いた。受講生が提出した短篇の講評のときである。陶器の破片が入ったイチゴジャムを食べる場面について、ガラスの破片なのか、陶器の破片なのかで、その人物の悪意の度合いがわかるといったあと、自分の体験をひかれたのだ。講師は、現代を 代表する私小説作家の佐伯一麦先生。講座の前半、時折ユーモアを交えつつ、受講生が書いたテキストの講評を行った。
(ユーモアも豊かな佐伯先生)
まず、登場人物に、読み手の共感が 得られないのはなぜか。その理由を、佐伯先生は、「世間の価値基準に書き手も従ってしまっているから」と分析する。私たちがいる社会には、あ る一定の価値基準というものがあり、日常生活も様々な固定観念で溢れている。それらの価値基準や固定観念を、私たちは無意識のうちに取り込ん でしまっている。ゆえに、書き手が、登場人物に対して想像力を働かせずに、自分が納得出来る想像力だけで描くということは、登場人物の価値観 を、ひとつの固定観念で書いてしまう可能性が非常に高くなる。「そこに、固定観念の『惨さ』が出てくる」と佐伯先生は指摘する。「書き手が、 しっかり想像力を働かせて書かないと、読み手は、固定観念の『惨さ』を超えた、そのもの自体が持っている面白味というものに気付くことが出来 ない」。
E.M.フォスターによる「扁平人物」「球形人物」という概念があるという。「扁平人物」は、 平面的に人物を捉えるもので、「そこ」しか見えていないから、「そこ」だけを書いていく。「球形人物」は、人物全体を球として捉え、一部しか 書いていないけれど、球形の中のその一部だけを書いていると感じさせる。佐伯先生は、「人物を書く時は、球形人物として捉えること。書き手 は、書かれていないことも掴んでいないといけない。いろんなものの描写ないし表現の深みにともなるはず」と話す。池上先生も、「最初は嫌なヤ ツだと思ったら、実はいいヤツだった、というような意外性があるといい。人はみんな裏表あるものだ」と続ける。
(人物の意外性について話す池上先生)
講座の後半は、佐伯先生が、 小説を書くようになった自分を作り上げた本という視点から、10冊の本を紹介。それぞ れの本に対する想いやエピソードを交えつつ、トークを展開した。「自分の中で、こういう読書体験の道筋でもって、こういうものを書いている自分がある、ということを意識しておいた方がいい。自分が、どういうタイプの小説の書き手なのかということを自分自身で知ることは、作品を書くとい うことと同等なくらい大事なこと」と佐伯先生は語る。一番最後に紹介したのは、『冬の二人』という本。立原正秋と小川国夫の文学修業時代の往復書簡である。この本の存在によって、佐伯先生は、 文学的な世界に引き留められたという。「本に限らず、文学を手放さないための具体的なものがあれば、それを大事にしてほしい。文学的な親しみ を常に感じさせてくれるような何か。ずっと書き続けていく時に、きっと手助けになると思う」と結んだ。
(池上先生{左}と佐伯先生{右})
何かを感じ、何かを見つけよ うとして、何度も何度も読んだ本。私室の本棚でうっすらと埃をかぶっていた。この本を手元に置いておこう。これからもずっと。本に息を吹きか けると、埃がふわりと散った。
(H.F.)
※佐伯先生が選んだ10冊についてはこちらをご覧ください。