11月講座ルポ

Post date: Feb 21, 2013 12:20:08 PM

◆11月講座ルポ

◇講師:柴田哲孝(大藪春彦賞作家)

◇ゲスト

・山田剛史(角川書店)

・古里学(同)

・小林龍之(講談社)

・小林晃啓(光文社)

・門田大範(祥伝社)

・大島加奈子(幻冬舎)

◇コーディネーター:池上冬樹(文芸評論家)

◇テキスト

・かじゆりこ『シャッフル』

・みつときよる『棘』

・安部百平『奇しき縁か』

・落合玲子「震災と記憶」

◇受講生によるルポ

11月の講師は昨年12月にもいらしていただいた、柴田哲孝先生でした。

今回はなんと、講座の二日後が発売日になっていた「チャイナ・インベイジョン〈中国日本浸食〉」(講談社)をフライング発売していただくというサプライズが! 柴田先生のお話も聞けて、新刊も早く買えるなんて、うれしい限りです。

(柴田哲孝先生)

今回のテキストは小説3作、エッセイ1作の4作品。

最初に取り上げられた作品はバーテンダーである主人公とお客として現れたマジシャンの青年との交流が描かれた、かじゆりこさんの『シャッフル』でした。受講生からは主人公が女性だと思った、という意見が出ており、作者のかじさんは「女性にすると自分の感情がリアルに出てしまうため、距離を置こうとして男性にした」とのことでした。編集者さんからも、「思考などが女性的になっているため、無理に背伸びをせずに女性として描くべき」との意見がでます。

柴田先生は、作品に使われている「ギムレットは好きか?」と最初にかじさんに向けて質問をなさいました。「あまり好きじゃありません」というかじさんに「だと思います」と返す柴田先生。お酒にさほど詳しくない者としては、意図がわからず首をかしげてしまいます。「ギムレットであることに愛着が感じられない、バーテンダーにしてもバーを継ごうとしてバーテンダーになれるものではない」という裏付けに関しての甘さを指摘されました。また、仕掛けの説明の多さに関しても触れられました。「上手い作家は最後の一行で説明なしでもすべてがわかる。これだけ説明がいるならミステリとして成り立っていない。」という言葉に納得する反面、たった一行で裏に隠されているすべてを解き明かすことの難しさをひしひしと感じずにはいられません。ミステリを書くことの難しさ奥深さに触れたような気がしました。

みつときよるさんの『棘』は交通事故の加害者家族を題材に書かれた作品でした。作者のみつときさんは「許すだけが家族なのかを書きたかった」とのことでしたが、事故を起こした姉を妹が拒絶し続けるという構造が、登場人物の感情としておかしいのではないかという意見がでました。編集者さんや池上先生からも「イヤミスは最後に感動があるから支持されるのであって、最後まで救いがないというのではカタルシスがない」「姉を許さない理由に二重、三重の構造が欲しい。別の真相を作った方がよい」といった構造上の問題が指摘されました。

柴田先生からも、事故の加害者親族にこのような発想の人間はいないといったリアリティの問題、また作中で「ひとごろし」という言葉が繰り返されているため、この言葉の持つ強烈さが薄まっていることについて触れられました。

『シャッフル』『棘』両方で指摘があったのが、リアリティの問題と繰り返しの多用でした。表現を繰り返すことで言葉の持つ力が薄まってしまったり、作者の自信のなさが表れてしまうという話に、今まで使用する言葉を大切にしてこれただろうか、と反省せずにはいられません。柴田先生の作品には、現実に起こっている問題を小説に取り入れているものが多くあります。これらの作品は柴田先生が取材して書かれているもので、講座の中でも何度も取材の重要性を説かれていらっしゃいました。このリアリティの追及が、柴田先生の作品の面白さの一因になっているんだな、と感じました。

安部百平さんの「奇しき縁か」は明治時代を舞台にしたミステリでした。大変お上手で、編集者の方からは「最終選考に残ってもおかしくない」との声も上がります。しかし同時に「賞はとれない」との厳しい言葉もありました。一因としてあげられたのが、作品の中で主人公の元妻に対する愛情が作品の中で見えてきていないのではないか、ということです。主人公の元妻に対する思い、慕情がもっと描かれるべきで、描かれていないために物足りなさを感じさせてしまう、という評価でした。

柴田先生もまた「非常にうまいが賞はとれない」とおっしゃいました。「本人が何を書いていいのかわかっていない。何が書きたかったのか言えないとダメ」とのことです。小説を書くに当たり、技術を磨くことも大切ですが、最終的には〈何を伝えたいのか、何を書きたいのか〉という部分が重要になってくるのだと思いました。

落合玲子さんの書かれた「震災と記憶」は東日本大震災の実体験をもとにされたエッセイでした。三部構成で、震災後の混乱、なくなってしまった故郷の状態、原発への思いが描かれています。作者の落合さんが口にされた「書かないと進めなかった」という言葉が、仙台という被災地に住むものとして共感できるように思いました。池上先生からはすでに原発について書かれた3番はない方がいいのでは、と言われていたそうです。しかし落合さんは「自分の中でどうしてもなくてはならない部分だった」ということで、三部構成のまま提出されたとのことでした。編集者の講評の中でもこの点は特に問題にされました。1番2番に書かれていることは個人的な経験のみが描かれているが、3番は主張になってしまい、ひとつの作品として混ざり合わない、とのことです。

柴田先生も記録としての貴重さや、こういうものを残そうとすることは意義のあるもの、とおっしゃる反面、3番の異質さに関して触れられました。1,2番が淡々と事実を書かれていたのに反して、3番は感情が書かれていること。最後がまやかしになってしまうと、その前の部分までまやかしになってしまう、とおっしゃっていたのが印象に残りました。

作者の心情として、どうしても外せないという部分が、人に読ませるものとしてはどうしても違和感を持たせるものになってしまう、というのは落合さんにとってとても難しい問題だったのではないかと思います。作品としての質の向上をとるべきか、それとも作者の主張をとるべきなのか。書きたい人間、読ませたい人間のあたる一つの壁のようなものを感じました。

(池上冬樹先生)

第二部では、最新作「チャイナ・インベイジョン」に関して触れられました。

「チャイナ・インベイジョン」は2011年の9月から小説現代で連載されていた作品で、尖閣諸島問題から中国が日本に侵食していく近未来までを描かれたものです。奇しくも講座が行われた2012月11月は、尖閣諸島をはじめとする領土問題に関する報道が活発化していた時期でした。多くの人々が尖閣諸島問題をさして気にしていなかった、一年以上前にこの作品が書かれていたという事実に驚きをおぼえずにはいられません。

「結末が見えてないものを見えない状態で書き始めた。博打っ気がないと小説家としてやっていけない」とおっしゃる柴田先生。豪気です。「KAPPA」の時も外来種問題がさほど問題視されていない頃に書かれており、当初はSFだとも言われたそうです。先見の明があるんだなーと感心してしまいました。

余談ですが、休憩時間に先生の小説を買おうと、会場後方の出張販売コーナーを見ていたところ、柴田先生がいらっしゃって、どの本が勉強になるといったアドバイスをいただきました。ちょっと得した気分です。

そんな感じで、柴田哲孝先生の魅力のあふれる講座でした。

(講師とゲストのみなさん。後列左より門田氏、小林龍之氏、山田氏、柴田先生、古里氏。前列左より小林晃啓氏、池上先生、大島氏)

またいらしていただけると、うれしいなぁ。

(N.K.)