Post date: Oct 25, 2012 2:09:35 PM
・なかじまひめ『姫と麻呂』
・野田皐月『犬と私の珍道中』
・根多加良『タンツボ少年』
せんだい文学塾の8月講座は熊谷達也先生を講師に迎えて行われました。
(熊谷達也先生)
いつもの通り、前半は受講生による短編小説をテキストとした講評、後半はテーマトークという進行です。
1.テキスト講評
姫と麻呂/なかじまひめ
(概要)
姫という名の犬を飼っていた女の子の家庭に、麻呂という名の猫が加わって展開する日常的な物語。ただしラストでは舞台が近未来に転換し、科学者になった女の子が犬と猫の合成生物を完成させるという展開に。
(講評)
やはり最後のオチが唐突な印象をぬぐえなかった。合成生物でラストをまとめたいなら伏線が必要。作者としては伏線を張っていたつもりかもしれないが、本作の場合、読者に充分伝わったとは言えなかった。書き手のキャリアが浅い場合は、ままあること。また主人公がやや傍観者的で、読者が感情移入しにくかったのも残念。 技術的には視点のぶれが目立った。視点を正しく書くことはプロでもむずかしいが、書き上げた作品を音読するなどすれば、適切かどうか分かるようになる。視点を見直すだけで意味が通りやすく、読みやすくなる。 日本の小説の場合、たとえば新人賞選考などでは視点は厳しく見られる。視点は変に移動させないのが基本。
また文章は書けば書くほどうまくなるので、続けることが大事。
犬と私の珍道中/野田皐月
(概要)
知人が旅行に出かけ飼い犬を預かることになった主人公と家族。はじめての経験に右往左往して送った日々の物語。作者は、30歳パラサイトシングルの主人公を預かった飼い犬と対比させて描き出そうと意図していた。
(講評)
ユーモア小説のジャンルになると思うが、そう考えるとタイトルが良くない。「珍道中」と書いてはネタバレになってしまう。読者を笑わせることって、むずかしい。意図してネタを考えた上で、上手に伏線を張らなければいけないし、そのための小ネタもいる。本作のクライマックスと言えるのは、散歩中、正面から来た車を避けるために犬(ロン)を持ち上げる場面だと思うが、あまりうまくいっていないのは伏線が不足しているから。ロンがかなり大きな犬だという事実を、事前に驚きを交えて書いておかないと、なかなか伝わらない。
気になったのは2ページ目、犬が道路に飛び出したときのことを想像する場面。主人公は「ロンが死ぬということには考え及ばなかった」と独白しているが、この文章は読者に、その後の物語の展開として犬の死を予測させてしまう。実際はそうならないわけだから、無自覚に書いてしまうのは良くない。
作者は短編小説を分かっていると思う。犬を散歩させただけでも小説になると知っている。ただ本作ではあまりうまくいかなかった。とにかくユーモア小説はむずかしいもの。お笑い芸人も大勢の客の前でスベる経験を重ねながらうまくなる。小説も同じで経験を重ねることが重要。
タンツボ少年/根多加良
(概要)
同級生たちに残虐な暴力を振るわれた主人公。ずだずだになった肉体を公園のトイレのタンツボに突っ込まれるが、信じがたいことにそのまま生き続ける。やがてそのトイレには得体の知れないものが存在するという噂が広がり、それに動揺したのは一人の女児だった。
(講評)
視点が落ち着かない点や、情報の出し方があまり効果的ではないなど、改善すべき点はいくつかあった。
とはいえ作者は文章力がある。暴力描写などを読ませる力があると思う。それに構想力もなかなかのもの。
ただし、いくつか引っ掛かった箇所があった。
いちばん引っ掛かったのはタンツボ。最近見たことありますか?ほとんど見かけないし、それ以上にタンツボ自体を知らない人がほとんどでは。知られていないものをモチーフにするのはむずかしい。いったん引っ掛かってしまうと、もう先に行けない読者は多い。
またいじめの方法についても、十年前なら暴力でもいいかもしれないが、現在では違っているのではないか。若い世代を主要なキャラクターにする場合、作者の若いころの経験を思い出すだけでは足りない。今のコたちが何を考えているのか、把握することが重要。
本作の場合、そういった現実の把握が足りなかった。また、全体に推敲しきれていない感じが強い。
作者の意図を読者に伝えるのはプロでもむずかしい。だから書き上げるまでに充分に考えなければならない。その結果、五割伝えられれば、まあ成功と言える。本作ではその辺がまだ不足していた。
ラストシーンでは、少女の行為で主人公は死ぬことになるが、それはある意味救いでもあるはず。それが分かるように書ければ、後味はだいぶ良くなったと思う。
(コーディネーターの池上冬樹先生)
2.テーマトーク「文体って何だろう」
“文体”とは、実はプロである熊谷先生にとっても容易ではないもののようです。
主人公をどんな人物に設定するかで変わるものであり、または一人称の視点で書くか、三人称にするかでも違ってくるものだそうです。
まだデビュー間もないころ、ある先輩作家から「文体を大切にした方がいいよ」とアドバイスされたそうですが、それから十年以上たった今でも、どうしたらいいのか未だ理解しきれていないとのことでした。
大きく分ける場合は、たとえば漢語を多用すれば古風だとか、接続詞に「しかし」を使うか「けれど」「だけど」など口語的な表現を使うか(前者の方が古典的)で区別できるそうですが、それだけではなく、作家個々が持つ「呼吸的なもの」「感覚的なもの」が反映されるもののようです。実際、“文体”を自己表現のための大切な手段と考えている作家は多いとのこと。
ただ熊谷先生にとっては少し違っていて、個別の作品を表現するためのツールとしても用いているそうです。
たとえば作品の舞台が昭和二十年代のとき、三十年代のとき、四十年代のときでは文体を変えたりもするとのことでした。並べて読むと、時代が下がるにつれて印象が柔らかくなっているそうです。その方が時代性を表現しやすいためで、最近の高校生を主人公にした作品では、昭和二十年代が舞台の作品と同じ作家が書いたとは思えないほど違うそうです。ツールと言う意味はそこにあります。
しかし文体をわざと変えて使用する試みはリスクもあるそうで、熊谷先生も混乱したりアイデンティティーを見失いかけたりしたとのこと。あれこれいじりすぎない方がいいそうです。
結局のところ、作者それぞれの文体の基礎になるのは、突き詰めればその人の読書体験に行き着くとのこと。熊谷先生の場合、少年期・青年期に翻訳物のSF小説をたくさん読まれていて、それが基本になって、わりとカッチリした文章を好んでいるのだろうとお話されていました。
また池上先生は、自分の好きな作家の文章を参考にする(書き写す)のも文体を固める有効な方法だとおっしゃっていました。また他の人に自分の書いたものを読んでもらうのもいいそうです。
ここで熊谷先生からひとこと。
「ぼくが作家を目指していた頃は、書いたものを読んでくれる人なんていなかった。その点、この講座に来ているあなた方は恵まれている(笑)」
また講座については、回を重ねるに従って受講生による分析・批評の質が上がっているのを感じたともおっしゃっていました。
いわく、「続けるって大事だよね」。
受講生みんなへのエールだと思いました。
(HA)