1月講座ルポ

Post date: Feb 21, 2013 1:14:12 PM

◇1月講座ルポ

◇講師:角田光代(直木賞作家)

(角田先生)

◇ゲスト

・中本克哉(文藝春秋)

・西澤昭方(岩波書店)

◇スペシャルゲスト

・吉村龍一(作家)

◇コーディネーター:池上冬樹(文芸評論家)

◇テキスト

・日野弘美「電波少年」

・小川朱実『M』

・嘉川さち『蝶と髪』

・中嶋あんな『いつかみたそら』

◇受講生によるルポ

1月講座の講師は、角田光代先生です。

講座はいつも通り、前半は受講生の提出したテキストの講評、後半は講師陣のトークという形式で行われました。

▽前半:講評

『電波少年』(エッセイ)

自分の周りのちょっと変わった人々を、「オタク」や「変人」というフィルターで見るのではなく、「面白いか面白くないか」という観点だけで見てみよう、というエッセイ。

<講評>

・受講生:「電波」の認識が古い。人それぞれ「電波」のイメージは違うので、わたしの思う「電波」とは違った。けれど、作者のパワーを感じるエッセイだった。

「電波」という呼び方は、一般的ではないのでは?

・編集者:「電波」という言葉は強いので、どういった内容なのか期待するが、内容とてしては実はそんなにブッ飛んでない。それほど大したことは書かれていないという違和感を持ってしまった。言葉にまとわりつくイメージ対して、作者はあまり深く考えなかったのでは? 言葉であまり人を定義し過ぎない方がいい気がする。

・吉村氏:冒頭のTV番組の電波少年のくだりはいらない。推敲が足りない。

・池上先生:編集者や受講生、皆意見が違うから面白い。「冒頭はいらない」という意見もあるが、僕は冒頭があるから面白いと思う。この冒頭で読書を引っ張っている。

一般的な枠からズレている人もそうでない人も、一旦同じにしてしまい、そこから変わった個性だけを取り上げていく。それを「面白いか面白くないか、という視点だけで見てみましょう」という作者の発想で、読者を引っ張っている。

普通は「好き」か「嫌い」かで人を分けがちだが、この作者の場合「なんだろう? どういう人なんだろう?」という好奇心が最初に来ている。そこに作者のキャパシティの広さを感じた。

・角田先生:わたし「90年代電波作家」って呼ばれてたんです(笑) それはさて置き、このエッセイの中で、2種類の人間が出てくる。一人は精神障害かもしれない。もう一人はジャンキー。これは全く種類が違う。

(熱弁される角田先生)

池上さんは「個性」としてまとめていると言ったが、明らかに違う人種。それをわたしは、「面白い」という観点で一つにしてしまったおことに無理があるように思う。

精神障害を書く場合、書き方によって、読者に不快感を与えてしまう。

読者を笑わせるか、ブッ飛んだことを書くか、それとももっと普通のことを書くか。どこの立ち位置で書くかが非常に難しい。何をどういうふうに書くのか、もっと整理して書いた方がもっと面白い。

そしてもう一つだけ言いたいのが、エッセイの極意として、絶対に自分が下にいなくていけない。同じ目線、もしくは下から見上げるような視点を作者が持っているかどうかで、読者の安心感は違ってくる。書く際に相手を尊敬しているかどうか、自分が這いつくばってるかどうかを考えるだけで全然違うと思う。

『M』(短編)

Mという男性に対する想いを語った、独り語り調の短編小説。

<講評>

受講生:

・最初「家」が語り手だと思っていたら、桜が語り手だった。語り手がどこにいるのか分かりずらい。

・読者にもう一度読み返させる力がある。

・内容については短すぎてあまり入ってこない。けれど、文字の使い方、漢字の開き方など、手に取った時に、とっつきやすい印象を受ける。

・吉村氏:センスを感じた。「です」「です」「です」と続いた次に言い切りが来るところがあるが、ここで言い切られると、とても印象に残る。そして「M、遠くの海が光っています」の一行で、景色がパっと開ける。

編集者:

・語り手が何者なのか段々と分かってくる。そして最後、植物と人間が一体化していくような終わり方が、残酷な童話の様な印象で良い読後感だった。ただ、幻想的な中に現実的な事柄が混ざっていたり、読者の想像に任せ過ぎなところがある。

・木の根が死体を吸い上げる場面など、エロティックというか、男女の関係を連想させるような部分があり、達者な方だと思った。

2回読ませる力はあるが、2回目に梶井基次郎だと思って読むと、「結核ものか」と冷めてしまう。結核という病気に寄りかかり過ぎ。それから語り手が桜であるならば、「桜も咲こうかという3月」という言い方はしない。

(ゲスト陣)

・池上先生:これはセックスだと思った。だからもっとセクシャルな話しになるのかと思ったら、冷静に書いている。僕は性的な比喩として描いている作品だと解釈したので、少し「欲」が足りないと思った。もっと欲情してもいい。

・角田先生:世界感があり、破たんがない。きちんと作ってあるとは思うが、けれど「核」がない。桜が彼だけを愛した理由が、彼が「基次郎」である前に必要。それが書かれていれば、病気になって帰ってきた彼よりも、女を知って大人の世界を知って帰って来た彼に対する悲哀が生まれ、「核」をつくれたのでは?

短編の場合は「いい短編を書きたい」という気持ちだけで書き始めてもいい。けれどその場合は「短編を書きたい」という気持ちより強いテーマ、もしくは「核」を書いて行く間に作って行かなくてはいけない。

『蝶と髪』(小説)

女神のいい伝えが残る地域で暮らす桐葉には、美しい母がいる。夜ごと着飾り、出掛けていく母との関係は、芳しくない。鏡を必要に怖がる桐葉。同級生たちとも上手くいかない日々の中、母が家を出ていってしまう。

<講評>

受講生:

・オチが途中から分かってしまう上に、無理やりな気がする。

・ファンタジーなのか現実的な話なのか、全体的に統一感が無い。

・最後「王子様が登場して助けられて終わり」という終わり方では、今の読書は納得しない。周りの登場人物の力を借りながらも、主人公自身が戦って乗り越えないと読者は納得しないし、主人公自身も救われない。

編集者:

・主人公が不安定過ぎる。ご都合主義的なストーリー展開。色んなものを詰め込み過ぎて、破たんが出てきてしまったという印象。

・テンションが上がった状態で、勢いで書いているので、少し落ち着いて書いた方が良い。

・吉村氏:重文が多い。文章に余計な力が入り、最初ゴテゴテした印象を受けるが、途中から良くなっている。4ページ以降は良い描写が増える。ただ、最後が残念。

・池上先生:幻想小説として読ませるのか、リアリズムで読ませるのか、どちらに持って行きたいのかが分からない。だから、読ませる力はあるのに、表面的に終わってしまった。読者にどう読んでもらいたいのか、作者は何を書きたいのか、しっかり考えた方が良い。

・角田先生:言い伝えと現実の重なり具合が分かりづらい。伝説の不気味さが活かされていない。

ではどうしたらいいかというと、まず伝説の骨格をしっかりさせること。物語とのリンクの仕方をはっきりとさせること。そして常識以外のものを1つ作る。一番の問題は説得力のなさ。 例えばお母さんを異様な、現実にはあり得ないような美しい人物に設定する。そうするだけで、他の非現実的な事柄にも説得力が生まれる。

会話文を全部方言にするというのも一つの手。特殊な世界ということで、説得力が増す。

『いつかみたそら』(小説)

書店で働く真菜香は、何よりも平穏を望んでいた。「幸せにならなくては」という強い想い。けれどそう思えば思うほど、浮浪者の出現や夫の浮気など、平穏な日々から遠ざかっていく。

<講評>

受講生:

・浮浪者の描き方がステレオタイプ。

・設定がありがち。

・丁寧に描かれてはいるが、難しい言葉も多い。一人称で書いてあるが、地の文の書き方が三人称的。

・吉村氏:浮浪者の書き方が、「差別的」と受け止められる危険性がある。マイノリティーに寄り添った視点で書かないといけない。作者の理論を読者は知りたいわけではない。

仰々しい表現が多い。自分が普段使う言葉とかい離して「かっこよく見せよう」とすると、読者に帰ってストレスを与える。もっと簡単な言葉で書いた方がよい。

・編集者:

・幸せと平穏を履きちがえて、何も無いように何も無いようにと行動し、結果的に幸せを逃してしまう、というのが新しかった。ただ、やはり最後が平凡だった。

・浮浪者については気にならなかったが、夫についての書き方は気になった。性的マイノリティーの人を書く時に、平等な視点を持って欲しい。

・池上先生:僕は評論家ですから、評論家としての意見をいうと、差別的な作品を書いてもいい。けれどその代わり、作者は相応のバッシングを受ける。書くなら覚悟が必要。

この作品に関しては、僕はそんなに差別的なものは感じなかった。それは主人公が不安定だから。不安定でおどおどしているから浮浪者に対しても警戒心を持つし、夫に対する非難もある。そういう不安定な主人公が少年を救うことによって、自分の人生と向かい合って生きて行こうとする構造がしっかりできているので、僕はそれでいいと思う。

特にいいのが景色。昔からの日本文学の伝統として、風景と心理は一体だった。川端康成、島本理生などが心理を表すのに風景描写をもちいている。こういった方法は有効なのでもっと使っていい。

・角田先生:わたしが感じる問題点は、周りの登場人物が、不安定な登場人物を救うためだけに存在しているということ。現実は、そうではない。

この小説の中で夫の話を読んだ時に「可哀想なのは彼だろう」と思った。この小説を彼の視点で書いたときに、彼には彼の悲しみや正義があるはず。他の登場人物もそう。みんな自分のために生きている。それを踏まえて、それぞれの生活を構築してから彼らを会わせて会話させると、もっと変わってくるはず。もっと骨太の小説になると思う。

▽後半:トーク

後半は「物語を引き出す」というテーマで、池上先生と角田先生のトークショーでした。

(角田先生と池上先生)

ストーリーだけで書く人、キャラクターで書く人。小説家にも色々なタイプの方がいらっしゃいますが、角田さんはまずテーマが決まってから、そのテーマにふさわしい設定、登場人物、内容を考えるそうです。その上で、短編と長編では書き方が違ってくるといいます。

短編――視点だけでいい。キャラクター構築は、必ずしも必要ない。

長編――人物像をしっかり作らなくてはならない。

そして自分が「何をどう書きたいのか」をはっきりさせること。池上先生は「純文学なのかエンターテインメントなのかを、自分で理解して書かないと読者も編集者も困ってしまう」ともおっしゃいました。

とはいえ、純文学とエンタメの違いを明確に説明するのは難しいのも。角田先生でさえ、「この2つ明確な違いは分からない(笑)」といいます。けれど現実には、「エンタメの雑誌」と「純文学の雑誌」というように、雑誌が別れているのも事実。エンタメの雑誌に純文学の小説を送ったところで、それが例えどんなにいい作品だったとしても、デビューはできないのです。

デビューできなければ、自分の中にいくら書きたい事や伝えたいことがあったとしても、それを会ったことも無い多くの人に届けることはできません。「想い」は、ずっと自分の中だけのもので終わってしまいます。

まずはデビューするために、自分が純文派なのかエンタメ派なのかを自覚する。そのためには「何を書きたいのか」を明確にする。

けれどこの「何を書きたいのか」というものがくせ者で、「小説を書きたい!」とは思っても「これを書きたい!」と明確に言える人は、実は意外に少ないのではいでしょうか?

角田先生自身、

「最初は、自分が何を書きたいのかなんて分からなかった。ただその時書けるものを書いていた」

とおっしゃっていました。そのとき、昔聞いた

「読むときは広く。書く時は狭く」

という言葉を思い出したのです。つまり、「読むときは“こういうこともあるのか。こういう考えたかもあるのか”と門扉を広くし、書く時は“自分にはこれしか書けない。これなら負けない”と絞ってかく。案外、これを逆にしている人が多い」ということ。

無理に背伸びをしようとせず、とにかく書く。そして講義などに提出する。書く書く書く。出す出す出す。そして読んでもらって講評を聞く。時には厳しいことを言われても、それは必ず自分の糧になり、自分の意図しない感想が返ってきた場合は、「こういうふうに捉えられるんだ」と客観的な目が養われていくと思います。

そして書く場合は必ず落ちついて書くこと。今回、角田先生には「皆さん慌てて書いている」と言われてしまいました(笑)。

作家は、読者がいるから成り立つ職業です。読者ひとりひとりから、「本を読む時間」を頂いているのです。それは講座に提出するテキストも同じです。内容的にはまだまだ未熟だけれど、それでも最低限、貴重な時間を割いて読んで下さる方々に失礼のないように、感謝の気持ちを忘れずに、じっくり腰を据えて書こう、と気持ちを新たにすることができました。

(E.S.)