追悼文「飯村穣先生との思い出」 

私の最も敬愛する飯村穣先生が亡くなられた。

先生のご経歴は高木正道先生の哀悼文に詳しく紹介されているが、長野県松本市ご出身で、松本深志高校、東京教育大学大学院を経て国税庁醸造試験所に入られた。醸造試験所→醸造研究所→独立行政法人酒類総合研究所と、研究所の名前は変われども、その中において後輩から最も慕われた人であったと思う。

先生は、醸造試験所でワイン産膜酵母の研究で大きな成果をあげられた後、「大腸菌を用いたヒトインシュリンの作成」で注目された米国シティー・オブ・ホープの板倉啓壹研究室に留学された。その時、「リボソーム再構築に関する研究」で有名な野村真康博士が板倉研にサバティカルで来られ、一時期、席をならべて実験されたそうだ。

帰国してからは、五味勝也氏(現東北大)とともに「麹菌の宿主ベクター系の構築」に着手し、世界に先立ちその開発に成功したことは、ご存知の通りである。

以下、私(家藤)と飯村先生、そして新産業酵母研究会(MINCY)に関係するものに絞って思い出話を書いてみた。なお文中、名前を太字としアンダーラインを付した方々は、新産業酵母研究会(MINCY)の立ち上げに関与した人々である。

途中スピンアウトする部分も多いがご容赦いただきたい。

飯村先生は五味氏と麹菌の仕事をした後、一時名古屋国税局鑑定官室に出られた。そして醸造試験所に復帰される時、私がいた第2研究室に来られることになり、大いに喜んだ。私は醸造試験所が独自に開発した「酵母による廃水処理」の研究を行っており、Saccharomyces cerevisiae以外の酵母を対象に、自然界から分離した数種類のnon-conventional yeastsの廃水処理利用に関する研究、そしてそれら酵母が生産する酵素の研究を、S.cerevisiae研究者から「雑酵母」の研究と揶揄されながらも、面白く行っていた。ただ、担子菌系酵母に関しては、酒造りと直結しないことで上層の一部より問題視されることもあったそうで、密かに飯村先生が、研究の意義や面白さを説き、説得くださったようである。

その時期、non-conventional yeastである担子菌系酵母Cryptococcus sp.S-2から酵素を精製し抗体を取り、cDNAライブラリーを作成し、イムノスクリーニングで酵素遺伝子を取得するのであるが、半年ほど何度試みても遺伝子が取れなかった。焦燥感と気分の落ち込みで、精神的に苦しい時期であった。上のある人からは「この停滞を乗り越えないと次の段階に進めないぞ。ここが正念場だから、早くクリアーできるように頑張りなさい」と叱咤激励された。「頑張れ」の励ましが、人を苦しめることもある、と聞いたことはあったが、それまでは、そんなことが本当にあるのか?と理解できなかった。そして、なるほど「頑張れ」とは云われる側にとっては辛い言葉なのだな、と思い知ることとなった。その時救いとなったのが、飯村先生であった。「遺伝子が取れない、なんて大したことではない。あなたは誰も知らなかった新しい酵母菌を自然界から拾い上げ、その存在と、そしてそれがユニークな酵素を生産していることを明らかにしている。それだけで、すでに十分な成果をあげているではないか。遺伝子が取れないなんて小さなことで、単にあなたの実験の腕がへたくそなだけだ。菌の中の遺伝子が逃げて無くなってしまうことはない。焦って苦しむ必要はない」。実験の腕の悪いことをあからさまに言われ、不思議に、気分がスーと軽くなった。「頑張れ/乗り越えろ」と当たり前の精神論を言われても悩みや苦しみは解決しない。悩みのもとを卑小化され、単純化されたことで、元気を取り戻すことができた。

ちなみに、その後、問題はmRNAを抽出する時期にあることがわかった。酵母(S.cerevisiae)の実験書では、「cDNAライブラリーを作る際のmRNAは対数増殖期に取る」と書かれたあり、麹菌の情報も参考にし、当初対数増殖期及びそれよりやや遅い (酵素生産は始まっている) 時期で取ったmRNAよりcDNAライブラリーを作成した。ところがS.cerevisiaeなどと違い、私の酵母はそれではだめだったのである。飯村先生との会話の後、焦りを捨て、気分を新たに、定常期に達した直後の菌体から抽出したmRNAでのcDNAライブラリーを再度構築することで、今度はイムノスクリーニングにポジティブなコロニーが多く拾え、一気に遺伝子を取得することができた。対数増殖期のmRNAには、菌体増殖に関する多くのmRNAを含んでいるが、定常期初期では酵素遺伝子mRNAなどに単純化され、スクリーニングに都合の良いcDNAライブラリーとなったのであろう。mRNAを取る時期の大切さは十分わかっていたつもりであったが、酵母の特殊性を考慮せず、S.cerevisiaeなど既存の知識の範囲内で事を進めようとした失敗であった。

この時期の精神的苦しさに耐え、乗り越えることができ、その後私が研究者としてなんとかやっていけたのは、真に飯村先生のお陰である、と生涯通じて深く感謝している。

なお、飯村先生と私が東京滝野川の醸造試験所第2研究室にいたこの頃、農水省研究機関の北本宏子さんが飯村先生のもとに国内留学で酵母(Kluyveromyces lactis)の勉強に来た。筑波大学、東京教育大の後輩先輩の関係もあり、厳しくも可愛がっておられた。北本宏子さんのご主人である通産省研究機関の北本大さんは当時からCandida antarctica(現在はPseudozyma属)によるバイオサーファクタントの研究をやっており、飯村先生が所内でのセミナーを企画し、北本大さんに講演をしてもらった。私もCryptococcus属やHansenula属などの研究が主であり、我が国で数少ないnon-conventional yeastの研究者同士ということで息が合い、以降、長い付き合いが始まることになった。

さらに、この醸造試験所第2研究室時代、廃水処理用酵母であるHansenula属の宿主ベクター系の開発に着手したいと考え、炭化水素資化酵母Candida maltosaの宿主ベクター系を開発されていた東京大学の高木正道先生の研究室に、何度か、ご指導を仰ぎに行った。当時S.cerevisiae以外のnon-conventional yeastで宿主ベクター系を開発したのは、高木先生のところが初めてではないだろうか。

Non-conventional yeastでもここまでのことができるのか、とその鮮やかな手法に感銘した。そしてそれを手本に、以降、自分の研究に大いに役立たせていただいた。

高木先生の研究室とは、その後も、助手であった福田良一先生、そして高木先生の後を引き継ぐことになる太田明徳先生と仲良くさせていただき、研究室で良く飲ませていただいた。飯村先生と高木先生は当時から昵懇で、また太田先生は、飯村先生と松本深志高校の先輩後輩の間柄である。

さて、醸造試験所第2研究室にて、上記のように、自然界から役立ちそうな酵母を分離し研究を行っていたのであるが、そうなると必然的に分離した酵母の同定を行う必要がある。そこで、酵母分類学の権威であった東大応用微生物研究所の杉山純多先生、そして理化学研究所の中瀬崇先生の教えを請うことにした。杉山先生には、酵母分類のイロハから教えていただき、失礼な話ではあるが、その時初めて、酵母に担子菌系酵母というものが存在することを知った。未知の酵母の同定をする時は、まずそれが子嚢菌酵母か担子菌系酵母かを知ることが大事である。その分類は簡単で、「3点セット」(DBB染色、ウレアーゼの菌体外生産有無、菌体外DNaseの生産有無)で決めることができる、というものである。飯村先生には、これらの違いは面白い、担子菌系酵母だけが、なぜウレアーゼやDNaseを菌体外に分泌するのか、DBBで赤く染色されるのか、その機構を調べれば面白い、と言っていただいたが、結局、その機構の違いを研究することなく、今まで過ぎてしまった。

さて、中瀬先生に、私と飯村先生共著のCryptococcus sp. S-2が生産する生デンプン分解α-アミラーゼや、好酸性キシラナーゼなどの論文をお見せした時、たいへん喜ばれ、その予想外の反応に、驚いた。中瀬先生によると、中瀬先生始め酵母分類学研究者の多くが担子菌系酵母に興味を持ち、研究を進めているが、「そんな、役にも立たない酵母の分類の研究をして何になるのか」とよく言われ、それが悩みであったらしい。担子菌系酵母が、ユニークな酵素を多数生産しており、産業的にも役立つ酵母である、との発表は、酵母分類研究者の望むところであり、うれしい。と言われ、こちらが大いに感激し、発奮させられた。

なお、中瀬先生が理研を退職されるにあたって、「先生の後任に、今、我が国で最も優秀で信頼おける酵母分類の研究者を紹介して欲しい」、とお願いしたところ、間髪入れず、それなら高島昌子さんだ、と言われ、その後、酵母の同定に困ると、理研の高島さんになんでも相談するようになった。

さて、飯村先生と同じ第2研究室で過ごしていた時期、竹下内閣下での「政府機関の地方移転の方針」により、醸造試験所(東京滝野川)の広島県東広島市への移転話が進み、飯村先生はその移転準備担当となり、移転事務に奔走することとなった。研究所全体が800kmも離れた西の地へ移転し、研究施設や職員宿舎などすべてを新たに整備することは、たいへんな作業である。飯村先生は大蔵省/国税庁、その他外部との折衝という重要な役割を任されることになり、慣れない仕事に、ずいぶん苦労された。その時の先生の奮闘、活躍ぶりを目にし、研究に秀でた人は、なにをやっても優秀なものだな、と感心したことを覚えている。

多くの苦労の末、東広島に新しい研究所が完成し、私も含め研究職員の殆どが東京から東広島に移ることとなった。東京での残務整理をすませ、少し遅れて飯村先生も広島に単身で来られた。ところがその2年後、突如として山梨大学工学部に教授として転出されることとなった。あと数年先には飯村先生が研究所の所長になることは既定の事実となっており、飯村先生が所長となった活気溢れる明るい研究所の未来を期待していただけに、ショックであった。ただ大学に転出された理由は痛いほど理解できた。純粋に研究を楽しむことを生きがいとする先生が、研究所移転において、なんでもこなせる優秀さ故に事務仕事に専念させられ、さらに今後も、研究所全体の運営の責任者・管理者となり、研究現場から離れざるを得ないのは自明である。もう一度研究者として生きていきたい、との思いを強くし、大学に転出されたのは当然であった。

先生は、皆に惜しまれ感謝され、研究所を去り、山梨へ行ってしまわれた。その時私は、今後も飯村先生と頻繁に会える、研究面でのなんらかの関係を持ちたいものだ、と強く思った。

それからしばらくの間、飯村先生との研究面での直接的関係が無くなるのであるが、

研究所が東広島に移ってからも、私は環境保全研究室において、non-conventional yeastsの環境分野への利用について研究を継続していた。そして、正木和夫君という強力なメンバーを迎い入れ、酵母Cryptococcus sp.S-2が生産する油脂分解酵素がポリ乳酸プラスチックなどバイオプラスチックを分解する能力の高いことの検証や、その分解能力についての酵素立体構造的な解析を行った。さらに本菌の酵素生産分泌能力が極めて高いことに着目し、本菌による酵素大量生産系の構築を行った。ちなみに、本酵母とその異種蛋白質高発現系は、いろいろな企業からも注目されるようになり、東洋紡では、西洋わさびペルオキシダーゼやIgG抗体などバイオ医薬品関連の生産に、他の宿主にない優れた能力を持つことを見出し、現在、産業的な利用が進められている。なお、東洋紡は、産総研の北本大さん、森田友岳さんなどとPseudozyma属酵母のバイオサーファクタントの化粧品化成品等への利用についても関わっており、non-conventional yeastsの産業的利用に先んじた会社といえる。

さて、飯村先生が研究所を去った後、私は上記Cryptococcus sp.S-2以外にも、non-conventional yeastsのエネルギーや環境保全への利用についてさらに関心を深めていった。S.cerevisiae以外の地球上に存在する様々で膨大な数のnon-conventional yeasts。これらの中には極めて利用価値の高い酵母が多く眠っているとはずだ、と常に思っていた。そしてLypomyces starkeyiやその他担子菌系のいくつかの酵母が菌体内に油脂を大量に生産蓄積しすることに、以前から興味を持っていた。Lypomyces starkeyiは我が飯村先生が行かれた山梨大学において、古くから我が国で唯一、兎束先生、長沼孝文先生が研究をされており、長沼先生がその油脂生産について研究を続けていることを知っていた。ただ長沼先生と直接の面識はなかった。

そうこうしている時、NEDOより「木質系バイオマスの軽油代替燃料変換に関する研究開発」というプロジェクトの募集がかかった。軽油代替燃料といえば、バイオディーゼルであり、つまり油脂であろう。Lypomyces属や担子菌系の酵母は、木質バイオマスを構成するキシロースなどエタノール発酵の困難な五単糖をより好んで資化し油脂を生産蓄積する能力がある。Lypomyces属酵母の多くのストック株を持ち、油脂生産に造詣の深い山梨大学と我々でチームを作れば、このプロジェクト研究で確実に成果を出すことができる、そう考えた。正木君も面白そうですね、と賛同してくれたので、早速山梨大学の飯村先生に電話をかけ、長沼先生へこちらに連絡してくれるよう、お願いした。そして、飯村先生の仲介で、山梨大学・酒総研のチームが成立し、NEDOに応募し、採択された。なお、長沼先生によると、多忙な飯村先生は、私から電話があったことを長沼先生に伝えるのをしばらく忘れていたそうで、ギリギリになって連絡があったそうだ。そう云われれば、長沼先生からなかなか連絡が来ず、ヤキモキした記憶がある。飯村先生も人の子であった。

飯村先生には、このプロジェクトが決まった際、早速、研究の進捗状況や改善点等を評議するための研究推進委員会の委員長になっていただいた。研究推進委員会は年2回開催することになっており、私は、本プロジェクトにより、少なくとも年に2回は飯村先生と会い飲める機会を持てたことが、なによりうれしかった。先生が東広島の酒総研を去られる際、研究の上で頻繁に会える機会を作りたいと願ったことが叶った、と喜んだ。なお、そんないささか不純な考えとは別に、プロジェクト研究推進のための、幅広い専門知識に基づく鋭く的確なコメント、今後へ向けての前向きな課題の整理など、推進委員会会長として、これほどの適任者は飯村先生を置いて他になく、先生なくして成り立たないプロジェクトであった。

なお本プロジェクトは2年、さらに継続審査を経てさらに2年のプロジェクトを行うことが出来た。後半からは、大手油脂メーカーである不二製油に加わっていただき、酵母による油脂生産について産官学での広く深い研究開発が出来た、と自負している。NEDOの担当者によると、「木質系バイオマスの軽油代替燃料変換に関する研究開発」の募集では、熱化学的処理で木質バイオマスをガス化分解し、合成し、軽油代替油となる炭化水素を生産するような、そんな内容の研究が応募してくることを想定していたのであるが、酵母という生物利用での応募があろうとは予想しておらず、驚いた」、とのことである。幸いに我々のプロジェクトは、NEDO内でも好評だったようで、菌体内に油脂を満杯に蓄積する酵母に「メタボ酵母」との愛称をつけてもらうなどした。そしてNEDOの代表的最新成果を海外に紹介するパンフレットに掲載されることにもなった。

その後、この酵母による油脂生産技術の研究は、高木正道先生が学長をされていた新潟薬科大学の高久洋暁先生を中心として、それに山梨大学長沼先生、酒総研正木さんがスライドして加わり、エネルギー利用から食料利用に視点を変えたNEDO「植物等の生物を用いた高機能品生産技術の開発」のプロジェクトに発展することになる。

新産業酵母研究会(MINCY)を立ち上げる時、飯村先生は、自分は酵母はS.cerevisiaeしか研究していないので、と言って参加を躊躇されていたが、とんでもない。私は、飯村先生の取り巻きの一人に過ぎないが、よく見てみれば、現在のMINCYの立ち上げの関わった人の輪は飯村先生を中心に形成されているではないか。

私にとってMINCY発足でありがたかったのは、年に2度の講演会の開催により、飯村先生と会える、ということであった。そして新型コロナが問題となる前まで、MINCYの講演会に出席することで、毎年、先生と会い、飲むことが出来た。

なお、MINCY設立後の運営事務は大きく飯村先生に依存することになり、運営委員会の議題提出、会議の進行、調整、会議録の取りまとめ等の重責を担ってもらうことになった。たいへんなご苦労であったと思う。

2016年1月、直腸にがんのあることが判明し、手術したものの、どうしても取れない箇所があり、抗がん剤による治療が始まった。抗がん剤治療を受けられるようになってからも、MINCYの運営委員会、講演会には欠かさず出席していただき、新型コロナ禍でWEBでの会議や講演となった後にも、抗がん剤の副作用に苦しみながら、運営の労をとっていただいた。正に命を削りながらMINCYのために尽くしていただいた。


最後に、繰り返しになるが、飯村先生と一緒に飲むことは、私(家藤)の何よりの楽しみであった。先生は、醸造学や微生物学以外にも自然科学全般の知識、そしてクラシック音楽、美術、哲学、文学等の幅広い知識を身につけておられ、それらを話題にしながら、遅くまで酒を飲んだ。

いつも、「軽く飲みましょうか」から始まり、一口飲んでしまえば後は「毒を喰らわば皿までだ」と、24時を超すまで飲むのが、決まりのパターンであった。

二日酔いにもなったが、それでも、仕事上の悩みを解消し、研究の着想を生み、研究への活力を補給し増大し、生きていく上でのなにより貴重な時間であった。今振り返ってみれば、最も愉快で充実した幸せな時間であった。

私が胃がんや心臓の手術を受けるようになった時、先生は自分のこと以上に心配され、「もし家藤さんが先に亡くなられるようなことがあれば、後で酒を持ってあの世に駆けつけて行くから、必ず待っていてください。そこでまた一緒に飲みましょう」と本気とも冗談ともつかぬ言葉で、不安を和らげてくださった。

皮肉にも、私を誰よりも心配し勇気づけてくださった飯村先生の方が先立たれてしまったが、その言葉をそのまま飯村先生にお贈りしたい。

「飯村先生、少しの間待っていてください。大量の酒をたずさえ私もそちらに参りますから。また愉快に話をしながら、時間を気にせず尽きることなく飲み明かしましょう」

(家藤治幸)