研究不正では若手が厳しい罰を受ける

2018年5月8日

京都薬科大学 田中 智之

STAP細胞事件で主役となった女性研究者は、理化学研究所の過剰な広報の効果もあって、一躍有名人となりました。ところが、研究内容に疑義が生じた後は、彼女が研究不正を主導したのではないかという疑いの目にさらされることになりました。研究者の多くは彼女に対してネガティブな感情を持っていたと思います。私自身も例外ではなく、世間では彼女を擁護する意見が強いことを知って苦々しい気持ちになることもしばしばでした。しかし、研究不正事件における若手研究者の処遇というものを改めて見直すと、実はそうした社会の受け止め方は、若い方への目線としてある意味まともなものではないかと思います。

東京大学の分生研の事件(一度目の方)では3名の学位が取り消されました。このうち1名は分子生物学会の研究倫理シンポジウムで「再現性を確認することが大切」という趣旨の発言をしています。これを知る研究者は何と欺瞞に満ちた発言だと大いに立腹したことと思います。しかし、この研究室ではかなり強圧的な姿勢のPIのもと、ラボの一部は不正論文の工場というべき状況であったことが明らかになっています。詳しい事情は分かりませんが、研究の手ほどきを受ける場がそうした環境の場合、研究に向かう正しい姿勢を身につけることは至難の業と言えるでしょう。

東北大学歯学研究科の事件では助教の研究不正が認定され、その後懲戒解雇という処分が下されました。彼女は真意かどうかは分かりませんが、「いつも同じ結果が出る対照実験をやる必要がある理由が分からない」という発言をしています。大学院時代の指導者は彼女への教育については、曖昧な説明しかしておらず、研究者としての訓練が適切であったかどうかは分からないままです。本件では、不正認定をされた論文がその主要な内容であるという認定から、学位も取り消されることになりました。

研究不正に主体的に関わった研究者が懲戒処分を受けることは当然のことであり、また学位論文の主要な部分で不正が認定されれば、学位を維持することは難しいでしょう。ルールに従えばこうした厳しい対応とならざるを得ないことは理解できます。しかし、こうした研究者を育成し、彼らの出すデータで大きな研究費を獲得してきた指導者の責任を気にかける必要はないのでしょうか。調査報告書には指導者の責任を問う厳しい文言が残ることもありますが、概してその処分は軽微であるように思います。若手研究者が事実上研究者としての道を閉ざされ、将来の生活の糧をどうするのか、真剣に考えざるを得ない立場に追い込まれることと比較すれば、共犯関係といえる研究者のその後は穏やかなものです。こうした取り扱いの違いを放置していて良いのでしょうか。

不正論文を根拠たる業績として獲得された研究費は、厳しい見方をすれば公的資金の詐取です。デューク大学の事例が話題になっていますが、不正と分かっていて申請したのか、あるいは気付かなかったのかという点は厳正に評価される必要があるはずです。邪悪な研究者が研究室に入り込んだら、多忙なPIは気付きようもないという懸念が強いと思いますが、一方で、いくら不正論文を発表しても付随するお金の問題は不問というのはあまりに緊張感の欠ける仕組みではないかと思います。悪意のある言い方をすれば、不正にうすうす気付きながらも若手研究者の暴走を泳がせておいた方が研究費獲得という競争では優位に立つことができます。いざとなれば、知らなかったことにして、切り捨てれば良いわけです。

過去に繰り返し再現できた実験結果があるとき再現しないことに気付いたときに、多くの研究者は冷や汗を流して、十分に検討を深めなかったことへの後悔の念をもつことでしょう。しかし、その反省をもとにより堅実なアプローチを選択するタイプの研究者は、研究費が競争的である限り、次第に消えていくことでしょう。


1.指導的立場の研究者の責任について今より厳しく追求することが必要です。研究室の運営状況を精査し、場合によっては後進の育成に関わる立場を剥奪するといった処分も必要です。また、不正論文を業績として申請された研究費を調査し、公的資金がどの程度浪費されたかをある程度幅を持たせても良いので可視化すべきです。投稿料のみを認定するといった欺瞞的態度では再発防止につながりません。

2.若手に対する研究倫理教育を徹底するだけでは不十分です。倫理教育は若手の自衛手段としては機能しますが、同時に研究不正が常態化しているラボからの若手研究者の救済措置をセットで考える必要があります。