研究不正に関するよくある質問

2016年9月30日

岡山大学 田中 智之

研究不正問題では、これまで議論の度に研究者に対して同じような疑問が問いかけられてきました。以下はそうしたよくある疑問に対する私見です。もちろん、研究者によって意見が異なる部分もあると思いますが、共有していただける要素も含まれていると思います。研究倫理の問題は議論を重ねることが大事というコンセンサスがありますので、その考え方は間違っている、あるいは賛成できるといった意見が様々なところから出ることは良いことだと考えています。

1)疑義を告発された研究者の方に調査に関する負担がかかるのはおかしいのではないでしょうか。疑義の立証責任は通常は追及する側にあります。告発が誤りであれば、優れた研究者の貴重な時間を奪うことになります。

まず、研究発表とは、研究者自身が得たデータをもとに自説を主張するという自作自演的な側面があることを理解していただく必要があると思います。研究発表がひとまずは正しいものとして受け入れられるのは、発表者が研究者としての責任を果たしているという前提があるからです。証拠となるデータを自分で集めるわけですから、実際にはいくらでも操作することは可能です。例えば、都合の良いデータをピックアップし、仮説に合わないデータをいろいろと理由を付けて捨ててしまうことは、経験の浅い実験者(学生など)ではしばしば生じる不正行為です。形式的には自作自演である報告が、きちんとした研究という形で承認を受けるためには、発表者が実験科学に必要な態度を身につけているという条件が必要です。実験したデータは簡単に捨ててはいけませんし、その現象がたまたま起こったものではないということを証明するためには、同じ実験の繰り返しや、ひとつの現象に対する多角的な検討が欠かせません。即ち、プロの研究者には客観的で慎重な態度が求められるわけです。実際はともかく、博士の学位は、こうした研究に取り組む誠実な姿勢をもつことを保証するものです。

アメリカへの留学経験を売り物にしているのに、どうも英語があやしい。弁護士と自称しているのに、基本的な法律の知識が誤っていた。そんな時には、本人が卒業証書を示すことや、弁護士資格を証明すれば、それで疑いは晴れます。一方で、怪しいなと感じた方が、こうした人たちの経歴が嘘であることを証明することは困難です。研究においては、研究論文を看板に自説を主張するわけですから、論文の中のデータの確からしさを保証するのは研究者側の義務なのです。

告発された場合、生データの提出を含め、疑義を解消するための作業は研究者にとっては負担です。しかしながら、疑われてもやむを得ないようなデータを出してしまった責任がその研究者にあることにも留意しなければいけません。疑義の告発は、内部告発でない限りは、客観的な合理性が必要ですので、簡単なことではありません。疑義の指摘は、研究者コミュニティにおける自浄作用を機能させるためのぎりぎりの選択という見方もできると思います。

2)研究不正の告発は名誉毀損に相当するのではないでしょうか。

研究論文に対する疑義とは、論文の完成度についての批判と考えることができます。ある主張をサポートする証拠が極めて不十分だという意見の表明に相当します。仮説をサポートする証拠としてその研究者が描いたイラストが提示されているという論文は、実験科学のルールを大きく逸脱するものです。想定図ではなく、実験結果を示さなければいけないわけです。捏造や改ざんは、イラストをつくることと五十歩百歩です。

データによる裏付けのない想定図としてのイラストのみを提示することは不正行為と言えるでしょうが、問題のあるデータがミスではなく意図的な不正行為であるという判断は、詳細な調査が実施されない限り決定できません。研究論文に対する疑義は、第三者で構成される調査委員会で評価されます。そこで不正行為が認定されたときに初めて不名誉な事態が生じるといえます。疑義の指摘をもって直ちに不正研究として取り扱うことは間違いですから、指摘自体は名誉毀損でないことは明らかです。現状は研究不正を判断する第三者機関が存在しないために、確信をもった告発者が自ら不正として断罪してしまうことが多いのですが、不毛な係争に陥らないようにするためには、告発する側はあくまで論文に関する意見の申し立てであるという認識を持つことが大切でしょう。

告発者に対する名誉毀損の訴訟は国内外で多数の実例がありますが、これは企業のスラップ訴訟と同じで、研究論文に対して自由に意見を述べることを妨げます。自由な議論のないところに研究の発展はありません。ある科学的主張をする根拠が、切り貼り写真では具合が悪いだろうというのは妥当な意見です。再現性のある現象であるならば、最初からより説得力のあるデータを提示すれば良いわけです。多くの研究室は実験を繰り返すことで、結果の再現性を確認します。イメージ図のようなデータで論文を量産されてはかなわないと思う研究者は少なくないでしょう。

名誉毀損の訴訟は典型的ですが、研究論文の不正への対処と、不正な研究者の取り扱いを区別できないことは、次第に大きな問題となっています。不適切な研究論文は修正されるべきであり、研究そのものが虚構であればその論文は撤回する必要があります。論文をどう取り扱うかは研究コミュニティの問題として解決するべきです。著者が不正研究者として取り扱われるために生じる混乱を避けるために、いつまでも問題のある論文を放置することは不適切です。人と行為とは切り離して考えることが必要です。公正さを大事にしなくなった研究というのはもはや存在意義がありません。PubPeerのような取り組みは、研究者側からの自浄作用の発揮であり、修正、撤回されない不適切な論文を可視化する試みです。

3)研究機関がシロ認定した調査報告書をなぜ公開する必要があるのですか。

調査報告書として研究不正がなかったことを公の場で認定されることは、論文に疑義を指摘された研究者にとって有益です。研究グループ全体に疑いがかかったケースで、詳細な調査の結果、スタッフの中には不正に荷担していない研究者もいたことが示されたケースもあります。研究機関にとってもどの程度厳正な調査を実施し、結論に至ったのかをアピールする良い機会となります。一方、調査報告書が公開されない場合、その研究に対する疑義はいつまでも解消せず、疑惑はくすぶります。同じ研究グループに属する研究者の中には、シロかクロかが分からないという理由で、人事審査等で不利益をこうむるケースも出てくるかもしれません。現状では文部科学省は調査報告書を受け取るだけで、その妥当性を評価するという仕組みではないため、報告書に対する疑義が出てしまうと収拾不能です。調停する仕組みは準備されていません。少なくとも研究論文における疑義の判定については、研究者コミュニティが責任をもって判断できる仕組みを整えなければ、裁判所というロジックの異なる場で研究不正が判断されるという事態を招いてしまいます。報告書の公開が望ましくないならば、報告書の妥当性に責任をもつ機関が必要でしょう。そういう機関があるとしても、例えば一定期間後には全公開するというくらいの透明性は必要です。

研究機関が杜撰な調査をして強引にシロ認定をすることは、倫理的に大きな問題がありますが、現状では合理的な対応です。厳正な審査による研究不正の認定は、研究費の返還や当該研究機関への厳しいペナルティにつながることから、研究機関の執行部にはシロ認定をしたいという強い動機が生じます。この状況で執行部により設置される調査委員会は、間接的に利害の当事者となってしまうでしょう。また、シロ認定をすれば調査報告書を開示する必要はありませんので、公開後、第三者から調査の不備を指摘されるという心配もありません。本来ならば、厳正な調査を実施した研究機関が文部科学省やfunding agencyから高く評価されるようなインセンティブが必要なのですが、現状は全く反対です。研究不正を未然に防ぐという試みは世界中でうまくいっていないわけですから、研究不正の発生を研究機関の責任とすることは誤りです。連帯責任とすることによって、強力な隠蔽のモチベーションを与えていることに注意を払うべきです。

調査委員を選出する際には公開されている関係からしか第三者性を評価できませんから、実は遠い親戚であるとか、あるいは趣味を通じた長い人間関係がある場合など、いくらでも想定外のことが起こりえます。第三者委員会というのは調査報告書を開示して初めて第三者性が保証されます。調査委員が調査結果を見て何を発言したかということが、そのまま公正性の評価の対象となります。たとえ肉親であっても、公正な評価を実施するという人もいるでしょう。最終的に公開することを義務づけることは、公正な調査のモチベーションとしても作用します。研究に関連する高度に専門的な問題も、公開すれば、調査委員以外の専門家の多くが検証することができます。シロ判定の報告書の開示は、悪意のある告発行為の抑止という意味でも有効な措置です。シロの報告書のロジックが客観的に見て妥当と考えられるとき、それではなぜ告発者は疑義を指摘したのか、悪意があったのではないかという次の論点が見えてくるわけです。

4)細かなミスを大騒ぎしすぎなのではないでしょうか。多くの指摘は論文の細部に関するもので、取るに足りないという印象をもちます。

研究活動というのは専門性が高く、関わる人の数が限られていることから、どうしても密室性が高くなります。その結果、おかしな行為が研究室で当たり前のこととなっていても誰も気にしないという事態が起こることがあります。研究論文に対する疑義は、こうした不健全な研究室を見つける上で役に立ちます。同じ写真が違う実験の結果として掲載される(データの使い回し)というのは不正の中でもポピュラーですが、こういう出来事の裏には、1)杜撰な生データ管理、2)実験の原理を理解していない未熟な実験者の存在、3)結論ありきのデータ収集(ボスの仮説にあったデータをピックアップする)といった問題点がしばしば隠れています。このような問題を抱えているグループが出した他のデータは、見かけの異常がなければ、あるいは学術誌が受理すれば、信頼できるのでしょうか。小さな疑義を研究者が大騒ぎするのは、不正行為は指摘された箇所のみとは限らないと考えるからです(しかし、その他のデータが疑わしいことの証拠はありませんから、こうした疑念を公の場で発言する人はいません)。細かな指摘に始まるケースであっても最終的には「研究全体が虚構」と認定されることもあります。「取るに足りない」かどうかは、疑義の段階では分からないのです。調査をしてデータ管理が杜撰ということが発覚するのであれば、研究室にとっても有益な指摘と言えるでしょう。

5)先端研究は内容が専門的なので、あらゆる科学研究の不正を的確に判断できるような人物はいないのではないでしょうか。

先端研究の内容を原著論文のレベルで理解することは一般には困難なことです。よって、研究不正の告発があった際に、本当に不正の可能性が指摘されているのか、あるいは的外れな勘違いなのかは、外部からは評価が難しいです。研究者といえども、それぞれの専門領域がありますから、分野が異なってしまうと不正行為の有無を判断することは困難です。しかし、自然科学に共通する考え方をベースにすれば、不正の有無を判断するための手続きは共通していることが理解できます。調査結果が公開されれば、それをもとに多くの専門家の意見を求めることができます。公開は諸刃の剣で、専門家の意見が分かれてしまい、グレーな決着になるかもしれません。これはこれでストレスのかかる状況を作り出すかもしれません。しかし、大事なことは、専門家が一致して明らかなクロといえる研究活動を確実に認定することです。専門的という理由で不透明な状況を放置することは、より大胆な不正を容認することにつながります。

6)研究者の本分は研究を真摯に実施することで、他人の足を引っ張ることではありません。

研究成果と研究者を分離して考えることができない方は、大学教授と呼ばれる人でも決して珍しくないので、研究論文を批判することは個人攻撃と取られることがあります。手塩にかけたデータは研究者と不可分という考え方もあるでしょう。他人の足を引っ張るというのはそういう考え方に基づくものですが、実際に疑義を告発する側には大きな心理的負荷があり、不正らしきものを見つけてもできれば関わりたくないと考える研究者が大半です。告発が匿名である理由の大部分は報復的な行為を恐れてのものですが、PubPeerをはじめ、それほど大変なことをあえて実行する例が後を絶たない理由を考える必要があります。

近年反省の機運はありますが、研究成果を論文数や有名学術誌への掲載数で評価するという制度と、「選択と集中」と呼ばれる研究者間、および研究機関間に大きな格差をつける方針は、研究の世界に大きな歪みをもたらしました。不正研究で得た成果をもとにしたプロジェクトに対する研究費の集中は、一方では誠実な研究者への予算配分を削減することにつながっています。投資した研究費が無駄になるというばかりではなく、本来であれば推進できていた研究の機会が奪われるわけです。研究コミュニティ全体にとっては二重の損害があります。また、虚構の成果に基づいた後続研究がうまくいく可能性はありませんので、国内ばかりではなく世界中で迷惑がかかっている可能性もあります。さらに、研究不正が大学のような教育機関で起こる場合、人材育成へのネガティブな影響はお金で換算できるものではありません。不正行為を強要されたことから研究の世界を去った若者の数はどれくらいになるのか、公式な数字はありませんが、10年以上不正研究を続けているラボであれば数十人の学生には少なくとも影響が及んだはずです。研究不正がもたらす影響は、関係者が見ないようにしているだけで、実際には破壊的です。研究コミュニティのリソースを大きくロスすることにつながる研究不正については、一定の関心を持つ必要があります。

「再現性のない研究はいずれ消えていくのだから、不正かどうかを気にする必要がない」というのもよく出る意見です。研究費の獲得において激しい競争がなく、全ての研究者が自らの関心のおもむくまま、研究に取り組むことができる世界であれば、こうした意見もある程度はうなずけるものです。競争がないにも関わらず、慌てて再現性のない研究を連発する研究室は、単に指導者の能力が低いだけであり、同じ領域の研究者を除けば、研究コミュニティ全体が気にかける存在ではないでしょう(人材育成という意味では問題がありますが)。しかし、実際には研究成果に基づいた厳しい傾斜配分が行われており、再現性にこだわりをもってじっくり研究を進めるような研究室は、成果が少ないことを理由に淘汰されているわけです。

殆どのfunding agencyおよび研究機関の告発窓口に「悪意の告発」に対する懲戒処分の可能性が明記されていることは、深刻な影響を与えているのではないでしょうか。海外では告発者に関する情報の秘匿をはじめとした適切な手続きと告発者保護の環境が整備されています。一方、日本では、逆に告発者が懲戒処分を受ける可能性や、告発内容は複数の機関で共有する(告発者の情報は当該機関以外でも共有される可能性がある)旨が明記されています。疑義がシロであった場合、調査報告書は開示されませんが、このとき「悪意のある告発であった」という認定が研究機関で行われた場合、告発者に懲戒処分が下される可能性があります。懲戒処分が妥当かどうかは、報告書が開示されなければ、誰も検証するすべはありません。匿名の告発が卑怯だという指摘はよくありますが、このような環境において実名で告発する行為はよほど覚悟がないかぎり難しいでしょう。

7)研究不正をはたらく研究者は、ことの大小を問わず、追放するべきではないでしょうか。

研究者には自明のことかもしれませんが、強引な解釈や、不備のある実験により得られた成果は、研究不正とよく似ています。白黒の線引きをすることは実際には困難であり、過去の調査報告書でも、研究者の印象ではクロに近いものであっても、単純なミスとして取り扱われることはしばしばでした。しかし、厳しい基準で不正認定をしてしまうと、うっかりミスが命取りになりかねないわけですから、研究不正の認定に慎重さが要請されるのは当然のことだと思います。

研究公正を考える上で重要なのは、科学研究のあり方を揺るがすような不正をどのようにして見つけるかです。ひとつひとつの疑義はその研究者の研究に向かう姿勢を反映するものであり、不正行為の発覚によってその研究者の信頼は損なわれます。しかし、一方でそれは直ちに懲戒処分に相当するようなものではないと思います。研究全体が虚構と評されるような、持続的で組織的な不正研究を見いだすことを重視すべきです。そして、そうした研究への支援は可能な限り速やかに停止しなければいけません。疑義を指摘された研究グループの研究実施体制がおおむね健全であることが確認できれば、いわゆる出来心的な不正行為を殊更にクローズアップする必要はないのです(もちろん、論文の訂正は必要ですが)。不正調査では、研究不正の全体像に対する理解が欠かせないです。

不正が発覚した研究者をどのように取り扱うかは、社会的な問題であり、研究者の意見だけで決められるようなことではないでしょう。欧米は処分が日本より厳しいように思いますが、文化的な相違は考慮すべき問題です。研究者コミュニティとしては、論文の修正、撤回という対応が全てであり、その研究者の事後のポストは問題ではありません。しかしながら、疑義の解消しない研究者に引き続き大きな研究費を配分することや、不正行為が認定された研究者を競争的資金の審査員に任命するといった欺瞞は、研究者コミュニティそのものが解決するべき問題と言えるでしょう。不正が公的に認定されない限り当該研究者は不利益を被るべきではないというのは、もっともな意見なのですが、自ら疑義を解消しようとしない、あるいは名誉毀損で訴えるといった態度をとる研究者についても同じ原則が適用されるべきでしょうか。研究者としての重要な責務のひとつを自ら放棄しているわけですから、それに応じた対応があってもよいのではないかと思います。