研究不正を生み出すもの

2017年12月12日

岡山大学 田中 智之

近年の我が国の財政状況の悪化は、科学研究や高等教育の規模の縮小を求める動きにつながっています。高度経済成長の中、毎年増加する予算配分の恩恵を受けている間は注目されませんでしたが、科学研究や高等教育の政策を立案するセクションと、その影響を受ける研究者との間の相互理解が不十分であることは、昨今の科学研究における課題の解決が困難である要因のひとつです。

自然科学分野の研究者が受容しにくいもののひとつに「結論があらかじめ設定されている議論」というものがあります。自然科学の研究者であれば、「結論が決まっているものに議論は必要ないだろう」、あるいは「議論をすることではじめて結論が導かれるのでは」と考える方が自然です。しかし、広く社会を見渡せば「結論が決まっている」ことを議論することはそれほど珍しくありません。

裁判において同一の科学的な証拠に対して一審と二審の評価が全く正反対になることがあります。科学者のもつ常識では、専門家が十分に議論を重ねれば、完全に一致することはなくても、おおむね似たような結論に至ると考えます。しかし、科学的な証拠が判決を支える材料としてではなく、別の理由で先に決定した判決を補強するツールとして用いられることがあります。この場合、判決が逆になれば、証拠もそれにあわせて、レトリックを駆使することで無効化されます。「反対派」の科学者を証人として呼ぶ場合、異なる見解をもつ科学者同士の議論を通じて真実に近づこうという目的ではなく、むしろ科学者間の見解の相違を示して科学的な証拠を相対化することが狙いであったりします。裁判は科学的に自然現象を追究する場ではないですが、科学的な知見があたかも目撃者のあやふやな証言のように取り扱われることに抵抗感を覚える科学者は多いのではないかと思います。

科学研究政策は5カ年計画で立案され、原則として数値目標が盛り込まれます。これも科学者にとってはなじみにくい仕組みです。大きな方向性を打ち立てることは大切ですが、設定された数値評価をクリアすることにどの程度本質的な意味があるのかは疑問です。ある水準の能力をもつ人材を社会に送り出すことを目的に設置された教育機関が、予算はそのまま(あるいは減額された上)で毎年一定の割合で何らかの数値を向上させる必要があるのは何故でしょうか。数値評価は自然科学分野の研究者に馴染み深い方法のように考える方もあると思いますが、研究者であれば、目的達成のためには何を測定すれば良いのかを最初に考えるでしょう。また、数値評価の基準はどこにおくのかといったことが不完全なまま測定をはじめることはないでしょう。5カ年計画のような枠組みは科学研究政策や国立大学の中期計画をはじめ、様々な場で認められますが、計画達成のためのつじつま合わせが横行することは、ソ連や中国で実施された計画経済とよく似ています。数値は不正ぎりぎりの方法で改ざん、粉飾され、それでも目標が未達の場合は、目標そのものの解釈を変えるための作文に時間が費やされます。計画経済下の政府統計が嘘まみれであったことはよく知られています。

こうした「結論ありき」の考え方と研究不正には深い関わりがあります。

新たな治療法を検証する臨床試験では、その治療法の有効性を裏付けることが目的となっていることがあります。あるいは有効性が認められなければ失敗と誤解している人が責任者であるということもあります。即ち、新たな治療法が既存のものより有効ではない場合、プロジェクトは失敗と見なされるわけです。「結論ありき」で計画する臨床研究は、その発想そのものが矛盾を抱えています。Spinと呼ばれる粉飾から、ディオバン事件で認められた不正行為まで、その背景には、最初に設定された「結論」である有効性を何とかして示そうという意思がはたらいています。

基礎研究においても同様です。博士研究員を多数雇用し、大きな研究室を維持、運営するためには、有名な学術誌に論文を掲載してもらう必要があります。「結論ありき」でやろうとすると、確実に結果を出さなければいけません。そのため、整合性のない結果は破棄され、魅力的なストーリーをサポートする偽陽性データが蓄積されます。それでも上手くいかない場合は、改ざん、捏造をするわけです。ベンチャー企業であれば、「結論」は上場でしょうか。先端技術で社会に貢献することが最終的な目標であれば、再現性の高いデータの蓄積が必要ですが、上場が「結論」であれば、短い期間、関係者を騙すことができれば良いわけです。セラノスの事例などはまさにそうした仕掛けです。

研究公正については、現状を看過することによる損害と、対策のために投じる必要のある資源を比較し、どういう対応が最も合理的かということが議論されるべきです。前者を明らかにするためには、研究不正の実状と与えるインパクトを正確に知ることが欠かせませんし、後者については資金的な問題だけではなく、調査や解析にかかる人的資源についても考慮する必要があるでしょう。現在はそうした予備的な調査も行われておらず、議論のベースとなるデータは存在しません。「第三者機関を設置しない」という「結論」から議論を始める論者には、いくらその必要性を説いてみても巧みなレトリックで反論されるだけであり、本質的な議論は成立しません。欧米の取り組みの背景にどれくらいの基礎データがあるかは明らかではありませんが、我が国と比べれば専門家の数も多く、彼らが公正さを尊ぶという高尚な姿勢だけで動いている訳ではないことは明らかです。

人文科学では実験科学のように実験を通じた検証が困難です。よって、論者は自らが長い期間をかけて蓄積したインプットをもとにある「仮説」を立てます。自然科学における「仮説」は、検証に基づいて撤回、あるいは修正されることが想定されている暫定的な位置づけのものです。一方で人文科学では、「仮説」はひとつの「学説」であり、これを支持する過去の学説を引用したり、矛盾する議論を批判することを通じて、議論の精度をあげていきます。ここでは「学説」は不断に見直すべき存在ではなく、むしろ異なる他の「学説」との論争でも揺るがないことが求められる堅牢な構築物です。些か粗い議論になりましたが、科学研究政策の場では、「結論」のもつ意味が異なる二つの文化が何の交通整理もなく連携を強いられているところに大きな問題があるのではないでしょうか。官庁が一定の比率で自然科学の博士を採用するという仕組みをつくるだけでも、随分その文化は変わっていくと思います。