論文を撤回するのは誰か

2019年2月20日

京都薬科大学 田中 智之

趣味で日曜研究をやっている人を除けば、全ての研究者は公的、あるいは民間の研究機関に所属しています。給与は研究機関から支払われており、研究費は政府や企業、助成団体等が負担しています。よって、科学研究の黎明期のような自由な立場の研究者は稀であり、研究者は所属機関や助成機関に対する責任を負います。そのため、所属機関に対してダメージを与えるような研究者の行為は懲戒処分の対象となることがあり、解雇されるケースも珍しくはありません。

それでは、学術誌に投稿される研究論文はどういう位置づけにあるでしょうか。こちらは現在でもなお研究者の裁量が認められていることが多いと思います。研究不正の疑義が学術誌の出版社に寄せられた場合、出版社は研究機関に連絡を取り調査を求めます。研究機関の調査委員会は、著者の研究者に論文の撤回を求めることがありますが、最終判断は著者である研究者に委ねられます。研究機関に直接告発があった場合も同様です。一方で、もうひとつのプロセスとして、出版社側が研究者の同意を得ずに撤回することがあります。出版社は専門家としての編集者を抱えていますので、編集者が撤回やむなしと判断することによっても撤回ができるわけです。

京都大学の事例:編集者の依頼により撤回された(複数あるもののひとつ)

https://doi.org/10.1016/j.jconrel.2016.05.029

For more retractions for biomaterials researcher brings total 7. (Retraction Watch)

こうした制度が保障しようとしているものは、専門家による判断の尊重です。著者にはもちろん研究者としての自律的な判断が求められます。著者が論文撤回を承認しない場合、学術誌は編集者という専門家の判断に従って論文を撤回するわけです。方々から疑義が指摘されているような論文が掲載されていることが学術誌にとって望ましくないという動機もはたらくと思いますが、専門家の判断を介することなく撤回されるというケースはほとんどないと思います。研究機関、助成機関、あるいは政府の要請によって学術論文が直接撤回されるようなことには大きな問題があるということは、国際的に共有された認識です。

データに対する合理的な疑いに対して反論ができない論文、あるいはミスが多すぎてもはや結論が維持できないような論文は、著者がこれを撤回する、これが大原則であり、これに著者が抵抗する場合、別の専門家の判断で強制的に撤回される(研究者としては不名誉なことと言えるでしょう)ことがあるわけです。

ところが、昨今こうした原則が揺らいでいます。このサイトでも過去に取り上げていますが、東京大学における調査や情報公開の姿勢は、研究者やメディア、法曹から批判されています。一定の合理性のある疑義についてシロ判定をするからには、その根拠が示されなければ、疑義をとなえた人はもちろん、事案を知る人の多くは納得ができないでしょう。東京大学が判定したのだから部外者はその判断を尊重すべきで、詳細を知る必要はないという姿勢は、科学研究における行動規範からはかけ離れたものです。Tide of Liesと指摘されるような臨床研究の大きな不正事件の調査委員会が、「共著者は全てギフトオーサーだから責任はない」などという杜撰な結論を出す背景には、東京大学の対応が強い影響を与えているでしょう。

研究環境を見直す機会

22報論文に関する調査報告(ここで個々の論文については評価せず、研究者に不正行為はないと書かれているのは意味深長です)

出版社側の問題についてもこのサイトで取り上げました。出版社側がMega correction(著者による大量のデータ修正)を許容することは、上滑りで質の低い研究が幅を利かせることにつながります。この裏側には有名誌における専門性の軽視があります。Nature誌は研究公正に関する論説やコメントを積極的に掲載していますが、同時にmega correctionを容認し、reviewerの専門的な意見に逆らって論文を掲載することがあります。

研究論文における「瑣末なミス」があらわすもの

一定の合理性がある疑義がとなえられた際に、「研究機関による調査中であるから個別の回答は差し控える」というコメントが当事者から出ることがあります。様々な事情はあると思いますが、論文を撤回するべきかどうかを判断する材料は研究者自身がもっているはずであり、論文撤回は研究者の判断でいつでもできるということを改めて強調したいと思います。

研究機関が設けた調査委員会は、利益相反の問題から逃れることができないので、最終評価としては無理をしてでもシロ判定を出そうとします。「研究の進め方には深刻な問題があり、責任著者には重い責任がある。しかし、指摘された疑義についてはいずれも不正にはあたらない。」といった表現は定番ですが、調査委員たちの怒りの表現が強ければ強いほど、偽善的な印象を与えることは否めません。しかし、調査委員会がシロという判定を出したからといって、著者の論文に対する説明責任までもが消失したわけではないのです。本稿が最終的には研究者のモラルに訴えるという実効性の乏しい結論に至ってしまうことは大変残念な状況です。制度的な改善が求められます。