競歩型とマラソン型

2017年10月14日

岡山大学 田中 智之

Oridinary_researchersによって論文の疑義が告発された東京大学医学部の研究者の一人に最近新たに大型予算が配分されました。当該研究者は、基礎研究のみならず臨床研究に対する疑義もくすぶり続けています。AMEDという公的機関が、匿名の告発に加えて千葉大学の勧告まで軽視するという状況は、アカデミアの規範より優先するべき秩序がほかにあることを示しています。研究公正より重要で高度な問題がある、そこでは研究者の規範の遵守は必ずしも優先しないという考え方は確かにあるかもしれません。しかし、研究者の規範が軽視されるような研究環境の拡大は望ましいものではありません。

整合性のある解決は容易ではないですが、次善の策として、東京大学が実行したように取り扱いを区別するという方法はあると思います。この場合、相互のルールは異なっていますので、研究費の申請や審査についても区別する必要があります。競歩とマラソンは同じトラックで競争することはありませんし、競歩のルールを当てはめればマラソンはルール違反になってしまいます。また、逆に競歩選手がマラソン選手にスピードが遅いことを批判されるようなことはナンセンスといえるでしょう。研究倫理は時間をかけて醸成されるものであり、ルールの異なる二つの分野を拙速に統合しようとすれば、無用の摩擦が生じる可能性があります。東京大学方式を採用し、競歩型、マラソン型、どちらのタイプのラボであるかを明示することは、若者の進路選択の参考にもなるでしょう。競争的資金の応募に際しても、どちらのタイプかが分かれば申請のために無駄な労力を割かずにすみます。

こうした提案は一見して投げやりで無責任なものと受け止められるかもしれませんが、必ずしもそうとはいえません。現在、二つの分野の科学研究のとらえ方には大きな隔たりがあります。一方は、トップジャーナルに掲載されるようなインパクトのあるストーリーを速やかにデータで表現することが目標であり、個々のデータの再現性や正確性は最優先ではありません。もう一方は、再現性があることを重視するために、安定しない結果が得られた場合には、仮説を見直したり、別のアプローチを考えたりすることで、試行錯誤を繰り返します。目標が異なるにも関わらず、外からは同じ研究室として取り扱われていることから生じる混乱を解消することにはメリットがあります。同じ学術誌に論文が掲載されているからといって、同じ姿勢の研究室とは限りません。

ミスコンダクトは決して医学部に限らないことは、分生研の事例からも明らかです。ミスコンダクトが起こったラボの研究者を擁護する声の多くは、そんな小さなことはどうでも良いというものです。実験科学に再現性がなくても良いというのはかなり大胆な発言ですが、その研究者が過去にどういう教育を受けたかによって受け止め方は変わるものです。研究費の審査においても、審査員が大したことがないと考えている限り、今後も競歩型の研究者が憤慨するような研究費配分は続くでしょう。二つのタイプが融合するためには、実験科学とはどういうものかというコンセンサスが醸成されなければいけません。

私自身は競歩型で再現性の高い手堅い研究こそが最終的には社会に貢献するという意見を持っていますが、国際的に見ても、「インパクトのある」研究を歓迎する傾向は顕著です。「インパクトのある」研究がどの程度社会に貢献するのかという評価については、もう少し時間をかけないとコンセンサスは形成されないかもしれません。しかし、Cell, Nature, Scienceの数を競うような傾向は基礎研究の質に深刻なダメージを与えているということは、海外では何度も指摘されているところではあります。また、重要な研究論文の再現性を確認するためのプロジェクトが立ち上がっているということは、それだけ疑わしい研究が無視できない存在となっていることを意味しています。「疑わしい研究も含め科学は進歩してきたのだ」という研究者もいますが、近年の問題の深刻な点は、研究の質の低下と悪意との区別がつかないような混沌を生んでいることです。全体的な研究予算が制限され、選択と集中が続く現状において、マラソン型の研究を奨励することは、回復不能なダメージを研究コミュニティに与えるかもしれません。研究倫理というものの性質を考えると、メンターからしっかりと競歩型の教育を受けた研究者が「これからはマラソン型で良いのだよ」と言われても、実際に転向することはなかなか難しいように思います。現状の仕組みではそうした研究者は淘汰され、少なからず姿を消していくでしょう。これからのライフサイエンス研究の質を維持するためには、競歩型の研究を保護する措置をとることが大切ではないでしょうか。