2005年の提言

2016年10月19日

岡山大学 田中 智之

日本学術会議のwebページには、同会議がわが国の人文・社会科学、自然科学全分野の科学者の意見をまとめ、国内外に対して発信する日本の代表機関であることがうたわれています。十分な予算が与えられていない、委員の選考が不透明といった、学術会議に対する否定的な意見はあるようですが、現在わが国において研究者の意見を代表する唯一の公的機関が日本学術会議です。よって、学術会議の意見が国の施策に反映しないような状況では、各学会や研究機関から個別にどのような発信があろうと大きな効果はないかもしれません。

研究公正については、2005年8月に当時の黒川清会長が会長談話の形で、この問題に学術会議が継続して取り組むことを述べており、同時に「学術と社会常置委員会」から「科学におけるミスコンダクトの現状と対策:科学者コミュニティの自律に向けて」という報告が行われています。10年以上前の報告ではありますが、2016年の今でも十分に通用する優れた内容です。

報告書は科学コミュニティ全体への提言という形式をとっており、これは即ち、科学者個人、研究機関・学会、研究資金提供機関、学術会議自身を指しています。是非本文をお読みいただきたいところですが、私は以下のような提言に注目しました。

・事前措置として各研究機関は、倫理規定の整備、調査・審査機関の設置、倫理教育という対応をとることができる。

・事後措置としては、公的システムとして独自の専門審理裁定機関の設置、情報公開の仕組みを整備する必要がある。

・研究不正の取り扱いは、1)所属組織、2)各科学領域(学会)における調査・審査機関、3)日本学術会議、あるいはそれに近接したアカデミック・コート(不正裁定機関)、の三層で対応することができる。

・欧米の対応策を「自律」の成熟度が異なる日本に機械的に導入することには慎重でなければならない。

・調整、審理、事後処理の道筋が制定され、明示されていることは、ミスコンダクトの防止あるいは悪化の防止にとって有効である。

この提言に対する科学者コミュニティの応答は残念ながら大きなものではなかったようです。アカデミック・コートとなると、学術会議そのもの、あるいは監督官庁が動く必要があるわけですが、そうした動きがなかったことは、この提言が対象とされた科学コミュニティの構成員の心にそれほど響かなかったことを暗に示しています。

その後に発覚した研究不正事件を見ると、提言を無視したことは科学コミュニティの大きな失敗のように思います。同じ時期に発覚した大阪大学医学部の研究不正事件は、研究そのものが虚構といえる事例でしたが、筆頭著者の学部生の責任ばかりがクローズアップされ、研究室そのものの抱える問題点が検討されることはありませんでした。研究活動にまつわる様々な手続きを考えれば、この不正事案を学部生単独の責任として理解することには無理があります。表だって議論されることは少ないですが、調査報告書が公開されず、実状がよく分からないままこの事件が収束したことは、モラルハザードという意味で、その後の事件に大きな影響を与えていると思います。実際、琉球大学の教授は、自らの懲戒解雇が不当な処分であると主張する上で、このときの大阪大学の処分を比較対象として取り上げています。

詳述しませんが、東北大学歯学部、東邦大学(筑波大学も関連)、東京大学分子細胞生物学研究所、東京大学医学部附属病院、STAP細胞事件といった辞職や解雇を伴う大型案件やディオバン事件を並べると、2005年の学術会議の提言を科学コミュニティが真摯に受け止めていればと考えざるを得ません。

2015年に文部科学省より審議依頼を受けた学術会議は「科学研究における健全性の向上について」という回答を2015年3月に発表しました。

依頼内容は、下記のようなものでした。

・特定不正行為以外の不正行為の範囲

・研究者としてわきまえるべき基本的な注意義務、並びに実験データ等の保存の期間及び方法

・その他研究健全化に関する事項

・研究倫理教育に関する参照基準

・各大学の研究不正対応に関する規定のモデル

・その他研究健全化に関する事項

2005年に学術会議から既に提言されていたアカデミック・コートについては、文部科学省の審議依頼の中には含まれておらず、一方で学術会議もまた自らの過去の提言を参照することはなく、不正裁定機関の設置について追加で言及することもありませんでした。依頼への回答という形式のせいかもしれませんが、ここからは、問題を解決しなければいけないという強い意思を感じることはできません。

研究公正をめぐる状況は、2005年からさらに悪化しているように見えますが、公的機関の取り組みはむしろ後退しています。日本学術会議はもう一度2005年の精神に回帰した方が良いのではないでしょうか。そして、科学者コミュニティがこの提言を積極的に支持することが、健全な研究環境を取り戻すことにつながるように思います。