研究不正を軽視することは
社会に深刻な被害をもたらす

2021年1月31日

京都薬科大学 田中 智之

Tide of Liesとして日本の骨粗鬆症研究における大規模な不正が批判されましたが、国内では報道もわずかで、日本骨粗鬆症学会が提供する治療ガイドラインには今も撤回された論文が参考論文として掲載されています。このことは、社会にとって大きなマイナスだと考えていますが、それほど重要とは受け止められていないようです。

昨日、国立循環器病センターは二編の論文で特定不正行為があることを報告し、これらを根拠の一部として進められていた特定臨床研究 (JANP Study) が中止されました。これは2020年8月に報告された研究不正調査において予告されていた追加調査に相当します。当初の調査では主に臨床研究における不正が認定されましたが、JANP Studyの根拠を与えるヒト心房性ナトリウム利尿ペプチド(ANP)の新たな生理作用を報告した基礎研究論文については調査の対象となっていませんでした。2015年2月にProc. Natl. Acad. Sci. USA (PNAS)誌に掲載された論文は、ANPの新たな作用機序を示唆する内容で、不正行為が認定された医師が見出した臨床におけるANPの作用を説明するものでした。この論文を受けて、同年6月に国家戦略特区の制度を利用してJANP Studyが開始されました。極めて迅速な展開です。

ところが、このPNAS誌の論文は、2017年10月にPubPeerにおいて疑義が指摘されます。この指摘との因果関係は分かりませんが、2018年8月に同誌に訂正(Correction)が発表されました。もとは6ページの論文に対する訂正が4ページにわたるということで、Retraction Watchにおいてもこれを揶揄するようなタイトルの記事が掲載されました(これらの経緯については、2018年9月の別記事で解説しました)。重要な根拠論文の大規模な訂正は、JANP Stduyの関係者に大きなインパクトを与えたのではないかと思うのですが、表面的には何の動きもありませんでした。しかし、最初の調査報告書を読むと、2017年12月には当該研究者の論文についての告発が大阪大学と国立循環器病センターに対して行われていたことが分かります。

JANP Studyは肺がん患者が被験者の臨床研究であり、ANP投与群、非投与群が設定されています。もしも、投与群において被験者のベネフィットが全く期待できないということであれば、期待されるベネフィットがリスクを上回らなければいけないという臨床研究の原則に違背するものとなってしまいます。ベネフィットが全く期待できないのであれば、ANPを投与することのリスクはその大きさに関わらず許容できるものではないでしょう。

2015年6月からはじまった臨床研究が、研究不正の告発や疑義の指摘を受けた2018年の早い段階で見直すことができなかったのはなぜでしょうか。2015年5月の先進医療会議・先進医療合同会議の議事録を見ると、そもそも計画自体に様々な問題点があり、それをPNAS論文という成果を盾に押しきったようにも見えます。研究不正を行った当時者や、論文の責任著者に問題があることはいうまでもないですが、このプロジェクト全体が、被験者の抱えるリスクより、プロジェクトの採択、実施が優先されているように見えます。大規模な臨床研究では巨額の資金、人的資源が投入されます。このことは、むしろ計画を進める上での慎重さに結びついて欲しいところですが、実際には全く逆のことが起こります。被験者を守るためのレッドチームをおいて、批判的に計画を検証するという制度が導入されるべきでしょう。専門的な観点から被験者のリスクを指摘する仕組みが有効に機能していないように見えます。レッドチームが監視していれば、PNAS論文の問題点が浮上したところで、徹底的な検証を要求していたことでしょう。

2016年6月に発刊されたニュースレターでは、PNAS誌に掲載された論文の裏話を読むことができます。いろいろ考えさせられる内容ですが、「優秀な外科医の臨床研究」に端を発した仮説が、基礎研究を通じた検証で否定されたという事実は受け入れにくかったのかもしれません。今回の調査報告書では、経験不足、共同研究を取り仕切る力量に欠けるという指摘がありましたが、そもそも基礎研究の訓練を受けていない外科医に研究をリードさせていたことに問題があるでしょう。「優れた医師は、基礎研究においても優れた成果を残す」という神話は医学部では根強いものがあります。しかし、現在の生命科学の基礎研究は、様々なタイプの実験を複合させた複雑で巨大なプロジェクトであり、訓練や経験もなく取り組めるようなものではありません。

今回の事件を一種のスキャンダルとして消費するのではなく、裏側にある仕組みや姿勢を見直す機会にして欲しいと思います。