050 歩き続けると、存在の軌跡と奇跡とが見えるから

(2004-12-31頃作成、2014-04-02頃修正)

自分が嫌になっても

自分が嫌になるってことあるよね。

でも、その嫌になっている自分って?

理想の自分と現実の自分との対比をしているのかな?

肉体と魂とがあるみたいに考えているのかな?

他者を羨み妬んでも、楽しいことなんてないし。

妬み恨み羨むことから脱却する気持ちが同時にあるでしょう?

それを持っているのも、その人の一部じゃない?

ただ、それが心の平穏につながったりするんでしょう。

嫌ですけど。否定したいですけど。

客観性を持つこと。それが囚われから逃れる道。

「それは実は些細なことかもしれないね」、

「なんでそんなに重要視していたのかな」、

「馬鹿みたい」って気が付くの。

それもひとつの解放のあり方。

自分が馬鹿だって知ってるから、

馬鹿だって知っている?

愚かさを知っている自分って誰?

他人から馬鹿だって思われたって、どうってことないし。

本当は他人から認められたいの?

そうじゃないよね。

自分の中に確固たる価値を。

揺らがない価値を。

強さを見出したいのだよね。

とか、自嘲的な台詞も自分的にむかついてしまうし。

自嘲は弱さ?

卑下してなんになるのだろう、って思う。

それを救いにしている、

言い訳している、

自分という存在は

確かに見苦しい。

こんな言葉を思いついてしまうだけでさらにむかつくし。

メタ視点で嫌なものを封じ込めたいのかな?

こんな言葉遊びをしている場合じゃない?

メタメタメタと階層を移る。

感情の世界から別の世界へ。

鏡の中の無限の連鎖が自分を無化し、

ただ最後に観察している視点のみ残る。

制御できることとできないこと。

制御できることにはせめて責任を持てたらいいなって思う。

感情的な自分を観察している自分を観察している自分。

それは理性だろうか?

ただ、認識しているだけ?

観察している自分は

怒ってもいないし悲しんでもいないし

喜んでもいないし楽しんでもいない。

諦観とも少し違う。

ただ、見て認識しているだけ。

はっきりいって、頼まれるからやるだけです。

そうやって自分の無能の言い訳をしているの?

誰が頼まれないのにやるかっての。

頼まれて嬉しいの?

それに応えたいって思うの?

楽しいことはいくらでもあるけど、

楽しいっていろいろな意味があるよね。

それが充実しているとは限らないけど、

後ろめたさがあるってことかな?

それが自分に嘘をついているって、

短期的に楽な方を選ぶってこと?

理想と現実と二人の自分?

自分の体と思考を擬似的に騙して、

騙された振りをしているだけ。

わかっている?

そういうものなんだって。

弱い、って言うのもいいわけの一つ。

そして、

何も得ないで。

全ての行動は余命との交換。

それは何かを得たっていう

幻想よりましだと思うから。

失う一方なんだ。

それを軽視しているだけ。

人の命をろうそくに灯った火に例えるなんて

なかなか面白いよね。

よくいいますよね。

「私なりに精一杯がんばったって」

これしか、拠り所がないなんて。

でも、これを拠り所にできれば。

最高だと思うんだ。

でもさ、直前だけ、

その時だけがんばるなんて

たかが知れてるわけなんだし。

これも客観性かも。

どんなときに自分はがんばっている?

どんな力に自分は駆動される?

それをうまく自分の生に組み込むこと。

あるときは他者を利用してでも。

というより、もっとも人を駆動するのは人だ。

人に駆動されない状況もあるが、

それを持っている人はもう大丈夫だと思う。

またひとつ自分を騙して。

ずっとだまして。

自分を騙すのは無理だよ。

ただ、安易に流れる自分を追認するのみ。

だって、客観的な自分は知っているんだもの。

「何を得た?」

「何を失った?」

だからそれは決着済みだって。

失うのは時。そして得たものの価値を判断することは難しい。

どうせ虚偽と虚飾に基づいた信頼なら壊れたってしかたがない、

っていう分別ならある。

でも、「裏切りたくない」って想いもあるんだ。

それを、軽視しては駄目。

何かの為って自分を騙すのは疲れるじゃん。

疲れるじゃなくて、残念で悲しいだけ。

偽るじゃなくて妥協しているだけ。

自分の力を過大評価しているだけ。

理想の自分と現実の自分のギャップに苦しむだけ。

「だからもういいの」

だから、もういいの。

分岐に立つ自分をしっかり見つめて。

自分の力をちゃんと把握して。

流されないで。

強い意志を持って。

虚無とともに

小さな薄緑色のまどろみを率いて、

渦巻くつむじ風が心を通り過ぎるように

目を瞑り、世界を優しく見守る存在をひとまず

想定してみたりして、

永遠に嘘をつき続ける。

そうすれば、閉じたその系では

真実という虚構を保つことができるから。

事実を把握して。

正しい認識と共に。

自分の身体の存在。

目を開き。

私を駆動する力をはっきりと掴む。

ただ、自らの足で歩く。

そうすれば、自らの足が

生を実感させてくれる。

「あなたは仕事が鈍いの」

「恨まれることが怖くて、

評価なんてできるわけないじゃん」

意味ある言葉と意味のない言葉をより分ける力を。

制御できることとできないことをしっかりと認識して。

騙されないで。そして逃げないで。

眠りが安らかな生を見守ってくれるように。

あなた以外には、

あなたを誰も見守らない。

眠っている場合じゃない。

どんな意志があなたを駆動させる?

意志で動くようにできているんだから。

肯定もしない代わりに否定もしない。

そんな小さな馬鹿げたどうしようもない拠所。

相手にすぐに同調するようなこともないけれど、

相手に反対することができるほど知識も論理もないなんて、

なんて情けないのだろう。

沈黙が価値?勝手に言っていれば?

そんなものが拠所?

はぁ?

馬鹿?

「罪なんか憎まずに人を憎みたい」

人間を憎むなんて本当に人間らしいね。

ネコを本気で憎めます?

憎むってどういうことかな。

心がそれに囚われるってことかな。

それが人間らしさだと勘違いしている自分を肯定したいから。

そんなに自己を肯定したいかね。

そして許されるという幻をみて、

そんな妄想ばかり?

そうでもないかな。

安堵している自分を叱咤して、

たしかに、安堵している場合じゃないよ。

一人、歩き続けよう。

いつもの結論ですね。

歩いていることが拠所っていうのならまだ許せる。

それが、自分を明確にする。

明確化することは大事かな。

悩んでいても何にもならないこともある。

無駄に悩むよりなんかしたほうがいいってことかな。

明確になったからいいことがあるというわけではない。

まぁ、苦しくなることもありえるもんね。

でも、しかたないからそんな言葉を使うけど、それが誇りだから。

この程度のことを誇りにしているところが駄目なのでは?

いいかげんに気が付け。

歩き続けるということでしか、

存在の軌跡と奇跡は見えないから。

歩き続けることで存在の軌跡と軌跡が見えるから。

ちっぽけな自分を支えるにはちっぽけな誇りで充分だから。

自分を支えるだけであるならば、

いくらでも妄想を編めばいいのだけど。

でも、そういうわけにはいかないよね。

自分に関わる人がいる中で、誇りを持たなければいけない。

ただ、あの人のために、それは過去の人だけど、

過去の過ちを否定するために、過去の過ちをプラスにするために

もう少し、そう、もう少しだけ、生きてみようと思う。

その時に、私が感じたのは、とてつもない悔しさ。

全ての過去を否定されたような感覚。

手をすり抜けていく砂のような・・・喪失感。

否定、そしてその人に対してはもうやり直せない、って認識。

その悲しさ、その辛さに気がつくことにより、

自分の愚かさを組み替えなければ、いけないという強い衝動・意志。

否定された過去を取り戻し肯定するために、

未来を作るために、もう少しだけ生きる。

いつも言っているでしょう。

「あなたの体は生きようとしている」

たとえ心が生きようとしなくても。

忘れないで。

私たちは単純なようで複雑で、複雑なようで単純。

死にたくなってもお腹がすく。

死にたくなっても歯が痛い。

どちらも正しくないしどちらも正しい。

心も正しい。

身体も正しい。

両方否定できない。でも互いに矛盾する。

重み付き平均で判断するくらいの客観性は欲しいね。

「唱えよ呪を!唱えよ祝を!」

「絶対負けない」とか「がんばって」とかそういうの。

「古き束縛を解き放ち 新たなる束縛を作るため」

古い窮屈な靴を脱ぎ捨てて、自分の足にあった靴をはいた

ほうが進みやすいでしょう。

生きることも同じ。

「やさしさを克服して」

「かなしみは受け入れて」

「絶望はいつでもそばに」

やさしさに甘えないってこと?

悲しみに流されないってこと?

最低から始まるなら、あとはいいことだけ。

いつも希望があるって感じ?

そして、

私は

眠ってしまうでしょう。

途中で。

切りのいいところで完結しない。それが人の生。

でも、

それが

私らしいんじゃないかな。

誰しもそうかもしれないけど。

それを私らしいって決めたのかな。

誰も認めてくれないけど

自分だけ認めてあげる。

自己満足。

自分の指針に従って生き抜けたかどうか。

それ以外に何を望みますか?

誰も認めてくれないから

自分だけ認めてあげる。

あるいは認めてくれる人もいるかもしれないけど、

そういう人が存在可能であると知るだけでもう十分だよ。

そう、今わかった。

何が?

こうやってバランスをとるんだね。

言葉で自己を守る。

心が崩壊しそう、ってことはないけど、

ぐらつくことはあるわけで、

なんとか維持しようとするんだろうね。

言葉は軽いから

たくさんの言葉を必要とするけど、

それはあなたに付随する経験が少ないからでは?

脳は賢いから

補完機能が凄いよね。

微笑ましい寝顔とともに

苦しみを!悲しみを!喜びを!願いを!嫉妬を!

氷解させてくれる。

都合のよい解釈をするね。

でも、そんなのに流され過ぎてはだめ。

緩やかに眠りに落ちていく自分を

疲れて何もやりたくなくなる自分がいるのは否定しない。

一番残酷で優しい自分が、

矛盾した表現だけど、

他者の苦しさを嫌だと思わない。

手を汚すことに躊躇しない、

って意図かな?

何もいわずにそっと、

崖の上から自分を

突き落としてくれる。

もう、何もしなくていいんだよ、て言外に言っているのでしょう。

そして最後に言うんだ。

「ありがとう私に関わったみなさま」

「ありがとう何よりもかけがえのない自分」

落ちていく私はこう言うだろうね。

「ありがとう、私が神様よりも尊敬している人」

なんで神様が?神様は見ているだけだからね。

尊敬なんかしないよね。

遺伝子によって私が操作されている(?)みたいに、

人の意思によっても操作されているよね。

「哀しみのための涙なんて私は絶対流さない」

そんな暇があるのなら、次の符を打ちましょう。

まったくまったくそのとおり。

無理でもそういうことは心の片隅に。

思考の緩和も考慮に入れて。

「殺されてしまった人は哀しむかしら」

「殺されてしまったら哀しむことはできないかしら」

悲しめないよ。当たり前。

私が殺した“あれ”は死の瞬間悲しんだかな。

そんな刹那にいろいろ感じるかな。

諦めるかな、私なら。「まあ、しゃあない」って感じ。

「一瞬は永遠になるって嘘ばっかりだ」

「自らを…」

「呪いたくないから…、蔑みたくないから…」

「卑下したくないから…、誇りを持っていたいから…」

「それが理由ではおかしいですか?」

「それが動機ですか?」

あなたは可笑しくないとは思うけど、ネガティブじゃない、だよね。

ポジティブともいえない。

何かに惹かれないの?

そこへ自分の力を集中すればいいじゃない?

1番むかつく自分は1番近くにいる。

多分私とそっくりな自分がいたら

私のことを大嫌いになれたと思う。

でも、自分をもう少し良くしようと思うかもね。

もう一人の私を想定することによっても、

自己改善はできるんじゃないかな。

でも私は私だから私のことを私なりに嫌いじゃない。

甘えてはいけないけど、少しはそういうところも必要かな。

嫌いじゃないから、先に進めるって要素もあるもんね。

たまに、自分という存在を俯瞰してみたくなる。

上から見て1日の自分の軌跡はどうかな。

たまに軌跡を描く。

ばかげているけど。

糸を引くような。

軌道というか。

それは肉体の位置だけではなく。

思考でも。

1年を考えてみれば、それは単調な往復の繰り返し。

ただわずかな微分に夢をたくし、

極小と極大の折り返しをもって

罪を測りながら絶対値を取って積分する。

マイナスはプラスに変化し、

イコールは雑念を消去する。

いろいろなものを失う。

もちろん全てを拾えるわけじゃない。

でも、もう少し拾う余裕はなかったかな。

小さな心残りが、小さな引っかき傷が

あとで痛むときもあるよね。

「悔しい、憎い、チャラにしたい」

そんな子供じみた欲望を、

そんな笑いに満ちた躊躇を。

馬鹿げたことだとわかっていても

そんなものに捉われる時がある。

なぜ、そこまでして、繕うの。

それはどうしようもないこと?

または努力でなんとかできること?

どっちか割り切ってしまおう。

同じ人と長い間付き合いたくない。

それはぼろが出るから。

そこまで演技ができないから。

そんなによく見られたい?

それよりも、それよりも大事なものがあるんじゃない?

真心というか、生きる姿勢というか真摯さというか。

でも、相手はいつもこう言うの。

「君のことはお見通しだよ」

「うそ!」

「うそじゃない!」

「うそうそうそうそ」

なんとなく、わかってしまうこと。

隠そうと言う想いがサインになるのかな。

「お見通し」って笑っちゃう。

わかったつもり?

一部分のこだわり、心の捕われに気がつくのかな。

無理やり、これは等身大の自分だよって見なして背伸びを忘れる。

そんなことばっかり。

等身大を知るのは難しい。

しゃがんだりジャンプしたりするよね。

そうして、少しずつしって、

成長したりまた悪くなったり。

綺麗なのっぺりとした仮面をかぶり

ささくれ立った指は手袋で隠す。

仮面も私、って言えば肯定的だけどね。

仮面を被って鏡を見れる?

私の本当の顔は?

本当の手を見てみよう。

「嫌だ嫌だ、ひっくり返してしまいたい」

「もういいよ」

「だからもういいんだってば」

仮面をはがしてみる。手袋を脱いでみる。

そうすれば、たいしたものじゃないけど、

「まあ、そんなもんだよ」って安心できるかもね。

そう、無理やりに言葉を操らなくても。

言葉を無理に操らなくてももういいんだ。

たぶん、大事な人が死んでも私はこんな感じで

言葉という実質ではない世界に閉じこもって

でも、相手のことを想わないわけではないのだよね。

それが追悼なのかな?

追悼のあり方はいろいろあると思う。

泣くのも追悼だと思うし。

笑うのも追悼だ。

心が相手を想っていれば。

哀しみを遮断し、次への符を打つことを考える。

次のことを考える。考えようとする。

考えようと、考えようと懸命になる。

身代わりは所詮身代わりでしかない、

不足を補うのは無理でございます。

言葉は身代わり?なんの身代わり?

言葉は道具。伝えるための道具。

なければ未来の自分にどうやって、

意志を伝える?

~にすぎなくしているのは自分自身じゃないの?

それを価値あるものにする努力を捨てているのは誰?

では、そのためには?

実質を増やす。

満ち足りてみる。

言葉と現実の関係を見つめる。

小さな当たり前の営みから。

でもね、結局私は

言葉を操るのが好きなんだろうね。

そんな結論はだめ。

言葉は自分を変えることが必ずできる。

あなたが言葉を操るものであるならば

それを信じようよ。それに賭けようよ。

もう心の叫びは収拾した?

どうなのかな?

まだ?もう少し?

落ち着きつつはあるのかもね。

いくら言葉を費やしたってだめだと思うけどな。

だめなんだから。

理由になっていないじゃない。

そうだよ。だめなもの諦めるのが大事だよ。勝てなくても。

駄目なものはね。でも、駄目じゃないものは諦めてはいけない。

駄目駄目!受け入れることなんてできない。

簡単には諦められない、ってそうだよね。

そんなに弱くはないよね。

否定したい、否定した。

でも、諦めを簡単に否定できるものでもない。

それは事実です、嘘です。

諦めを否定しようとする心はあるよ。

さようなら今日の自分。

こんにちは今日の自分。

そしてまた会うことはないけれど、

昨日の自分はどこかにいるのでそれなりに大事に

思って生活しようと思う。

過去が連なって私を形成する。

だから、だから、より良いものを手に入れれば、

より良いものを手に入れようとすれば、

・・・。

限界に、

気がつかない振りをして

予測不能だと言って

希望と言い換えているだけかもしれないけど。

これも、それなりのものじゃない?

卑下するほどでもないのではないかな。