015 どきどきしたりわくわくしたり

(2008-01-27頃作成、2011-07-12頃修正)

どきどきしたり、

わくわくしたりすることは、

今の私にもあって、

辛くても、

そういうのを思い出せば、

「なんとかなるよ」って思ったりして、

自分を支えてみたりするのは、

「別に普通のことじゃないか」って

考えたりもする。

砂粒みたいな日常、

ふわふわとして、

ゆらゆらとして、

のたのたとした毎日は、

アスファルトが暖める空気の揺らぎを感じるように、

いつでも私の近くにあるもの。

「目的は何?」って、

私はいつも自身に問うし、

それはいつも明らかなはずなのに、

それが、

時には自分を駆動してくれないことがあって、

「それは何でなのかな?」

「体調が悪いから?」って思ったりもする。

「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」とは言うが、

そのバランスはどうすればいいのか?と思うときは多いけど、

「自分なりに試行錯誤して工夫してやるしかないじゃないか」って思うのだけど、

近道を探してばかりいて、進むことを躊躇しているような、

そんな自身を、私は懸命に叱咤しようとしているし、

躊躇している他人をみて、「とにかくやってみないと始まらないんだよ」って

自分自身も一緒に励ますつもりで言葉を吐いたりすることだってあるのだけど、

そういう機微をわかってもらえるかどうかは相手によるし、

そういうのをわかって欲しいとか伝えたいという、狂おしいほどの想いも今はもうない。

残り火みたいなものが、

存在しないわけではないけど、

ある程度の力を込めなければ貫けないようなことに、

私の過去は関与することに決めたし、

緩やかながらそれを支える枠組みを、

私は自分の内部と外部に構築しつつあるわけで、

外部と内部とが比較的対応していることが、

私を安心させてくれることを否定は出来ないと思うのだけど、

そういうことに安心を見出すなんて、

小さいころの私は今の私をつまらない人間だと思うと思う。

悲しくて、

悔しくて、

切なくて、

やりきれなくて、

辛くて、

虚しくて、

苦しくて、と、

いくつも自身の感情を

切り分けて

裂いて

砕いて

粉々にしている自分に気がつくこともあるし、

こんな馬鹿げたことでも、

会って相談する人がいることを

私は嬉しく思うし、

「人生捨てたもんじゃないよね」って思ったりするけど、

「あなたは答えを持っているのに何故私に相談するのか?」と冷たく言い放たれれば、

「わかっているくせに」とも思うけど、

そうやって、突き放されるのは嫌いではない。

論理だけではだめで、

現実の世界と対応させる、

つまり重みを付けなければいけないから、

ってことが通じることは、

相手をダシに使っていうことも通じてしまうことであって、

それは相手に迷惑をかけることにもなりうるし、

相手のためにもなることもあるだろうし、

っていろいろ重みを付けたりするし、

感受率って言葉を気軽にメタファーとして使えるだけで、

「私が文句を言うことは何にもありません」って

私の控えめな部分は主張するだろうと期待される。

質問の仕方は相手によって変えなければいけない、っていつも思うけど、

大事なのは興味を持ってもらえるように

前提を示さなければいけないということかな、とも思う。

「自分の言葉で話してよ」って言葉は、

相手へのプレッシャーになることは

言うほうも言われるほうも理解しているはずだし、

細かいことを気にするのもなんだけど、

「そういうお前は自分の言葉で話しているのか?」とも思うし、

本当に自分の言葉で話したら、

ほとんど誰にも理解されないだろうし、ってことを考たりすることもありますが、

「言いたいことをもう少し砕いて言う、受け売りはやめて欲しい、自分で考えてから話して欲しい」

とかになるのかな?

と思わなくはないけど、

流行の言葉はちゃんと自分の言葉で、

というより自分の論理で

自分の重み付けで考え直してやらなければいけないのにね。

惰眠をむさぼり続け、

長生きはしても、

他の人間より多くを経験することなく、

優れた洞察を得ることもなく、

睡眠以外の快感を知ることもなく、

ただ漫然と生命を浪費し続ける私は、

結局多くのものを馬鹿にしたり

傷つけたりしていると言えなくもない。

私自身のいい加減さは、

私が「価値がある」と言う対象や、

私を支えてくれる人に対する冒涜や嫌がらせにつながらないか?と問われれば、

悲しくてしょうがなくて、

悔しくてしょうがないけど、

「そうです」としか答えられない自分を情けないと思いつつ、

でも結局、

そういう仮定の問答を行っても、

それは私を駆動する力にはなり得ないということは

私は何度も気がついてきたことではある。