042 女神のささやかな願い / Merciful Goddesses of Retaliation

(2009-04-06 頃作成、2013-08-08頃修正)

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神々の時代は既に終わり、今は人の時代。多くの神は滅ぼされるか封じられるか飼いならされ、世界に大きな災厄を撒くことはもうない。高度に発達した法・規範・慣習・道徳・倫理などのソフトウェア上の枠組みと、それを支えるハードウェア上の枠組みは、多くの神の機能を減衰あるいは無化することに成功した。神々にとっては黄昏の時代。でも、神々の名残は完全に消えたわけではない。それは、人の生物としての原初の衝動-例えば「何か食べたい」とか「死にたくない」とか-が消えないのと同様な理由による。

巨大な大陸から海を隔てて、東方に小さな列島がある。弓形を形成する列島からなる国。気候的には中緯度の温帯に属する。その国の首都圏には世界の人口の2%が集中する。その国の首都に、信じられないくらい広い緑地がある。人口密度が高いその地域としては異例の広さである。そこに、ある神を祀る社がある。一柱の神がこの神社には封じられている。この神は「復讐を司る」とされている。以前は多くの災厄を撒き散らしたこの神も、現在は小さな影響力しか持たない。

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ある晴れた秋の日の午後、一人の娘がその神社を訪れた。彼女はタカナと呼ばれている。タカナの年齢18歳前後。身長156cm。彼女の服装は奇妙で、桜色・桃色・朱色・紅色・白色等の配色によって、円・三角・星形などの幾何学的模様が複雑に描かれている。足下は小さな黒いサンダル。足首には紅色の帯が巻いてある。

異様に大きな黒い鳥居。その前で、タカナは掃除をしている女性と出会った。彼女は、タマキと呼ばれている。この神社の神職の1人である。外見から、年齢は30代半ばと推測される。簡素な黒い服装。平均身長に比べ10cmは高い。長い黒髪を銀色の髪留めでアップにしてまとめている。化粧はほとんどしていないように見える。ナチュラルメイクかもしれない。その緩慢な立ち振る舞いや優しげな口調から、のんびりしていてゆったりしている感じの人であると感じられる。タマキが「今は暇な時間帯なので案内しても良いですよ」というので、タカナは案内してもらうことにした。

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タカナはタマキの横に並んで、本殿へと歩いていく。道は黒い石畳で敷き詰められていて、その上をゆっくりと二人は歩いた。タカナにとっては通常の歩速の3分の1程度だと思われる。タカナは自分がいつも早足で歩いていると言うことを認識した。たまにゆっくり歩くのも悪くないかもしれないとタカナは思った。

タマキが言うには、普段は少なくない数の人が参拝に訪れているらしい。しかし、タカナが鳥居をくぐった後、敷地内でタマキ以外に誰も人を見かけることはなかった。周辺はとても静かだった。清浄な空気。しっとりとした、程よい湿度と程よい気温。タカナの呼吸は自然に深くなる。タカナは人がほとんどいない神社や寺の空気というか雰囲気が嫌いではない。タカナの心は落ち着き、安らいだ気持ちになった。

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本殿の方に向かって歩きながら、タカナはタマキに問いかける。

「不況になると復讐したい人が増えて、参拝客が増えたりとかそういうことはありますか?」

「どうでしょうねえ。あんまり変わらないと思いますよ。景気がよい時も悪いときも、復讐欲は至る所で発生するものです」

とタマキは答える。

「あまり相関はないという印象ですか?」

「相関? 相関ですか。少なくとも強い相関はないと私は思いますよ」

タカナは何かタマキの言葉に少し引っかかったらしく、こんな質問をした。

「数学は好きですか?」

「数学? 数学ですか」

タマキはそんな質問を受けるとは思わなかったようで、クスクスと笑った。

「嫌いではありません。私は大学の教養レベルの数学しか理解できていませんから、苦手意識はありますね。線型代数の基礎や解析学の基礎を少々囓った程度です。基礎というより、入門というべきでしょうか。ともかく、数学が出来る人はその点において尊敬が出来ます」

タマキはタカナ問い返した?

「何故そんな質問をしようと思ったのですか?」

「言葉の使い方が知り合いの数学好きな人と似ているかな?と思ったのです」

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しばらく歩いていると、社務所らしい建物が見える。ここから、本殿まではあと20分ほどあるらしい。

社務所の方を見て、タカナは質問をする。

「この神社ってお神籤とかお守りとか取り扱っているんですか?」

「扱っていないわけではなりません。表だって扱っていないだけです。欲しいとどうしても頼む人たち向けに取り扱ってはいます。」

タマキは立ち止まりその建物を見つめた。そして、タカナの方を見て、タマキは話を続けた。

「普通は、大吉・中吉・小吉・吉・末吉・凶・小凶・大凶とかありますよね。でも、うちの社で扱うお神籤には、吉とかは入ってません。凶とか大凶とかしか入っていないのです。『待ち人』『探し物』『健康』『生活』『金運』とかの個別の運勢に関しても少々書いてありますが『自分の努力でなんとかしろ』という趣旨のことばかり書いてあります。そもそもお神籤の内容で一喜一憂し、意志を曲げるような人はここに来るべきではないのです」

「さて、進みましょうか」とタマキは言って歩き始め、また話を続けた。

「絵馬もありますね。参拝者の願いと誓いを端的に書いていただいています。それを我々は一定期間預かっておきます。意志を形にしておくのは願いを達成するさいに効果的なこともありますからね。その程度の意味合いで、それ以上の効果はないと考えてください。お守りとかもありますけど、中身の一部は自分で書いてもらいます。『神に誓って、私は目的遂行のために努力します』とかそういうふうに書いてもらいます。お札もそうですね。自助努力をせずに神に頼る人はそもそもここに来るべきではないのです。天命を待つのは人事を尽くしてからでも十分に間に合うのです」

これらの意見がこの神社としての見解であるのか、タマキの個人的な思想または哲学であるのかは、タカナにとってはっきりしなかった。タカナにとって、全面的に肯定できるわけではなかったけれど、考え方としておもしろいと思うことも多かった。こういう人が神社で働いている、あるいは神に仕えているというのは普通ではないのではないかな、と彼女は思った。

タカナはタマキの話を心地よく聞きつつ、「ええ」とか「はい」とか「うん」とか「その通りですね」とか「そんな考え方もあるのですね」とか嬉しそうに相鎚を打ったり、「こういう考えはできないでしょうか?」とか楽しそうに疑問を挟んだりしていた。

神社にはいろいろな人が訪問してくる。その人達をタマキは見て、いろいろ考えざるを得ないのだと思う。信仰に関していろいろ思い巡らし悩んだり考えたりすることが多いのだろう。このような話を不特定多数の人に、それも初対面の人に話すとは考えづらい。タマキにとって、初対面ながら、タカナに何か通じるものがあったのだと推察される。

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タマキはさらに話を続ける。

「物と信仰とは大きな繋がりがあります。偶像崇拝は今でも世の中に多く満ちています。私としては、信仰心の維持のために物に頼り過ぎだと思うこともあります。しかし目的遂行のさいに物が心を支えたり鼓舞したり駆り立てることもあります。五感から受ける刺激が、無視できないと言うことですね。心の触媒という表現を用いてもよいかもしれません。だから、目的を忘れない限り、そのような物に依存することも必要かもしれません。大事なのは心を忘れないことです。これは、多くの宗教指導者がいつも心を悩ましてきたことと言えるでしょう。多くの人は、その偶像が象徴する”概念”や”理念”ではなく、”物質”としての偶像そのものに囚われてしまうのです。『実在する物質』と『それに宿る精神』との関係というべきでしょうか。あるいは、『外見と中身』の問題。形而上と形而下の問題と言ってもわかりにくくなるだけかもしれませんね」

タマキは、ふう、と溜息をつき、

「かなり脱線してしまいましたね。神社について説明するはずが、難しい話になってしまいました」

と照れ笑いのような顔を見せた。

タマキは「ああ、そういえば」と言い、何かを思い出し、話し始めた。

「余談ではありますけど。このお社の周りに便乗的に商売を行うお店も出来たことがありますね。アクセサリとかマスコットなものとかですね。変わった物をあげると、人豚人形と言って、人の手足を切り離した人形とかですかね。大陸の故事が起源だと思いますけど、なかなか残酷ですね。あんまり良い趣味とは言えません。あと、『死人にあてる鞭』とか、『眠るときに使う薪』とか、『嘗めるための苦い胆』とか、よくわからないものもたくさん売っていましたね。『日が沈んだ後、家路が遠いことを表したイラスト』とかもあって、何かに夢中になっていると、人生なんかあっという間であることを思い起こさせられる気がします。毒薬とか、ナイフとか拷問道具とかは売ってはいなかったと思います。法律違反をするようなものは当然置いていなかったと思います。あのような店とうちの社は関係ないのです。別に、こちらの迷惑になるわけでもないので、どうで良い存在です。ただ、そのようなお店はあんまり儲からないみたいなので、すぐに潰れてしまうようです」

と言った後、タマキはまたクスクスと笑った。タカナはなんとなく、思い出し笑いをしているような印象を受けた。

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 タカナは、また別の質問をした。

「人がここに参拝に来るということは神の加護を求めているということなのでしょうか?」

「神は人に力を直接貸すことはありません」

と、タマキはきっぱりと言い、

「参拝に来た方々にはちゃんとお伝えしていますよ」と続けた。

そして、掲示板のほうを指さした。そこには、

「叶えたい願いがあるなら、自分で努力しろ」

と大きく太い字で書いてあった。なかなかの達筆である。タカナは思わず声に出して笑ってしまった。

「あれは、タマキさんが書いたんですか?」と、尋ねた。

「いいえ、違いますよ。書道家の人にお願いしたのです。なかなか力強い筆致で私のお気に入りなのです」

タカナは、その文面を口に出して言ってみた。そして考える。「何故この神社で祀られている神が信仰を集めているのか」がタカナは気になった。タカナはタマキに続けて尋ねた。

「では、その加護って具体的にはどんなものなのですか?」

タマキは、ちょっと困った顔をして、「私も具体的にはよくわからないのです」と言い、

「強いて言うならば精神的な支えを与えると言えるでしょうか。私の感覚だと、『決意の承認』のようなものではないかと思います」と続けた。

「タカナさんが、どれくらいここの仕組みをご存じであるか知りませんけど」と言い、

「私の口から、簡単に説明いたしますね」と、にっこり笑った。

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タマキは一度深呼吸をして、話し始めた。

「この社(やしろ)の仕組みがいつ頃定まったかは定かではないのですけど。先ほども述べたように、一般的に神は願いを叶えるわけではないのです。参拝者の『何か成し遂げたい』という決意や誓いを承認するだけです。時には、参拝者にお話をしてもらい、それを録音します。話をするのが苦手な人は、文章で書くのでもかまいません。理路整然と自分の復讐が正しいことを説明する人もいますし、どういう方法で復讐をするのかを詳細に語る人もいますね。図や文章を適切に使って、まるで論文や取扱説明書のようなものもあったりして神職である我らや我らが祀る神すらも驚くことがありますね」

「この努力がもっと前向きなこと、創造的なこと、人を楽しませることや嬉しがらせることに向かえば良いのに、と感じることもありますね。言うべきではないとはわかっていますが。人には、それぞれ大事なものはあります。時間をかけて、精一杯考えた上での結論がそうであるならば、部外者に近い神職のもの達が関与できることなど限られているのです」

そして、こほん、とタマキは、わざとらしく咳をした。

「少し話がそれてしましましたが、大事なのはその気持ちを具体化することだと考えています。たまに、実際行いたいことは復讐じゃなかったということに気がついて、特に誓約をせずに帰る方もいますね。それはそれで、その人にとっても、復讐されそうになった側にとっても良かったことかもしれませんね」

また、タマキはクスクスと笑い、

「思い違いや考え違いをしている人たちに構ってあげるのは面倒ではありますが、さらに踏み込ませるよりはお互いに良いでしょうしね」と言った。「そうそう」と言ってタマキは言葉を続ける。

「神社が、慈善団体や奉仕団体だと思っている人たちがたまにいて困ったものです。どこでそんな勘違いを植え付けられたのか、どういう経緯でそういう発想がでてくるのかわかりませんけど、誤解を信じて我々に干渉されても迷惑なだけです。そういう人たちは、自発的に、不特定他者への慈善行為や奉仕行動を行ったことがないのではないかと思います」

「どうも話がそれていけませんね。本題に戻しましょうか。さて、痛みを伴わない決意というのは、軽いものになりがちです。というわけで、代償を払っていただくことになります。願いを叶えるための決意を具体的な形で示してもらうことになります。というより、具体的な形にすることで、本人がより集中して問題解決に当たることができる、という場合もありますね。願いと誓いを明文化し、その重みを具体化するというのが神と私のような神職の機能とも言えるでしょう。これは、どこの社でも本質的に同じだと思いますけど。私が仕える神は復讐や報復を司りますので、参拝してくださる方の誓いの内容は復讐の達成ということになります」

タマキはスラスラと答えた。何回も、答えてきた模範解答というように。

タマキはさらには楽しそうに話を続ける。

「お金などの代償であれば、願いが叶ったときに、つまり、復讐が成った暁には、返還されることになります。神の価値観は人とは異なります。この神社で祀られている神がお金を欲することはありません。神社は営利団体ではありません。でも、誓いを達成された方の多くはこの社に寄付されることが多いですね。寄付されたお金は、この広い神社を維持するために使われることもあります。原始の時代ならともかく、今の時代には、神と人とを結びつける空間を維持するためにある程度のお金は必要になるのです。この社は地域の方々を含め多くの人に支えられてなり立っています」

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タカナとタマキは本殿にようやく着いた。本殿は木造がメインで、コンクリートや大理石も使われている。奥行き横幅高さが30メートル、40メートル10メートルくらい。賽銭箱や鐘はない。タマキは立ち止まり、本殿の扉の前で深呼吸をした。そして、神妙な顔つきで私を見た。

「当然ながら、復讐を諦めることを神は喜ばれません。また、安易に軽い気持ちで、復讐を行おうと思うものも好まれません。復讐とは人の儚い生をかけるに値するものだと考えているようです。とは言っても、復讐を諦めたものに罰を与えるようなことはしません。二度と加護は得られないことになりますが。払った代償もこのような場合には返却されません」

「さて」と言い、タマキは少しの間、口を閉ざした。タカナは何か大事な質問が来ることを予感する。

「タカナさんは何故、この神社を訪ねられたのですか?」と、タマキは問うた。

タカナはこの話の流れから、その質問を予期していた。だから、狼狽えることもなく応じた。

「まず、誤解しているかもしれないので、誤解を解いておきたいのですけど、私には具体的に復讐したい相手があるわけではありません」

「そうですか。なんとなく、そのような気はしていましたが。復讐を願う人たちには、ある種の雰囲気があります。あなたからはそれを感じませんでしたし。では、それこそ、何故こちらを訪ねていらしたのですか?」

「・・・私は私の信仰の対象と成り得る神を探しています」

タマキは目を見開いた。珍しいものでもみるように。

「神? 神ですか。それは、珍しい。でも、それをここに求めに来たのですか? 一般的なことですが、目的を承認するのが、この地の機能であり、目的を探すものにとっては、ここに有益なものはないと思われますが?」

沈黙。数分ほどの。

タカナが口を開いた。

「では、案内はここまでで終わりでしょうか」

タマキはじっと、タカナの目を見た。

「いえいえ、そんなことはありません。いずれ、あなたが復讐を望まれることもあるかもしれません。後続となるものために、後に役に立つかもしれない標を示すことは悪くはないでしょう。神の機能を多くの方に知っていただくのも、神職の務めの一つと言えるでしょうし」

と言いながら、本殿の扉を開けタマキは中に入る。

「ついて来てください」とタマキは後ろを振り向いてタカナに中に入るように促した。中は明るいとは言えないが、それほど暗いとも言えない。

「あなたは、神に触れたくてここに来たのですね。どこでそのような情報を手に入れたのかは問いませんが、よくもここを探し当てたものです」

タマキは静かに言った。

「本神社の地下にある神が封じられた区画へご招待しましょう」とタマキはタカナに部屋の隅にある階段を下りるように促した。階段を下ると、さらに、エレベータが設置されている。彼女がスイッチを押すと、扉が開いた。タマキとタカナはその狭い箱に乗り込んだ。

タカナには、逡巡や躊躇の気持ちはこのときほとんどなかった。通常の人であれば、少々の恐れを感じると思われる。おそらく、タカナは同種の経験をしたことがあるのだろう。

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下降するエレベータの中で、タマキはタカナに語りかける、というより独り言のように言葉を発した。

「誰にも必要とされない神など存在するに値しません。人々が神を真の意味で必要としなくなったときに、この神社にある神性は消滅するでしょう。それで良いのだと思います。価値がないもの、意味がないものを長い間無理して維持しようとするのは、組織や社会のシステムに歪みをもたらします。一時滅びても、それが必要であれば、人はきっとそれを作ることが出来ます。そして、例え、人に必要とされなければ滅びるのだとしても、神は決して人に媚びません。ただ、『祀られれば、それを受ける』。そういう存在です」

タマキは、流暢に言葉を続ける。

「『祀られれば受ける』とは言うものの、神は強い願いや一途な想いを特に喜ばれます。信仰者達が冷静に節度を持って自らの望みを達成することを神は望まれます。復讐という属性からは少々想定しづらいかもしれませんね。神は、参拝者や信仰を持つ人達に対しては、情熱を持って粘り強く焦らず怠らず慌てず丁寧に確実に目標達成して欲しいと思っているようです。とは言うものの・・・」

タマキは自身の両の手のひらをじっと見つめて言った。

「人が、何かを憎み続けることはなかなか難しいのです。また、それをできたとしても、きちんと復讐につなげるのは難しい。短気な方は、相手を殺してしまったりもします。それは、新たな復讐を生むわけでわって、復讐神としては、悪いことばかりではないのですが、殺してしまうなどの短絡的な復讐を神はあまり望まれません。被害と同程度の復讐を望まれます。神は、混沌を望まれるのではなく、秩序を望まれます。傾いた天秤を元に戻したいというのが望みです。その面で、裁判や公正の神としての側面があると、研究者の方々は言われますね。その属性ゆえに、報恩の神や贖罪の神とは相性が良いとされています。これらの神の存在は、『辻褄があっているべきだ』という人の望みを反映したものなのではないかと思います。神は、人が生み出した象徴(シンボル)なのですから」

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エレベータは止まり、二人とも降りた。

広くない部屋に出る。小さな照明が床にあるだけで、部屋は暗い。タカナの目の前には扉が一つ。タマキは、タカナに先に進むように促す。タカナは覚悟を決めたような表情をして歩みを進める。

 扉を開けるとそこにはさらに暗い空間が広がっている。直径100メートル程度の半球。タカナはプラネタリウムを想起した。タカナはその暗さのため大きさをうまく把握できなかった。地上とは全く異なる静けさを持った空間。気温は低めでひんやりとする。タカナは肌がピリピリとするような緊張感を覚えた。床や壁の材質が硬質であるためか、音はよく響く。黒い光沢を持つ地面には、蛍光色で仄かに明滅する奇妙な文字や文様で占められている。照明と呼べるものは床の光のみだが、歩くのには不自由はない。

この空間の床は円をなしている。その真ん中に小さな人影があることをタカナは気がついた。タカナが歩いて近づくと、それは12~14才くらいの娘であることがわかる。というよりも、娘の外見の女神なのだと思われる。この地に封じられた女神。この世界の復讐を司るとされる女神。

白い肌、薄墨色の瞳、肩胛骨の高さまで届く薄墨色のストレートな髪。薄墨色の和装に身を包んでいる。黒い小さな曲玉を複数つないだ首飾りをしている。耳には涙滴型の薄暮色の小さなイヤリングをつけている。さらに、黒い光沢のある細めのブレスレットとアンクレットをつけている。全てのアクセサリは、細かい文様が刻まれている。彼女は可愛らしいというよりも美しく、美しいというより神々しかった。別に光っているわけではないが、彼女が周りに醸成する雰囲気は、人に大きな緊張感を強いる。復讐と報復の女神から想像される禍々しさはないものの、一般の人間とは一線を画する何かを感じさせる。彼女の一挙一動が周りに緊張をもたらす。

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彼女は気さくに話しかけてきた。声は柔らかで涼やか、口調は滑らかで軽やか、表情は優しげで楽しげ、立ち振る舞いはゆったりのんびりしている。表面上は何も恐れる要素はないはずなのに、タカナは本能的に強く戦慄した。刃物を胸元に突き立てられるような恐怖。瞳の1cm前にアイスピックの尖端があるような焦燥。高い崖の上から突き落とされそうな危機感。生死の境目にいるような緊迫感。何か対応しないといけないと、心を駆り立てられる。見ているだけで圧倒される。何かをしないといけないと、煽動される気分を味わう。呼吸すらおぼつかない、というほどではないが胸のあたりに圧迫感を感じていた。呼吸が浅くなっているのを意識したタカナはとりあえず、静かに深呼吸を繰り返した。一度、目を閉じ、こめかみに意識を集中する。蹴落とされてはいけない、ってタカナは思う。少し落ち着いたところで、目を開き、対象を観察する目で彼女を見た。

タカナが落ち着いて周囲を観測してみると女神の足下には白いウサギのぬいぐるみや狐のお面、小さな模型の飛行機、その他小さなおもちゃや人形がいくつも散らばって落ちていた。見る人がみれば、ガラクタといっても過言ではないもの。それらを見て、タカナは少し緊張が解けた。

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「ようこそ。こんな辺鄙なところへ。でも何の用なのかな? 君は復讐がしたいわけではないようね? 復讐欲というか強い意志が感じられないな。まあ、いいか。お話をしようか。タマキが連れてきた、数年ぶりのお客様だものね。あたしのことは、そうね、スズナとでも呼べば良いでしょう。あたしは復讐以外にはあまり興味がないのだけど、復讐の話しかしないわけでもないし、社交的な普通の会話だって出来ないわけではないの。何か君に言いたいことがあれば、お話くらいは聞いてもいいよ。とは言うものの、あたしは復讐の話が好きなのだけど。何よりも、何よりも、復讐が全うされることが嬉しいな」

本当に、心から、嬉しそうに言った。陶酔するような表情をスズナは見せた。

スズナは止めどなく語り続ける。

「いつの時代になっても、透徹した意思の下に復讐を行う人はいるようで、あたしは嬉しく思う。その意志のもとにひたすら歩き続けるの。そういう人の心の純粋な思いに触れることはあたしとして大きな喜びだよ。『祀られたら、それを受ける』。それが私の役目であり、私の機能であり、私の性質。何かに一途に生を捧げるというのは、大きな覚悟を必要とするよね。君も-タカナちゃんだっけ?-タカナちゃんもそう思わない? 復讐に大きな力を注ぐというのは、私が愛されているのと同意・同義だと思うの。だって、あたしは復讐や報復という神性を司る存在なのだからね。復讐は自分の手で直に行ってもいいし、他人の手を使っても良いと思うよ。目的の達成の方法はいろいろあるから、きちんと方法を考えるのが大事なのね。ただ体を動かせばいいわけじゃない、ただ頭を動かせばいいわけじゃない。きちんと考えて、一生懸命、精一杯、力の限り行動しなくては駄目だよ」

「そうだね。多くの人が願う復讐というものについて、あたしもいろいろ考えたよ。復讐では、相手を苦しませることが必要になる。もっとも単純なのは、肉体的な苦しみかな。疲弊させたり、傷つけたり、再起不能な欠損を与えたり。殺してしまうと、これ以上苦しみを与えることができないから、できれば、あたしは人を殺して欲しくないのだけど。そこら辺は信仰をもつ者達に、なかなか理解してもらえないのね。死ぬかもしれない、という不安は苦しみだから有効に利用するべきかな。精神的な苦しみを与えるというのも、なかなか手が込んでいるね。例えば、相手の親や子供に手をかけて殺させるなどが強烈と言えば強烈だけど、やっぱり殺すと終わってしまうので、殺さないで欲しいとも思う。相手の肉体の健康状態を考えたり、不安と希望、快苦を制御することが復讐には大事だと思える。経済的な面での復讐や、名誉や誇りを奪うという種類のものもある。まあね、とにかく復讐というものを短絡的に考えないで欲しいのね」

「当然ながら、相手のことをできるだけ知ることが大事になるよね。相手の能力、そして相手の価値観、相手が置かれている環境、そういうのを把握することは復讐の実行の上で大きな助けになるの。知るためにもっとも効果的な手段は、友達になってしまうことかな。まあ、情が移って、復讐が行えないようであるならば、そもそも復讐しようって最初の考えが間違いだったと言えるかな」

「そして、自分自身のことを知らなければいけない。少なくとも一度は負けた相手と対しなければいけないのだから。自分の命を使ってでも一矢報いたいって思うかもしれないよね。それはそれでいいのだけど、自分の命を最大限に使って報いるべきだと思うのね。それに、自分のモラルとかが歯止めになることもある。復讐以上に大事なものがある場合にはそれが歯止めになることもある。自分の能力や価値観をちゃんと考えて行動に及ばないと足元をすくわれることもあるからね」

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「うーん、やっぱり、タカナちゃんは現時点では復讐したい相手とかいないみたいだね。そういうのは、あたしはわかるんだ。なんてったって、復讐を承認する存在だからね」

「あたしは万(よろず)相談所でも便利屋でも精神科医でないのだけど、誤解をしている人もいるみたい。まあ、そんな人の話を聞くつもりもないけど。目的を承認するのが、あたしの役目だけど、必要以上に話すことないし。『あなたの願いと誓いを聞きました。目的に向かって努力しなさい。あなたのことを見続けて上げます』という程度しか言わないの」

「ここに来て、願い祈り誓う人たちは多かれ少なかれ、負けてしまった人達なのだよね。少なくとも、負けたと思った人達なの。そして、ここに来たという時点で、また戦おうと思ったということ。あたしは、その意志を慈しみ尊重したいのね。例え、くだらない復讐心であったとしてもね。後ろ向きであるとは言え、それは『生きよう』と言うことだと思うから。証を残そうという意志だと思うから」

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「『人は生きなければいかないか?』ってくだらない哲学問答をするまでもなく、『生きなければいけない』ってその通りだよ、タカナちゃん。でも出来れば気持ちよく生きたいよね。できれば楽しく生きたいよね。すなわちプロセスが大事だと言うこと。大きな目標を考えて、それを得るためには、どのようなプロセスを経ればいいのか?つまり小さな複数の目標を作る。あんまり無理した計画を作っては駄目だよね。人には限界があるからね。でも、あたしとしてはもっと真剣に復讐に望んで欲しいのね。「軽い気持ちで考えないでよ」って、強く思うよ。いいかげんな気持ちで復讐とかしようって思うなって。人の生には、他にもいろいろ楽しいことがあるわけだよね。それを犠牲にしてまで、復讐を選ぶんだよ。もっとまじめに、もっとしつこく、もっと楽しく、もっと丁寧に、もっと集中してやってもいいじゃないか。特に、他人を巻き込むわけだよね。いいかげんな気持ちで復讐するなんて相手に対して失礼だと思わないの? えっと、これは冗談だよ、さすがに。復讐は一般的に他者を苦しめる。世界の中の不幸の総量が増えてしまうとも言えるね。だから、そのぶん、復讐者は世界の幸せが増えることを考慮して、復讐に臨んで欲しいな。復讐を望む人というのは、だいたい近視眼的になっているんだよね。残念で愚かしいことにね。他者への復讐報復が本当に自分の幸せになるかをよく考えて、そのために力を注がないといけないのに。復讐以外に、自分や自分に連なる人の幸せを得るためのもっと良い方法があるなら、復讐なんて選ぶべきではないと思う」

「復讐にはもちろん、今後の不幸が生じることを防ぐ抑止効果というものもあるのだよね。判断が難しいところだけど。搾取する側もあんまりひどいことをすると、それと同レベルのしっぺ返しをくらうというのはまあ賢い人は想定できるだろうね。ただ、この問題は難しいな。私も長い間考えてはいるけど、どうも不毛な気がするのだよね。まあ、復讐なんてだいたい不毛なんだけどね。あたしがいうのもなんだけどさ。でも、その不毛なことに命を捧げる人達の意志と私の存在は切っても切れない関係にあるわけなんだよね。ちょっと複雑な気持ちになることもあるんだよ。神性を担う私も含めて他の存在も、悩んだり考えたりするの。あたしはここから出ることができないから、眠るか考えるかくらいしかやることがないのね。参拝者のお話とかを聞いたり、本を読んだりすることもあるけどね」

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「タカナちゃん、私は思うんだけど、復讐に向かおうという人は得てして孤独な人が多いね。だから、自分を後押しして欲しいって気持ちが強いみたい。なんらかの根拠が欲しいのかな。自分が正しいって感覚が欲しいと思っている感じ。それが、あたしのような存在に縋る理由とも言えるかな」

「『復讐したい』って想いが途中でなくなるってこともあるとは思うのね。タカナちゃんにはわからないかもしれないけど、あたしにとっては残念なこと。でも、そういうのも仕方がないとは思う。一生懸命がんばっていれば、自分の価値観や能力が変化することもあるし、周りの環境がいつの間にか変化することもあるよね。それに応じて、目的が変化していくこともありうると思うのね。でも、それは、本人が一途にがんばった上でなら了承できるけど、ただ怠けて日和っていいかげんな気持ちで、最初の目的を変更するなんて我慢できないな。うーん、でもね。最近は、私も含めて、神性を担う者達は信仰者の不信心に対し、強くでることが出来ないのだよね。そういうのって、結局人のためにならないと思うんだけど、まぁ、仕方がないよね。まあ、意志の少ない人間につきあっているほどあたしも暇じゃないというか熱意がないというかやる気がないというかそんなところかな」

スズナのおしゃべりはこのあと三時間ほど続いた。

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タマキはタカナを外に送り届けた後、再びスズナのいる封印区画に戻ってきた。

スズナはタマキのちょっと困った顔を見て言った。

「タマキ、お帰りなさい」

「ただいま」

と残念そうにタマキは答えた。

スズナは「さっきの人が私の身代わり候補なわけね」と問う。

タマキは、いつも通りしっとりとした声で丁寧に答えた

「ええ、どうでしょう? なかなか可愛い女の子だと思いません? ストレートで艶やかな黒髪が綺麗でしょ。焦げ茶の瞳が澄んでいましたね。目元が涼しげでした。額が綺麗で印象的です。とても明晰そうですし。動きはしなやかで体に弾力がありそう敏捷性も高そうでしたね。腕や手や指も大変綺麗だった。それに、・・・」

「もういいから」

と言って、スズナはタマキの話を止めてクスクスと笑った。

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力を持った神は、神の力を封じる封印区画の中に隔離されている。長い時間を結界の中で過ごした神は、閉じ込められたばかりの頃にあった迸るような力を失っている。

神と言うよりも、正確には「神性を担うもの」という表現が良いかもしれない。この「神性」はある条件下で他者に譲り渡すことができる。また、「神性を担うもの」になるためにはいくつかの条件がある。「神性を担うもの」は不老であり(不死ではない)、封印区画から出ることができないなどの性質を持つ。

封印区画は、世界にある行き場を失った意思・意志・想念・情念・欲望を吸収し長い、時間をかけて無化・浄化するシステムの一部である。結界の中にいる神性を担う者の属性により、集められる想念は異なる。神性を担うものがいなければ、封印システムは作動しない。

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「ねえ、スズナ」とタマキは続けた。

「スズナの身代わりにちょうど良いと思います。でも、スズナは乗り気ではなかったみたいですね。そんなことでは、スズナはここからずっと出ることができないですよ。スズナが纏う神性を剥離し、他者に纏ってもらって、初めてスズナはここに仕掛けられている結界を抜け出ることができるのです。スズナは既に20年近くもここに幽閉同然になっているのですよ。もう既に十分役目は果たしたではないですか。以前、誰しも神性を纏う適性があるとは限らないって言ったでしょう?さっきの子なら、適性がありました」

「適性・・・。適性ねぇ」ってスズナは呟いた。

タマキは言う。

「既に何回か言いましたが、『神の依り代』、『神性を担うもの』としての適性を判断する上でいくつかの基準があります。まず『十分に若い』こと。そして『復讐の神性』を担うためには『他者を憎むような意志を持たない』ことが必要です。他者を強く憎むものは、復讐欲に振り回されて神性を担うものが破滅してしまいます。この神社に訪れる信仰者たちは基本的に復讐の心で満たされている故に、その役を担うことはできないから、タカナさんのような人が訪れるのはとても稀です」

「あたしの場合は、復讐欲みたいなのが解放された直後だったから、タマキと代わることができたのかな? たぶん、そういう解釈でいいよね。あの時ではなかったら、タマキの神性を譲り受けること、奪い取る掠め取ることはできなかっただろうね」

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ふふふ、という感じでスズナは笑って続けた。

「例の二人を殺してからもう20年か。どういう理由で殺したんだったかな」

スズナはジョークとも本気ともつかないことをさらり言いつつ、小さな溜息をついた。でも、別に悲しそうではない。

「今考えれば、あの二人には殺されるほどの罪があったとは思えないかな。でもだね、あの二人が継承し続けたこと・守り続けたものには、人を一人殺す程度の罪があったとは思う」

「人を一人殺したからと言って、その人が死刑に値するかと言うとそういうわけではないけどね。でも、人を殺すという覚悟を持つ人、決意を持つ人は、自分が殺される覚悟も持つべきだとあたしは思う。どう考えても、あいつらには、そんな覚悟はなかったね。このシステムの意味も意図も価値もわからず、考えもせずただ昔の人が守ってきたものを正しいと信じて、疑うこともせず守っている。同じ事を続ける限り、自分たちには罪がないと思っていたのかな? 惰性のままに生きていたような人達だったね。もっと高いレベルで考える事なんてたぶんできなかったのだと今では思うよ。組み直すってことを考えられないやつらだったよ」

スズナは頭上の闇を見て、言った。

「今の私は罪を償っていることになるのかな。二人とも死んでしまったのだから彼と彼女に対して償うことなんてできないか。あの二人の血を私は受け継いだわけだから、あの二人の生物としての役割を最低限は終えていたとも言うこともできるね」

「社会に対して償うことはできるかもね。でも償うというより、奉仕という言葉が近いかも。ある意味、今の立ち位置は奉仕と言えなくもないかな」

「20年…。20年以上たったのか。肉体的にほとんど加齢がないとは言え、長い時間が経ったのだね。他者と会う時間以外は意識状態がずっと夢を見ているようなものだから時間がたった感じがあんまりないのだよね」

<21>

スズナは目を瞑って、思いを巡らした。

「(あのとき、あたしは選んだのだ。両親を殺すことを。そして、タマキと入れ替わることを。そして、永久とも思える時間をこの暗い場所で過ごすかもしれないということを。でも、あたしは何も選んではいないのかもしれない。何故なら、あたしはあたしの性質に従っただけなのだから。あたし自身の性質に逆らわないことを選択したと言っても良いけど)」

「(やるべきことがある。だれかがそれをやらなければいけない。でも、誰もやろうとしない。だれも立候補しない。そういう中で、あたしは我慢ができなくなって、立候補してしまう。馬鹿みたいって思う。自分のことを。愚かしいって思う。他人のことを。何で、あたしは、あたしより弱い人達の中にいなければいけないのか。それは、あたしが選んだ環境なのだろうか。あたしの努力はまだ全然足りなかったのだろうか。あたしには、あたしの価値観を支える能力が全然足りないのだろうか。)」

「(ちょっとの努力で効率化できる。瑣末な工夫で合理化できる。僅かな配慮で最適化できる。でも、それは、構成員が微小の変化を許容しないとできない。年寄りは、なんでこうも頭が硬いのだろうか。何故あそこまで変化を厭うのだろうか。『変われないのは死んでいるのと同じ事』という基本的な事実すらも気がつかないくらい耄碌しているのだろうか・・・)」

<22>

目を開けたスズナはタマキに言った。

「たしかに、ここを出たいとは思うよ。もう飽きたしね。いろんな意味で飽きたよ。けど、別に人を、例えばタカナちゃんを、犠牲にしてまですることなのかという決断ができないのだよね。そして、少し未練が残る。そして、少し外は怖いな」

スズナは、地面に転がっている耳の長い白いウサギのぬいぐるみを拾って尋ねた。

「ねえ。タマキは300年以上、ここに幽閉されていたのでしょう? どういう気持ちだったの?」

「それは何度も話したじゃないですか」

と言いつつ、「そうですねえ」と、スズナは昔を思い出すように斜め上を見て言った。

<23>

タマキは以前に、スズナに語ったことを思い出していた。

これから話すことは、昔話というよりお伽話。実際の話と言うより抽象化した幻想。些末なことを削ぎ落とした、抽出物。

強い感情-例えば、憎しみとか悲しみとかの想い-が人から分離し、近くを浮遊することがあります。通常、想いや願いはそんなに長い時間が経たないうちに減衰します。そのような想念は、多少は人に影響を与えはするものの、基本的にはほとんど無視できます。人は見ず知らずの人の想念に長い間影響を受けたりはしないのです。親族や親しい間柄だと影響を長く受けますけどね。しかし、稀に、極稀に、そのような想念を無差別に集め取り込む体質の人がいます。彼らの肉体とそれらの感情との間にはとても強い親和性があるようです。それらの想念に対し、彼・彼女らが耐性を持たない、つまり取り込んだ感情に抗うことができない場合には、集まった想念に振り回されてしまいます。そのため、破滅的な人生を送る人もいますし、歴史に名を残すレベルの偉業を成し遂げる人もいます。それらの想念に耐性がある場合-別のわかりやすい言い方をすれば自制心があるとも言えますが-、その人自身が特に破滅的な行動を起こすことはないのですが、『周りの人の気持ちを掻き立てる』という大変やっかいな性質を持ちます。

今から350年以上前のこと。復讐の想念を選択的に取り込む人がいました。そして、彼は復讐するということに対して、強い耐性を持ち、彼自身がその想念に囚われることはありませんでした。しかし、周りの人をそわそわさせる、居心地の悪い気分にさせる、周りの人に何かしなければと駆り立てる、そういう性質を示しました。「何か」とは、もちろんこの場合は復讐とか仕返しなどのことです。

彼が権力中枢から外れている人だったら、それは局所的な問題だったと言えます。しかし、彼自身が権力の中枢を担うというわけではないものの、中枢の人たちに少なくない影響力を与える立場にいました。彼がその力-周りの人間を復讐に駆り立てる-を発揮し始めてから、傷害事件や殺人事件、それもひどく残虐なものが頻発しました。当初、原因が何であるか全くわかりませんでした。例え不十分でも復讐がなされれば、今度は復讐された側が、相手に復讐することがあります。通常は、そのような連鎖は長くは続きません。復讐心は、いつまでも残らないのです。静かな湖面に石を投げ入れたときに波紋が生じますが、その波紋が時とともに減衰するのと同様です。しかし、彼の存在により、通常は減衰する復讐の連鎖が維持または増幅されていきました。そして、危うく内乱状態へ突入しかけました。

その当時、私は、想念を帯びやすい人間を捜し出し封じるという組織に属していました。そこで神職の見習いみたいなことをしていました。危険な想念を帯びる人間を見つけ出し、時には監視し、時にはやっかいな想念を引きはがし、時には彼・彼女らを幽閉しました。これらの活動は表だって行うわけにはいきません。非合法と言ってもよい手段を使わざる得ない場合も多々ありました。

時間はかかったものの、我々は彼を見つけ出すことに成功しました。そして、対処する方法を考えました。通常であれば、殺してしまえば良いのですが、あれだけ強い想念-あるいは意志、むしろ神性とも呼べるものでしょう-は拡散し一時的に大きな災禍を招くと予想されました。彼の災禍を防ぐためにいろいろ思案が行われました。計画の妥当性はいろいろな側面から考慮されました。実行可能か? 倫理的な問題は? どこまで犠牲を払えるか? などです。最小の犠牲で、最大の成果を得るためにはどうすれば良いのかを皆で議論しました。結果として、彼を社会から隔離し、長い時をもってその神性を減衰させるという案が採用されました。

そのために特殊な封印システムが作られました。封印システムとは、人の器にその神性を纏わせ、巨大な構造物―封印区画―に人を閉じ込めるものです。小規模なものは過去にもいくつかあったのですが、これほど大規模なものは珍しいものでした。

我々は彼を拘束し、封印区画まで連れてくることに成功しました。しかし、束縛する過程で、彼の肉体を多く損傷してしまい、彼の命は尽きる寸前でした。彼が死ねば、封印システムは意味をなしません。彼が纏う神性が世界に拡散してしまったら、この計画は台無しです。それを避けることは難しいと思われました。私を含む10名に満たない計画の実行者達で緊急の協議が行われました。神性に親和する人間に、その神性を宿らせて身代わりにするという方法しか私は思い付きませんでした。それは、人道的な案とは言えないかもしれません。そもそも、かの肉体を閉じ込めるというのも人道的ではないですし、かの命を失うような状況になってしまったこと自体も我々の失態ではあったのです。彼の体質は、災禍を招いたものの、彼の心性は純粋とか無垢とも言えるものでした。人を傷つけたり苦しめたりとか悩ましたりとか蹂躙したりとか搾取したりとかからはほど遠く、人に優しく人を慈しみ人を憎むこともない人でした。

私がその役を担うことも提案し、その案は結局通りました。私が提案したというのも私が選ばれた一因ではありますが、私自身が彼ほどではないものの、想念を集める性質と強い耐性を持っていたというのも無視できない理由の一つです。”復讐する”という強い神性-言い換えれば、現在我らが祀っている神性-が私の体に宿りました。神性が私に宿ったときに、私は泣きました。心の底から泣きました。純粋に。心の中の全ての汚いものを流して綺麗にしてしまうように。

神性と言いましたが、その実体はなかなか掴みづらいものです。多くの人の意志や感情の集合体とも思えます。純化した意志とも言えます。私にはその神性を封じる器としての適性が十分にあったようです。

封印区画は外界の「復讐欲」を集める性質を持ちます。そして、集まった想念が外界に行くのを遮断します。私を核として、外界の復讐欲は私に収斂し多くの災禍は沈静化に向かいました。そして、300年を越える時間をかけて、神性を減衰させてきたのです。浄化というと抵抗があります。浄化という言葉は汚い物や汚らわしいものを綺麗にするイメージがあります。その思いはあまりにも純粋で、時に人を切なく狂おしい思いにさせる。人を人たらしめる感情の一部に復讐欲というものがあるというのが理解できました。

たぶん、復讐や仕返し報復という言葉より、「辻褄が合って欲しいという願い」という方が近いのではないかと思います。世の中には、辻褄の合わないことが多いですからね。

少々脱線してしまいますが、人はその本質から、因果律を求めます。原因と結果を求めてしまう。関係性を求めてしまう。それは、進化の過程で手に入れたものかもしれませんね。人の繁栄に大きく関与した力の一つでもあります。そして、時に、その力は人を破滅に導きます。間違った関係性を正しいと信じてしまうことがあるからです。過剰な因果関係を求めてしまうのですね。辻褄が合って欲しいという望みも、過敏になりすぎるとあまり良いとは思えません。

<24>

10~20年程度たったら、身代わりが来るってことになっていたのです。でも、適性があるものはなかなか地上に現れなかった。適性があり本人が引き受ける意志をもっていたとしても、家族が引き留めたりする場合もあったと思います。当然かもしれませんね。こんなところに身内が閉じ込められることを望むものなんていないでしょう。ずっとずっとほっとかれていたのです。ずっとずっと放置されたのです。神官は定期的に来るけど、別に雑談とかする機会はありませんでしたね。

この空間に囚われると、時間がゆっくりになる感覚があって、のんびりしてした気分になりますね。私がここに入ったのは15歳くらいだったけど、50年くらいたって、知っている人はほとんど死んでしまいました。外見上は、まだ全然年をとっていないのに。そのころになると私は神様扱いです。いくら『神性を纏うもの』、であっても元々人間ですからね。複雑な気持ちになりました。知っている人も、その子供達も全部死んだ頃になって、孤独をより強く感じた気がします。私のことを恐れ敬い崇め奉る人はいても、親身に考えてくれる人はもうたぶん現れないのだろうな、って思いました。神様として崇め奉られることはあっても、一緒に雑談をして笑いあったりする人は現れないのだろうと思いました。ずっと、人が滅びるまで、永遠に私はここに幽閉されるのだろうなって思ったのです。

<25>

タマキはスズナの方を見つめた。そして静かに話し始めた。

「夢見心地で、地上に訪れる信者の話を聞きながらいつも考えていました。誰かが神の依り代としての役目を担うことにより、地上世界は多くの災厄を避けることができる。でも、誰か一人が犠牲になるなんて理不尽じゃないのかとも思いました。ある程度務めたら、誰かが代わっても良いのではないかって、ずっと考えていました」

タマキに対しスズナは答えた。

「あたしも同意見かな。誰かが、この役目を担わないといけないというのはわかる。でも、それを一人の人がずっと負い続けるというのはおかしいと思う。交代でやればいいと思うの。1年とか3年とかそういうわけにはいかないかもしれないけど、10年とか20年たったら代わるべきだと思う。『誰かをスケープゴートにして他の多くの人が幸せになる』とか『名誉や崇拝などにより、人を人でないものに祀り上げる』とかね、そういうのが嫌いなの、あたしはね。誰かの善意にのっかり、感謝の言葉は口にするものの、自分たちは決して犠牲を払わない。払うそぶりも見せない。そして、そういう要素があるあたし自身もあのとき嫌になっていたと思う。それも、あなたと代わろうと思った理由の一つだと思うし」

「タマキ。あたしがね、あなたと代わることを了承したのはね。いろいろな理由があるの。まず、あたしだって罪の意識があった。贖罪の気持ちもあったの。そして、嫌な地上から逃げ出したいって思いもあった。あなたの話を全て信じたわけではないけど、あなたのことを可愛そうだとも思ったし、あなたを放置し続けた周りの人に少々憤りを覚えたのも事実だよ。伝承によれば300年以上の長きにわたって存在したものだし、恐れ多い思いもあった」

「前にも言ったけど、あたしは、あたし以上の憎しみを持つものがいることを確認したかったの。あたし以上の復讐心を持つものの存在を確かめたかったの。そして、あたしは安心したかった。あたしなんて取るに足らないものなのだって。でも、たった20年だといなかった。あと20年たってもいないかもしれない。でも、既に、人の身として、十分に長くそのようなものに触れたような気がする」

「タマキ。あなたの気持ちはわかった。もう一度、タカナちゃんがここへ来てくれたら、交代してくれるよう要請してみるよ。今は、それで良いでしょう。彼女は、目的を探していたから、もしかして、もう一度くるかもしれないね」

スズナは静かに淡々と話した後黙ってしまった。

「うん、ありがとう」

と答えて、タマキは封印区画から抜け出した。

<26>

タマキは、地上に戻り、本殿の近くにある池まで歩いてきた。そこは彼女のお気に入りの場所である。

座るのに手頃な大きな岩があって、彼女はそこに腰をおろして、池を眺めた。

そして、静かに思いを巡らした。

<27>

あの神性はあと100年もすればほぼ消滅するだろう。100年後に、彼女は解放されるだろう。知り合いなど誰もいない世界に放逐される。その身軽さと悲しさをスズナは知るだろう。その気持ちを、タマキはわかって欲しいとも思う。でも、それはタマキが死んだ後のことになる。今のタマキにはスズナがいるが、未来のスズナには横に誰かがいる保証はない。

タマキには、スズナに言っていないことがある。それは、タマキの前に神性を帯び災厄をまき散らしたのは彼の兄だった、ということ。

誰かの神性を引き継ぐ際に、他者を憎んだり恨んでいたりしてはならない。しかし、例え恨みや妬み嫉みがあったとしても、それ以上に自らを憎んでいる場合は神性を引き継ぐことができる。世界から集めた復讐欲に対抗するほど自らを強く憎む心があれば。自己嫌悪というよりも自己憎悪というくらいに。

兄を手にかけたときに、兄を憎みそうになる自分自身をより強く憎んでしまった。故に、その神性を引き受けることができた。

<28>

タマキはスズナと入れ替わる時を思い出す。あの直前のスズナの目は、自らへの呪いで強く満ちていた。350年前のスズナと同じように。

24年前、スズナが9歳のころ。スズナは地下の存在を知り、地下に侵入する。当時は、エレベータもなく、150メートル以上の石階段を懐中電灯と白いウサギのぬいぐるみをもって下りていく。どのようなシステムかわからないが空気は循環しているし、湿度も温度も不快に感じるほどではない。地下のドーム上の空間で「神性を担うもの」であるタマキに出会う。本来、彼女に会えるのは、神職のみであり、それも一年に一度の短い時間だけである。長い時間接すると魅入られてしまうという言い伝えがあり神職以外が会うことは禁止されている。スズナはあってはいけないという禁忌を犯し、何度も、長時間、タマキと話すことになる。そして、四年後、スズナは両親を殺し、地下にもぐる。血に塗れた 白いウサギのぬいぐるみを手元に持って。そこでタマキと入れ替わることになる。封印システムの中で、神性を帯びると、通常の生命活動がストップする。老いもないし、病気もない。スズナは13歳の姿のまま20年を経る。

入れ替わる前のタマキは入れ替わることをほとんど諦めかけていた。でも完全には諦めきれなかった。完全には諦められないということの意味が希望という言葉の意味なのかもしれない。タマキは、救われたかった。自由になりたい。解放されたい。愛されたい。誰かに覚えておいて欲しい。そして、なによりもタマキのことを知って欲しいという願い。300年前に決意をしたタマキの存在のこと、300年の間孤独と戦い続けたタマキの存在のことを。それが、タカナと取って代わりたいという欲を押さえきれなかった理由だったのだと思われる。誰にも理解されないことは悲しくて寂しくて切なくて怖くて、身もだえるような苦しさを伴うものだから。

タマキは静かに想った。

「(スズナ。あなたが、自由になって、やっと、私は本当に解放されるのだと思う。だから、自分の幸せを追うことを真剣に考えて欲しい。現状を肯定するのも、生き方の一つではあるかもしれないけど、それは現実から逃げているようにも見える。もう一度、背を向けた世界と向き合って欲しいと思う。だって、私を絶望や倦怠や諦念から解放してくれたあなたには、幸せになって欲しいから。そして、既に地上で長い間過ごし、あの神性を纏うことができなくなった私が出来ることは、代わりを見つけてくるしかできないのだから)」

<29>

数ヶ月後。

タマキは岩に座り、池の方を見ていた。

呼吸の音、体を動かすのに付随する服のすれる音、石畳の上を歩く小さな足音。それらに由来する僅かな人の気配。

タマキは振り返る。

そこに佇む姿を見て…、タマキは微笑んだ。

目の周りがちょっと熱くて、鼻がぐずぐずする、とタマキは感じた。