030 声を荒げて怒らない

(2009-01-04 頃作成、2011-10-19頃修正)

「人を鼓舞したり駆動したりする力って何だろう?」って考えることがよくある。

「自らの衝動の起源や由来や原因は何だろう?」って考える。

自分で自分を鼓舞できる人と、できない人との差はなんだろうって考える。

うまく他者を使って、自分を鼓舞できる人もいるな、って思ったりする。

・・・(沈黙)

誰かと何かと比較されるのは嫌ですか? でも、比較されている時点で俎上には乗っているわけだから、まだましだ。

「あなたに文句を言っても仕方がない」という趣旨の台詞は拒絶的ではある。

批判の対象にすらならない。

俎上にすらのっていない。

だから、こういうことを言われたら悔しかったり哀しかったりするだろう。

・・・(短い沈黙)

ある種の言動に対し、かなり強く苛立ちを覚えることが私にはある。

その言動の由来は個人のものというより、もう少し大きな構造上(あるいは社会の枠組み上)のものだったりすることもある。

だから、その個人に怒りをぶつけてもまったく意味がない。

むしろ、その言動をとった個人がある意味(←便利な言葉だよね、多用してはいけないけどね)犠牲者であるとも言えなくもない。

無知は時には罪なのかもしれないとも思うけど、そこまで厳しく他人を責められないのは、

自分自身が他者に甘えたいという要素があるからかもしれない。

・・・(短い沈黙)

自分の中に発生した怒りや悲しみや苦しみや苛立ちを、

自分の中に一時的に閉じ込めてしまうのは、

批判を直接露わにしても、問題が解決されると思えない、って思うから。

苛立ちに支配されて、言葉を発してしまえば、後で暴走したことに対して自己嫌悪してしまうから。

言葉を受けとめる準備をしていない相手に、

いくら言葉を費やしてもろくなことはないということを経験的に知っているから。

生じてしまった苛立ちを、怒りという形で表出させずに、

意味のある行動をするためのエネルギーに変換できたら良いな、って思うから。

苛立ちを発散したい以外に、言葉を費やしたい理由があるとすれば、

価値観をわかって欲しいとか、相手のためになるだろうから、って言うのがあるのかもしれない。

でも、ある種の人たちに、そういう望みを抱くのをほぼやめてしまった。

瑣末な残り香がないとは言えないけど、それは感傷なのだということも自覚するくらい歳をとってしまったのだと思う。

・・・(沈黙)

私が怒りを顕にしているように見えたとしたら、それは「怒った振り」であり、

私の価値観を理解できる人が近くで聞いていること(あるいは後に聞くことになること)を前提で言葉を発するのだと思う。

これは哀しいことだろうか?私はそうは思わない。

妥協点と言うのもどうかと思う。自分の力を如何に効率的に使うかに人は思いを巡らすし、その一環であるとも言える。

とりえあず、この方法で私は進んでみて、もっともっと良い方法を模索しようってこと。

だから、人はどう思うかはよくわからないけど、私にとっては、暫定解ではあるものの、やっと見つけた前向きといっても良いそこそこ愛着のある解なのだ。

・・・(沈黙)

人を鼓舞したり駆動したりする力って何だろう?って考える。

私は、私が嫌いなものに影響を受けたくないのだな。

割り切ってしまいたいのだな。嫌いなものに悩まされるのが嫌なのだな。

私は、私の好きなものに影響を受けたいのだな。

とっても強く駆動して欲しいのだな。

好きなものの奴隷になれればいいとすら思っているのだな。

・・・(沈黙)

私が人を全力で憎むためにはいくつもの越えなければいけないハードルがある。

ポテンシャル障壁というほうがわかりやすいならそう言い換えても良い。

そして、普通は、途中で、憎むのが面倒になってやめてしまう。

私は、時間をかけて自分の心をそういうふうに構成したのだ。

長期的視野に立って、納得できるものを摑もうと思うなら、そういうデザインになるだろう。

後悔することを予想し、それを目の前にちらつかせ、衝動を抑えるのに慣れてしまい、ほとんど心の負担がかからない。

でも、たまに、怒りに身を任せるのも楽しそうだな、って思う。

私の破壊衝動は最近はほとんど眠ってしまい、静かにしている。

昔はあんなに元気だったのにどうしてしまったのかな?って逆に心配になるくらい。

・・・(沈黙)

何かを美しいと感じたり、何かを見苦しいと感じたり、そういうことがあるよね。

いろいろなポテンシャルが私の内部を引っ張ったり押したりしてくれる間は、

私はまだ生きていても良いのかな?って思うことができるのでした。