古鳥史康の言葉を彼のレポートやブログからピックアップして順次掲載していきます
釈迦が活動したのは紀元前500年代、日本の縄文時代は紀元前17000年から紀元前1000年まで続いたとされる。
人間と世界との関わりは人類の誕生とともにあったので、人間も世界も初めから宇宙の法によって運行されてきた。縄文日本人の長い平和な社会を見ても、縄文日本人こそ宇宙の法にもっとも近い暮らしをしてきたのだと考えざるをえない。釈迦は宇宙の法を人間の側から般若心経などの言葉に表してくれた。おかげで我々人類は人間と宇宙との関わりを人間の立場にいながら知ることができる。それは縄文人を知ることと同じではないかと思われる。
雪の降りしきる厳寒のクリスマスイブ、幸せそうな街の景色とは裏腹に、追い詰められたジョージはニューヨークの凍える川で身を投げようとします。しかし、そのとき・・・
長谷川平蔵の妻、久栄(ひさえ)にむかしの男がいたのだ。と言っても、久栄が生娘で初心だったころに隣家の不良息子に弄ばれて凌辱されたのである。平蔵はそれを承知で久栄を貰い受けた。
ところがそれから二十年経って、この男は喰いっぱぐれて盗賊に成り下がり、二十年前のことを持ち出して久栄を脅しにかかってきたのだ。
(月光荘画材店)
なかでも世界で最も激しい学生闘争であった東京大学において、彼女の闘志の仲間たちは次々に警察や機動隊によって逮捕され、あるいは海外に逃亡していった。
そんな中、彼女も日本に住んでいられなくなり、ついに海外に脱出した。南米に逃亡したのである。そして、そこでゲバラと逢ったのだ。
蕎麦ってのはな、こう箸で摘まんで、ほら見ろ、こうやってちょこっとだけ汁に浸けて、そのままおもむろにずずずっとのどに流し込むもんだ! 猫殿はそう言って、汁のほとんどついてない乾き気味の蕎麦をずずずっとのどに流し込んだが、乾いた蕎麦がのどにひっかかって思い切りむせそうになった(笑)
現代の茶道は「わび・さび」の悠久の精神を失って形式だけの美にとらわれがちだと感じられるが、小堀遠州の庭園は新たな美の創造性を持ちながらも「わび・さび」の悠久の精神が見事に内包されていると感じられる。
ちょうどこの日の前日、水上先生、篠浦先生、大谷さん、おれの4人で神楽坂の料亭で会食し ・・・
ふみ「ちぃ、寒そうだな(^^)」
ちぃ「たまには誰もいないところで寒さを味わいたいのよ。いつもぬくぬくだと飽きるのよね。」
ふみ「ほ~っ、ドン・ジョヴァンニみたいだな(笑)」
ちぃ「何よ、それ(笑) あんただってたまにしか帰ってこないじゃないのよ。」
しかし、神学校で中野雄一郎師の話に感動した後のバカ話はちっとも面白くない。
ママ「フミヤスさん、今度お食事連れてって!」
フミ「教会に連れてってやろうか。感動するぞ(笑)」
ママ「まあ、嬉しい!こんど聖書勉強しますわ。」
フミ「ほんとか?(笑)」
と言いながらも、まったく笑いに乗れない、しかし、こころの奥では中野先生の講義の感動冷めやらぬ素晴らしい夜であった。
夜の白むころ、精魂尽き果てた刺青師は、娘の美しい背中に自分で彫った女郎蜘蛛に自分自身が吸い込まれそうになりながら語る。「おれはお前をほんとうの美しい女にするために、お前の背中におれの魂をぜんぶ打ち込んだ」「これからは男と云う男は、みんなお前の肥料(こやし)になるのだ」
娘は早く刺青が見たいと、湯殿での仕上げの痛みにさえ胸を躍らせるのだった。
古鳥史康
このとき、ジョージは悟った。元の世界で自分は力及ばなかったと思っていたが、自分はみんなの幸せのために役に立っていたのではないか。
じつは自分の人生は素晴らしかったのではないか。
王女シェヘラザードとその召使いの女性が二人で砂漠を旅していた。
かつてシェヘラザードの婚礼の日、新郎アラジンと指輪を交わし誓いのキスを交わした直後、夫となったばかりのアラジンは魔女によって呪いをかけられ、愛の記憶を消されたうえ、愛する女性を殺すように暗示されて失踪したのだった。彼女は夫アラジンを捜す旅を続けていたのだ。
今週末は長野県の山奥の渓谷にあるひなびた温泉街の宿で過ごした。この温泉街のシンボルだという共同浴場「大湯」の周りに7~8軒の旅館が点在するだけの小さな温泉街である。
誰でもたまに人の少ない時節にこういうひなびた小さな温泉街で過ごしたくなるもんじゃないだろうか。
おれの知人の会社社長が警察に逮捕された。警視庁からおれに電話がかかってきて、参考人招致したいと言う。この会社社長は先輩でまじめな男だと認識していたが、調べてみると事業が上手く行かなくて結果的に債権者に不義理をしてしまい、告訴されたのだ。警察は最初から彼を詐欺師として罪を固めようとしていた。
ー 大学病院の深夜のラウンジより ー
おれの入院のこの酷い状況はようするに修行なのだ(笑) そうと決まればジタバタしてもしょうがない。寝不足で意識朦朧で息が苦しいままでよい。今夜も眠れないかもしれないが、修行なのだ。しゃべれないし、頭痛がするが、それも修行なのだ。写経のつもりで稲盛さんの著書 「心。――人生を意のままにする力」 をPCで夜通し打ち込み続けることにした。ふだんは時間がないので、入院中でちょうどいい。
ー 愛の哲学 三国志〜司馬懿 軍師連盟~より ー
心安らか? おれはそんな日々など知らぬ! お前の義妹は男に守られたい女ではなかろう。この世で一番の幸せは、守られることではない。志を同じくする者と出会い、力を合わせて苦楽を共にすることだ。おれはお前の義妹の言葉に心を打たれ、その輝く瞳に魅せられた。苦難は勝手にやってくる。しかし共に生きる日々は何事にも勝る。
リビングから書斎に移動するとちぃも一緒についてきた。
ふみ「さ~て、ひと仕事するか。」
ちぃ「あたしもひと仕事しなくっちゃ。」
おれが机のチェアに腰を下ろすと、ちぃもさっと机に飛び乗って居座った。でもパソコンを開くとちぃはほぼ見えなくなる(笑)
乙女は恋う。風が吹いても、音がしても、何をしていても心が痛みます。そんな切ない思いをするほどの恋なのです。
それでも、心が痛むのは切ないばかりだけれど、それほどに想い焦がれる人と出会えたのは、なんて、なんて素晴らしいことでしょう。と、嬉しさに震えます。
サンクゼールの創業者「良三さん」は斑尾高原でペンションを始めました。2日目のお客さんであった「まゆみさん」と結婚して、忙しく営業していましたが、ある日、忙しさに疲れたまゆみさんは横浜の実家に帰ってしまいます。まゆみさんに戻ってきてほしい良三さんは説得しましたが、ペンションをこれ以上続けるなら離婚すると言われてしまいます。
今朝、ちぃが書斎に来てかまってほしそうにしていた。しかしおれは午後一番のミーティングで使う資料を整理していたので、しばらくしてちぃもあきらめて書斎から出ていった。それから資料ができてリビングに行くと、ちぃがふてくされて寝転がっていて、寝転がったまま片目だけ開けて目でおれの動きを追っている(笑)
フィリップ・ マーロウは検察庁あがりの私立探偵でプロ意識が高く、長身のタフガイで、美人の女性にも甘くはない。金にも左右されない。それに正直だ。どこか誠実で、信頼感があり、人を裏切らない。そのうえ自由である。
原作者レイモンド・チャンドラーの魅力は、この主役のマーロウのキャラクターにもあり、レトリックの巧みさにもあるが、しかし極めつけはマーロウの口から出る数々の名セリフであると思う。
このストーリーは、かつておれがアメリカの内部事情に通じていた某財界人(故人)から聞いていた話とまったく違う。
おれが知っている事実は、まずワシントンポストのオーナー会長キャサリンは、メリル・ストリープが演じているような誠実で恥ずかしがり屋でオドオドしている女性ではない。キャサリンは自信満々で、アメリカで最もパワフルな女性として知られていたのである。
さらに首相に就任すると、それに続く改革として奴隷制廃止法案を制定して、世界にまたがる大英帝国(カナダ、アフリカ大陸、インド、オーストラリアなども含む)全体においてユダヤの奴隷貿易を禁止した。
チャールズ・グレイがイギリス人の大罪を一部軽減し、イギリス人の魂を少なからず救ったことになる。
日本人とは何者なのか、キーンさんの頭の中で何かが繋がったに違いない。放射能が日本全土を覆ってしまうような報道が相次ぐなか、キーンさんは外国人でただ一人、日本の地に踏みとどまる。キーンさんは言う「私はこの日本の人々と共に生き、日本の人々と共に死にたい。」
メスネコちぃがリビングのドアの前で、絨毯の上で仰向けになって、ふあ~っ!と、気持ちよさそうに伸びをしていた。ちぃはわが家の主なので、そっと横を通り過ぎようとしたら、ちぃは仰向けのままサッと片手をおれの足にかけてきた。ちぃは仰向けのまま、片手をおれの足にかけたまま、こっちを見上げておれと目が合った(笑)
坂上芳洋・古鳥史康
本機構が実現することにより、国際緊急援助隊、赤十字社、国境なき医師団などの既存の国際的人道支援機関では対応できなかった、緊急を要する救助・救難活動をカバーすることが期待できる。
現在、わが国から「国際緊急援助隊」が派遣され、大きな成果を挙げていることは理解しますが、その組織は災害発生時に臨時編成される形態である。国際救助隊機構は緊急救助・救難に特化した常設組織による即応体制の構築を目的とし、平常時においては、昼夜を問わず、全国の離島の診療に巡回することとする。
「(前略)・・・もうずーっと来てくれないのはすっかり忘れられた証拠。」
「(中略)・・・電話にも出てくれないし・・・」
「(中略)・・・しかも返事すらくれないし・・・」
「(中略)・・・そういうことなら私にも覚悟があります。」
おおっ! これは脅迫状にちがいない(笑)
そのK会長が政界のフィクサーとして登場したのは40数年も前のこと。おれなんかはまだ小学生のガキのころだ。
時の絶対権力者は田中角栄元首相。最近のヘッポコ総理たちとはわけが違う。田中角栄さんは政界、財界、裏社会まで力で支配した本当の権力者だった。
銀座の並木通りをゆったり歩いていたら、すぐ目の前を同じようにゆったり歩いていた女性がハンカチを落とした。
あっと思って女性に目を向けると、後姿がおしゃれな春の装いで、春のそよ風のせいか上気していて、しかもフェロモンむんむんの足取りで、おれと同じ歩調で歩いている。
虚堂禅師は語る。世の中は厳しく険しい道が多い。しかしこれは考えることでもなく究めるということでもない。おまえはしょっちゅうあれこれと問い続けるが、おれもいままで多くの老師たちを見てきて、いまやおれ自身が翁となった。字もよく見えなくなったし、話もよく聞こえなくなった。それでよいのだ。ただ天に任せて直に道を進むのみである。おまえもあれこれ問うことを休めよ。天に任せて直に道を歩むのだ。
左から古鳥史康、加藤正迪、坂上芳洋、細川護熙
宮本武蔵が佐々木小次郎を破った巌流島の決闘は細川家が主催したもので、細川家の家老が立会人を務めている。
細川「佐々木小次郎は宮本武蔵の一撃で倒れたわけですが、じつはその時点では死ななかったんです。立会いをしたウチの家老が報告書を書いてるんですが、それを読むと、倒れはしたものの、しばらく経って息を吹き返して立ち上がったんです。」
今日はひさしぶりに早めに帰ってきたので、ちぃをかまおうとしたら、ちぃは食事中だった。とりあえずネコじゃらしでコチョコチョする。ところがちぃは無視してキャットフードをポリポリ食べてる。
打ち手たちはみなお互いを慮り、時にはある打ち手の激しいバチ打ちに合わせて周りが補完し、時には別の打ち手のバチのリズムに合わせて補完し合い、助け合い、一つとなって演じ切る。指揮者不要なのだ。6年前の東日本大震災の折も、家族を失い、家を失い、全てを失って悲しみと絶望のどん底に落とされながらも、それでも、日本人は互いに乏しい物資を分かち合い、助け合い、励まし合った。だれか決まった指揮者がいたわけではなかった。
言葉にしない秘めた思いこそが、余韻を残すのだ。計算づくの嘘っぱちの言葉が行き交う現代社会にあって、《追想王妃の谷》で語りかける古代エジプトの王妃も、民謡で語りかける古きアイルランド人もそうだが、それら秘めた思いの余韻を日本人が最高の作品に描き出し、秀逸の訳詞に完訳できるのは、それが日本人にとっても縄文以来の伝統の美学であるからだと思った。
おめーは久栄を抱いたと言って騒ぐが、
残念だったな。
久栄を本当の女にしたのはこのおれだ。
おめーじゃねぇ。
おめーが抱いたのは魂の入っていないただの抜け殻よ。
・・・と。
もちろん久栄を本当の女にしたのは、平蔵の芯を貫く男気であり、どこまでも久栄を包み込む平蔵の包容力であり、平蔵の魂からほとばしる久栄への愛情である。
しかし、その平蔵の魂からほとばしる愛情がどのような形となって久栄を抱いて久栄を本当の女にしたかは、平蔵と久栄の二人だけの秘め事である。
ある日、週刊新潮、文春、現代、ポストなどがいっせいにタキさんを犯罪者として暴く特集を組んだ。いずれも4~5ページでタキさん総攻撃だ。タイトルは「二丁目のオカマの女帝、ついに逮捕!」「二丁目の麻薬の元締め、兼、売春の元締め、兼、オカマの女王、ついに逮捕!」なんていう派手なもの。
おれは週刊現代だったかポストだったかの編集部に電話してタキさんの連絡先を聞いた。30年も前、当時は個人情報保護法ができる前だったので素直に教えてくれた。さっそくタキさんの自宅に電話。
しかし、ヤマガタさんは語る。自分は騙され続けて、無一文のまま、あるいは借金の山のまま人生を終わってもいい。この世のものは何もいらないし、欲しいとも思わない。もっと言えば、私にとって一番大事な私の画に対する評価が誤解されたままでも、酷評を受けたままであっても構わない。そのまま人生を終えても構わない。
ただ自分の心から強力なエネルギーをもって出てくるものを、心の命ずるまま、キャンバスに表現しきらなければ死ぬに死ねない。
PCをいったん閉じてリビングに行くと、わが家のヌシであるメスネコちぃが一心不乱に毛繕いしていた。ちぃは生まれてすぐにごみ箱に捨てられたので甘え方がわからない。というか甘えるということを知らない。ふだんお高くとまっていて、かまわれると噛みついてネコパンチでハッスルするのが愛情表現なのだ。
爺「お前かわいいな。いくつだ?」 ←以下、談志調
ナ「24です(笑)」
爺「おお、俺のガールフレンドより2つ下か。」
ナ「えーっ! おじいちゃん、そんな若いガールフレンドいるんですか?(笑)」
爺「ハッハッハ、あったりめえよ(笑)」 ←勇敢で雄大な談志
ナ「すご~い(笑)」
爺「驚いたか(笑)」
ー 未来の自分に出会う ー
たとえば、自分の目標を達成するためには、まずその目標を明確に設定して、そこから逆算して今やるべきことを実行していくことが基本だが、うまくいかないケースというのは、その目標の設定自体がぼやけていて、そのため今やるべきことが見えてこないということが多い。
ところがみゆさんの場合は、いまの自分の感覚と未来の自分の感覚がシンクロして、未来の自分が好きなことが今の自分が好きなことだと勘違いすることすらある。・・・と、そこまで自分の未来像が明瞭なのだ。
この件はむしろ資産家のほうに非があって、怒り狂った昔気質のヤクザは自分の全人生をかけて、すなわち逮捕なんて意に介さず、それどころか自決覚悟で仇を討ちにきた。こうなると弁護士も警察も手の打ちようがない。
T先生はそのヤクザの分厚い脅迫状を丹念に読み込み、手紙でその心情に理解を示しながら、しかし自分が相手になるからおとなしく手を引け、と恫喝した。当初は激しい抵抗を受けながらも、数回の文通(?)で完全に心服させてしまったのである。
いま、ヤフー、グーグル、インターネットとAIの時代だからこそ、それらを超える本物の愛が求められています。
女性は少女のころから恋愛に慣れ親しんでいますが、男も人間の成長とともにそれぞれの愛のかたちが必要なのではないでしょうか。
本シリーズでは、それぞれの男がそれぞれの境遇や立場において、情熱的に吐露し、表現し、ときには噴出させた「愛のかたち」を、古鳥史康さんの記事から抜粋して掲載して参りたいと思います。
高倉健と田中裕子、映画「夜叉」より
愛する女性のため、自分が犠牲になろうとする夫のラズロ。そして最後は自分が犠牲になることを選択するリック。カサブランカの二人の男の自己犠牲の愛はあまりにも美しい。西洋では自己と他己を峻別するので、聖書の神の愛は自己犠牲の愛となって描かれることが多いのだ。
しかし、愛は、隣人を守り、愛する人を守るために自らの生命をも惜しまない。だから楽も得もなく、苦も損もない。 カサブランカの二人の男も、何も求めず、だから損も得もなく、自己犠牲ということもなく、ただ愛する女性を情熱をもって命を懸けて愛しぬいた愛一如の神の似姿にも思える。
ラズロの妻イルザの心理は複雑であるが、神の似姿を思わせる二人の男の愛を前にして、その感動に直面したなら、イルザのみならず誰であってもなす術がなかっただろう。
富弘さんは語る:
私は、それほどの愛に応える術を持っておらず、何も言うことができませんでした。
神様がたった一度だけ、この腕を動かしてくださるとしたら、母の肩をたたかせてもらおうと思っています。
風に揺れるペンペン草の実を見ていると、そんな日が本当に来るような気がします。
愛の出会いは二人を刃の切っ先に導く。
異質な要素が出会う境界は、刃の切っ先のように鋭く尖っている。
二人が惹かれあうほど、愛は、「これが自分だ」とか「自分らしさだ」と自分で定義している習慣や思い込みを、ときには容赦なく切り裂き、切り捨てていくからだ。
誰かと接して激しい衝動を憶え、痛切さ、感動、愛、激情などに強く心を動かされたなら、それはあなたがこのむき出しの切っ先にいるということである。
アラジンは妻シェヘラザードを前にしても記憶が戻ることなく、毎回、物語を聴いた次の日には、呪いの暗示に従って彼女を殺そうとするが、
千夜一夜、じつに3年にもわたって、アラジンとの愛の物語を毎夜くじけることなく語り続ける彼女によって、そのどこまでもたゆまぬ限りなく根気強い不滅の愛によって、
ついにアラジンは呪いを打ち破り、記憶と愛を取り戻したのである。
西郷隆盛ほど日本人のこころをありのままに体現した人物は、他にいないと思われる。だから私たちが西郷の生きざまとその言葉に遭遇するとき、それらは私たちに愛と生きる力を与えてくれるのだ。
西郷の愛の普遍性は、仏性にも、聖書にも、また私たち一人一人の潜在意識にも共通する普遍性であり、この愛の普遍性こそ、縄文日本人のこころに見いだされる、愛と和の精神ではないでしょうか。
本編はそこに迫りたいと考えるが、さて、この試みは成功するか、失敗するか、いや、じつはそんなことはどうでもよくて、西郷どんに言わせれば、
「これは天の道なのであるから、そこには上手も下手もなく、我が身のことも二の次である。天の道である以上、できないということはない。ただひたすら道を行うのみ」(南洲翁遺訓の二十九)ということになるのである。