その源流へたどる
―最近の外来信仰から縄文の自然信仰へ―
岡本太郎と日本の祭り(川崎市岡本太郎美術館)
二玄社2011年4月15日発行
そもそも生物としての人間、自然的存在はどんなにちっぽけな、取るに足らぬいのちでも、非力でも、宇宙の中に生まれるべくして生まれ、すべてと合体していたのだ。それが人間としての意識を身につけはじめてから、狭い分際、限界の中に閉じ込められる。自分自身で身の程をわきまえて、宇宙的存在感から己を切り離してしまう。自分の力や価値を相対的に捉えるようになって、絶対感を失うのだ。
しかし、全存在でありたい。確かに、日常の生活は秩序なしには成り立たない。 ルールに従い、苦労して糧を得る。 だがそういう、社会生活を維持していくための規制、ノーマルな掟とは別のスジが、人間をつき動かす。ある時期に、突然秩序をひっくりかえす。いわば社会の対極的力学の不可欠の要素として、無条件の生命の解放、爆発が仕組まれている。そのとき人間は、日常の己を超えて燃えあがり、根源的な炎、宇宙と感動的に合体するのだ。
それが祭りだ。
岡本太郎
→全文
日本各地に伝わる祭りは、単なる地域の行事・催しにとどまらず、人類史的な宗教観や社会構造の変遷を反映する重要な文化要素です。日本の祭祀は、2万年にわたる縄文文化の八百万の神々と自然への崇拝と祝祭儀礼を土台として、3000年前から西アジア・中央アジア・モンゴルの遊牧の大地を起源とする弥生文化のユダヤ教旧約聖書及び農耕の祝祭儀礼を受容し、1800年前からは中国東部を起源とする大和朝廷の国家祭祀の儀礼を受容し、さらに500年前から西欧などを起源とする外来文化の祝祭儀礼を受容して形成されてきたと考えられます。
じつに日本の祭りは多層的な歴史の層を重ねながら、地域の人々の心と結びつき、今日まで伝わってきたのです。それぞれの時代ごとの精神文化を映す鏡といえます。それぞれは独立して存在するのではなく、しばしば融合し、重層的文化構造を形成してきました。
それぞれの祭りを訪れることは、日本文化の源流をたどる旅そのものです。ここでは、それぞれの由来ごとに代表的な祭りを紹介します。
目次
掲載の順番は、日本における新しい祭りから順に古い祭りへ遡り、最後に日本人のふるさとである八百万の神々の縄文の祭りに至ります。
1.外来由来の祭り(キリスト教文化は日本では500年の歴史) ― 大陸や西洋の異文化の受容と融合。仏教・道教・キリスト教など
・長崎くんち(長崎県)
・精霊流し(長崎県)
・クリスマス(全国)
2.大和朝廷由来の祭り(日本では1800年の歴史) ― 大和朝廷の権威のための祭祀 ―
・新嘗祭(東京宮中祭祀・全国)
・春日若宮おん祭(奈良県春日大社)
・神嘗祭(三重県・伊勢神宮)
3.弥生由来の祭り(日本では3000年の歴史) ― 古代イスラエルの祭祀、稲作社会の成立と農耕儀礼 ―
・御田植祭(大阪・住吉大社ほか全国)
・御柱祭(長野・諏訪大社)
・祇園祭~原型(京都)
4.縄文由来の祭り(日本民族発祥の2万年以上の歴史) ― 八百万の神々、自然崇拝と来訪神信仰 ―
・なまはげ(秋田県・男鹿半島)
・岩木山のお山参詣(青森県・岩木山信仰)
・盛岡さんさ踊り(岩手県盛岡市)
・花祭(愛知県奥三河)
1.外来由来の祭り ― 大陸や西洋の異文化の受容と融合。仏教・道教・キリスト教など
仏教・道教・中国文化、さらには近代以降にキリスト教など西洋文化が日本に流入し、独自の形で祭りとして定着した。
・長崎くんち(長崎県)
奉納芸能の祭り
唐人屋敷や南蛮文化の影響を受けた祭礼で、舞楽・龍踊りや奉納踊りなどの奉納芸能を特徴とする¹³。明清文化色が濃厚。海外文化が地元信仰と融合した典型。
「長崎くんち」は、長崎の氏神である諏訪神社の秋季大祭で、毎年10月7日から3日間開催される。地元では「おくんち」と呼ばれて親しまれてきた。始まりは寛永11年(1634年)に遊女が諏訪神社に「小舞」を奉納したことだと伝えられている。奉納踊りには異国情緒あふれるものが多く取り入れられている。昭和54年には国指定重要無形民俗文化財に指定。
寛永11年(1634年)、太夫町の遊女であった高尾と音羽の二人が、諏訪神社の神前で謡曲「小舞」を奉納したのが、長崎くんちの起源だとされている。この年は、長崎で「出島」の埋め立て工事が始まり、「眼鏡橋」が架けられた。
当初から長崎奉行の援助もあり、祭りは年々盛んになった。特に、奉納される踊りにはポルトガル、オランダ、中国などの異国文化の影響が色濃く取り入れられ、江戸時代から豪華絢爛な祭りとして評判だった。龍踊りや鯨の潮吹きといった、現在にも続く特徴的な演し物は、当時の異文化交流の様子を今に伝えている。
参考文献:長崎市編『長崎くんちの歴史と文化』長崎市教育委員会, 2005.
踊り町と呼ばれる各町が、「傘鉾」を先頭に、日本舞踊の「本踊」、川船・唐人船・御座船・宝船などの「曳き物」、太鼓山(コッコデショ)・鯱太鼓などの「担ぎ物」、そして「龍踊り」「獅子舞」などの演し物を披露する。
諏訪神社:お祭りの中心
お旅所:諏訪神社の神体が一時的に移される
八坂神社(旧八坂町):奉納が行われる
中央公園くんち観覧場
庭先回り:旧市街の企業や民家の入り口前で、演し物の一部が披露されます。
・精霊流し(長崎県)
中国由来の盂蘭盆会が日本の死者供養と融合し、 故人の精霊を極楽浄土へ送り出すために精霊船を川や海に流す風習となった¹⁴。主に長崎県や佐賀県で毎年8月15日に開催される。
行事の概要
お盆前に亡くなった人の遺族が、故人の霊を弔うために行う。手作りの精霊船にお供え物とともに故人の霊を乗せ、それを曳きながら街中を練り歩き、川や海に流して極楽浄土へ送り出す。
長崎市をはじめ、長崎県内各地で行われており、佐賀市や熊本県の一部でも見られる。
竹や板、ワラなどを材料に各家庭で手作りされる。小さなもので全長1~2m、大きなものだと船を何連も繋げて20~50mになるものもある。船の先頭部分には、家紋や家名、町名が大きく記される。町内合同で「もやい船」を出す地域もある。
当日は夕暮れ時になると、街のあちこちから「チャンコンチャンコン」という鐘の音と、「ドーイドーイ」という掛け声、そして耳をつんざくほどの爆竹の音が鳴り響く。
彩⾈流し(精霊流しの起源)
幽霊たちを故郷の中国へ送り出すため、⾦銀の紙などで美しく飾った藁船にのせて、海に流すというもので、これが今も⻑崎のお盆に⾏われている「精霊流し」の起源と⾔われている。
精霊船を流し、亡き人を送る長崎の夏
参考文献:民俗学研究会『精霊流しの民俗』弘文堂, 1982.
・クリスマス(全国)
イルミネーションに彩られる日本のクリスマス。
近代以降、西洋から輸入された祝祭であるが、現代の日本社会においては宗教的要素を超えて季節行事化した¹⁵。商業化された面もある。
日本のクリスマスは、海外のクリスマスの伝統とは異なる独自の文化を形成している。宗教的な意味合いよりも、家族や友人、恋人と過ごす楽しい商業的なイベントとして楽しまれている。
日本のクリスマスは、1552年に宣教師たちが山口県でキリストの降誕祭のミサを行ったのが始まりとされている。しかし江戸時代のキリスト教弾圧により一度途絶え、明治時代に入ってから再開されている。
その文化が日本に定着したのは、明治時代の1900年頃。この頃からクリスマス関連商品が販売され始め、徐々に広まった。特に大正時代には子供向けの雑誌などでクリスマスの挿絵が掲載され、昭和に入ると大正天皇の崩御日12月25日が休日になったこともあり、デートの日として定着していった。
日本のクリスマスは、海外とは異なるいくつかの特徴的な過ごし方がある。
家族より恋人と過ごす 海外ではクリスマスを家族と過ごすのが一般的だが、日本では恋人と過ごすイベントという側面が強い。特にクリスマスイブは、カップルがロマンチックなデートを楽しんだり、豪華なディナーを予約したりする特別な日とされている。最近では「ソロ活」として一人でクリスマスを楽しむ人も増えている。
クリスマスイブが盛り上がる 日本では12月24日のクリスマスイブの方が、25日のクリスマス当日よりも盛り上がる傾向にある。
フライドチキンとクリスマスケーキ 日本ではクリスマスの定番メニューとして、フライドチキンやクリスマスケーキが広く食されている。特にケンタッキーフライドチキンを食べる習慣は、商業戦略によって広まった日本独自の伝統。
イルミネーション 都市や町が美しいクリスマスイルミネーションで飾られ、多くの人々が鑑賞に出かけます。早いところでは11月からイルミネーションが楽しめ、写真撮影のスポットとしても人気。
贈り物交換 日本の贈り物交換は、西洋の伝統と日本の感性が融合したもので、金額よりも気持ちや思いやりを重視した、シンプルで個人的な贈り物がよく行われる。
クリスマスツリーと装飾
日本の家庭や職場では、折り紙や「つるし雛」のような伝統的な吊るし人形で装飾された小さなクリスマスツリーが見られる。
東京、京都、大阪のような日本の南部や中央部では、クリスマスに雪が降ることはあまりない。しかし、北海道や日本アルプスなどの北部地域では、12月に雪が降ることがあ。
2.大和朝廷由来の祭り ― 国家と天皇の権威のための祭祀 ―
律令制の確立により、天皇を中心とする国家的祭祀が体系化された⁹。
参考文献:直木孝次郎『律令国家の祭祀と祭礼』吉川弘文館, 1977.
新嘗祭(宮中祭祀・全国)
新嘗祭(にいなめさい・宮中祭祀)
宮中において、天照大御神はじめ八百万の神々に感謝を表して天皇が自ら育てた新穀を供え、自らも食する祭儀。国家的な収穫感謝祭の中心をなす¹⁰。律令体制下で国家的儀礼として整えられました。毎年11月23日に宮中や全国の神社で行われます。その年の収穫に感謝し、来年の豊作を祈るお祭りです。別名で「しんじょうさい」とも呼ばれます。
宮中祭祀:新嘗祭は宮中祭祀の一つで、天皇陛下がその年の五穀の新穀を神々(皇宗・天神地祇)に供え、自らも食されることで収穫に感謝し、国家安泰と国民の繁栄を祈る大がかりな儀式です。特に重要な儀式とされています。
歴史:新嘗祭の起源は古く、『古事記』には天照大御神が新嘗祭を行ったことが記されています。平安時代には国家行事として確立されました。
新穀:新嘗祭で献上される五穀は、毎年、各都道府県が厳選した農家が用意します。精米された極上の米は桐の箱に納められ、宮内庁へ献納されます。
日付:元々は旧暦11月の2回目の卯の日に行われていましたが、1873年(明治6年)に新暦の11月23日と定められました。
勤労感謝の日:戦後、新嘗祭は宗教的な意味合いが取り除かれ、「勤労感謝の日」として国民の祝日となりましたが、宮中では今も重要な祭祀として続けられています。勤労感謝の日は、命の糧を神様からいただくための勤労を尊び、感謝しあうことに由来すると言われています。
大嘗祭との違い:天皇即位後初めての新嘗祭を「大嘗祭(だいじょうさい)」と呼びます。大嘗祭は一世に一度の大規模な祭りで、新嘗祭とは区別されています。
祈年祭:新嘗祭が収穫の感謝であるのに対し、春に行われる祈年祭(きねんさい)は五穀豊穣を祈願するお祭りであり、相対する関係にあります。
参考文献:神道大辞典編集委員会『神道大辞典』平凡社, 1999.
写真キャプション:宮中祭祀として続く新嘗祭。国の豊穣感謝の儀礼。
・春日若宮おん祭(奈良県春日大社)
春日若宮おん祭(奈良県春日大社)
藤原氏の権威と国家的祭祀が結びついた典型例¹¹。平安時代以降に成立した。朝廷と藤原氏の権威の象徴。藤原氏の氏神を祀る。舞楽や神楽、渡御など、朝廷儀式の要素を色濃く残す。毎年12月17日を中心に執り行われます。
保延2年(1136年)に関白藤原忠通によって始められたと伝えられています。当時、大雨や洪水による飢饉、疫病の蔓延を憂慮した藤原忠通公が、五穀豊穣と万民の安楽を祈願して、春日若宮に神霊を迎え、盛大な祭礼を執り行ったことが起源とされています。この祭りは、大和一国を挙げて行われるほど大規模なもので、今日までその伝統が受け継がれています。
主な行事と見どころ
12月17日の午前0時から始まる遷幸の儀は、春日若宮神の神霊をお旅所に遷す厳粛な神事です。二基の大松明を先頭に、神職たちが榊を手に、邪気を払う警蹕(けいひつ)を唱えながら進みます。約1kmの道のりを約50分かけて移動します。
12月17日の正午から行われるお渡り式は、おん祭の中でも特に華やかな行列です。奈良県庁前から若宮神が鎮座するお旅所まで、伝統衣装に身を包んだ約1000人の人々や馬が練り歩きます。
お渡り式の後、12月17日の午後2時半からは、国の平安を祈念する御旅所祭が厳粛に行われます。その後、午後3時半からは夜遅くまで、神楽、東遊、田楽、細男、猿楽(能楽)、舞楽など、様々な神事芸能がお旅所で奉納されます。これらの芸能も国の重要無形民俗文化財に指定されています。
12月17日の午後11時にお旅所を発ち、18日の午前0時までに若宮神が若宮神社本殿へ帰る儀式で、おん祭は締めくくられます。遷幸の儀と同様に、この間の照明や撮影は禁止されています。
参考文献:奈良県編『春日若宮おん祭史料集成』奈良県文化財保存事務所, 2002.
写真キャプション:奈良・春日若宮おん祭の渡御行列。平安以来の荘厳さ。
・神嘗祭(三重県・伊勢神宮)
神嘗祭(かんなめさい、伊勢神宮)
伊勢神宮において、天照大御神に感謝を表して初穂奉献を行う祭儀。皇祖神祭祀として最重要視された祭り¹²。律令祭祀体系に組み込まれた。
その年に収穫された新穀を天照大御神に捧げ、自然の恵みや五穀豊穣、国家の隆昌、国民の平安を祈願します。毎年10月15日から執り行われます。(明治時代まで旧暦9月17日に行われた)
由貴大御饌(ゆきのおおみけ)の儀 清浄な闇の中、午後10時と午前2時の2回にわたって行われます。神宮神田で栽培された新穀のご飯や新餅、神酒、海の幸、山の幸などがお供えされます。
奉幣(ほうべい)の儀 由貴大御饌の儀の翌日正午に、天皇陛下の勅使が参向し、五色の織物などの幣帛(へいはく)が奉納されます。
御神楽(みかぐら) 奉幣の儀が終わった夕方には、御神楽が奏でられ、御祭神を和ませます。
神嘗祭は両正宮(内宮と外宮)で行われた後、10月25日まで別宮をはじめ、摂社、末社、所管社(しょかんしゃ)に至る全ての宮社で行われます。
神嘗祭に合わせて、伊勢市内では「初穂曳」という行事が行われます。
法被姿の神領民と呼ばれる伊勢の人々が、その年に収穫された初穂を奉曳車や初穂船に載せて神宮に奉納する行事です。
また、伊勢神宮の神田では、神嘗祭で供える稲穂を作るための「抜穂祭(ぬいぼさい)」が毎年9月上旬に行われます。
参考文献:伊勢神宮『神宮の祭りと歴史』神宮司庁, 2010.
写真キャプション:伊勢神宮内宮にて営まれる神嘗祭。
3.弥生由来の祭り ― 稲作社会の成立と豊穣の祈り・農耕儀礼 ―
弥生期以降、稲作が社会基盤となり、農耕儀礼が祭祀体系の中心を占めるようになった⁵。
参考文献:吉野裕子『稲作と日本の祭り』中央公論社, 1985.
・御田植祭(大阪・住吉大社ほか全国)
豊穣を祈願し、田植えを神事化した祭りで、稲作社会成立後の農耕共同体の典型的農業神事・農耕儀礼です⁶。
御田植祭は、日本各地の神社で毎年行われるお祭りで、その年の五穀豊穣を祈願するものです。
特に有名なものが「日本三大御田植祭」と呼ばれる以下の3つです:
香取神宮の御田植祭(千葉県)
住吉大社の御田植神事(大阪府)
伊雑宮の磯部の御神田(三重県)
写真キャプション:神田で演じられる古式ゆかしい田植え。
参考文献
柳田國男『日本の祭』岩波書店, 1938.
御田植祭は、稲作が広まった弥生時代以降、米作りを主な生業としてきた日本において、人々の切なる願いであった豊作を神に祈るために行われるようになりました。
住吉大社の御田植神事は、規模の大きさや、儀式が古式に則って盛大に行われることで知られています。
伝承によれば、神功皇后が住吉大神にお供えする御供田を定めたことに始まるとされています。鎌倉時代には既に猿楽や田楽など、様々な芸能が奉納されており、かなりの規模であったことが記録に残っています。明治維新の際には存続の危機もありましたが、この伝統は現代まで受け継がれ、1979年2月24日に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
開催日程
住吉大社の御田植神事は、毎年6月14日の午後1時から開催されます。儀式は第一本宮から御田へと続きます。
神事の内容
御田植神事では、まず神前で授かった早苗(さなえ)が「植女(うえめ)」から「替植女(かえうえめ)」へと渡され、田植えが始まります。田植えの最中には、様々な芸能が奉納されます。例えば、舞台では8人の巫女による「八乙女舞」が披露され、華やかな雰囲気が演出されます。他にも、鎧兜を身につけた「風流武者」による行事や、地元の子供たちによる「田植踊り」が行われます。そして、最後に約150名の子どもたちによって「心の字」をかたどって踊る可愛らしい「住吉踊り」が奉納される頃には、神田の田植えが完了する段取りとなっています。
・御柱祭(長野・諏訪大社)
御柱祭(おんばしらさい)は、長野県諏訪地方で数えで7年ごとに行われる、諏訪大社最大の神事です。正式には「式年造営御柱大祭(しきねんぞうえいみはしらたいさい)」と呼ばれ、寅と申の年に行われます。平安時代以前から1200年以上続く伝統的なお祭りとして知られており、「日本三大奇祭」の一つにも数えられています。
7年ごとに巨木を山出しし、社殿に曳き建てる神事は、稲作社会における木霊・豊穣神信仰の表現と考えられる⁷。木は稲作社会の豊穣神を象徴し、力強い共同体の姿を示す。
参考文献:諏訪博史『御柱祭の民俗学』信濃毎日新聞社, 1999.
御柱祭は、数え年で7年目、つまり現在では6年に一度、寅と申の年に開催されます。
2028年(令和10年)の御柱祭の日程は、諏訪大社と大総代会から発表されています。
上社山出し: 2028年4月1日~3日
下社山出し: 2028年4月8日~10日
上社里曳き: 2028年5月3日~5日
下社里曳き: 2028年5月12日~14日
御柱となる大木の準備は、祭の数年前から始まります。上社は御柱祭の2年前、下社は3年前から「仮見立て」が行われ、御神木となる木が選定されます。
御柱祭では、諏訪大社が建つ諏訪地方の氏子たち約22万人が一体となり、山中から選ばれたモミの巨木(直径約1m、長さ約17m、重さ約12トンにも及ぶ)を16本切り出し、人力のみで諏訪大社の各宮(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮)まで曳き運びます。そして、その巨木を社殿の四方に建てることで、神木とします。
御柱祭は、「山出し」と「里曳き」の二部構成で行われます。
山出し(4月): 山から里へ巨木を曳き出す工程で、特に下社の「木落とし」は最大の見せ場です。最大斜度40度の急坂を御柱が滑り降りる様は、迫力満点です。上社では「川越し」があり、雪の降る中で零度に近い川を渡る光景も繰り広げられます。
里曳き(5月): 里から各社殿まで御柱を曳き立てる工程で、華麗な祭典絵巻が繰り広げられます。
諏訪大社は、諏訪湖を中心に上社(本宮・前宮)と下社(秋宮・春宮)の二社四宮で構成されており、全国に1万余りある諏訪神社の総本社です。
古くから五穀豊穣、狩猟、風、水、農耕の神として信仰され、中世以降は東国第一の軍神としても崇拝されてきました。
諏訪大社は「本殿を持たない」という独特の建築様式を持っており、社殿の四隅に御柱を建て替えるのが御柱祭の目的です。
写真キャプション:巨大な御柱を曳く氏子たち。迫力満点の神事。
御柱祭とイスラエル神殿建築祭の共通点
木材の運搬:御柱祭では、山から大木を切り出して社殿まで運搬します。ソロモン王がエルサレムに神殿を築く際にも、レバノン山脈から大木(レバノン杉など)を切り出し、エルサレムまで運んだと旧約聖書の列王記に記されています。
守屋山:諏訪大社の上社は、守屋山(もりやさん)の麓に鎮座しています。ソロモン王はエルサレムのモリヤ(Moriah)山で神殿の建築を始めたと旧約聖書に記されています。
建築様式:諏訪大社・上社前宮にある「十間廊」は、聖書に記述されている移動式神殿「幕屋」と似ています。どちらも屋根はありますが壁がなく、柱を等間隔に並べた骨格だけの建物で、大きさも近いとされています。
イサク奉献:明治時代以前の諏訪大社の御頭祭(おんとうさい)では、少年を柱に縛り付け、神官が刃物を振り上げるが、別の神官が現れて少年を解放し、代わりに鹿の頭が生贄として捧げられるという儀式が行われていました。旧約聖書でアブラハムが息子イサクを神に捧げようとした際、神の使いによって止められ、代わりに羊を捧げたという伝承に非常に似ています。
・祇園祭(京都) ※原型部分
祇園祭(京都)※原型部分
疫病退散を祈る御霊会に、稲作共同体の厄除信仰と祭礼が融合⁸。のちに豪華絢爛な山鉾行事として発展しました。
祇園祭は、京都市東山区にある八坂神社の祭礼で、約1ヶ月間にわたり様々な神事や行事が繰り広げられます。その歴史は平安時代前期に遡り、貞観11年(869年)に疫病を鎮めるために行われた「御霊会(ごりょうえ)」が起源とされています。
祇園祭は、毎年7月1日の「吉符入(きっぷいり)」に始まり、7月31日の「疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしまつり)」で幕を閉じます。
参考文献:山折哲雄『祇園祭と日本人』NHKブックス, 1991.
写真キャプション:祇園祭の山鉾巡行。稲作と厄除け信仰の融合。
祇園祭の最大の見どころは「山鉾巡行」です。
前祭(さきまつり):7月17日に行われます。長刀鉾(なぎなたほこ)を先頭に23基の山鉾が、四条烏丸を出発し、祇園囃子を奏でながら京都市内を巡行します。長刀鉾は「くじ取らず」として毎年必ず先頭を巡行し、唯一「生稚児(いきちご)」が乗る鉾としても知られています。
後祭(あとまつり):7月24日に行われます。橋弁慶山(はしべんけいやま)を先頭に11基の山鉾が巡行します。出発は烏丸御池となり、巡行コースは前祭とは逆になります。山鉾巡行では、山鉾の進行方向を変える勇壮な「辻廻し(つじまわし)」も見どころの一つです。
山鉾巡行と並んで祇園祭のハイライトとなるのが、八坂神社の神輿渡御です。
神幸祭(しんこうさい):7月17日に行われ、八坂神社の御神霊が遷された3基の神輿が御旅所(おたびしょ)へ向かいます。
還幸祭(かんこうさい):7月24日に行われ、御旅所に奉安されていた御神霊が再び神輿に乗せられ、八坂神社へと戻ります。
4.縄文由来の祭り ― 自然崇拝と来訪神信仰 ―
縄文時代には、自然や異界の存在を神格化するアニミズム的宗教観が広く見られた¹。自然と神々への畏敬、自然信仰、狩猟採集の呪術、アニミズムである。今日に伝わる祭りの中には、その残滓を濃厚にとどめるものが存在する。
・なまはげ(秋田県・男鹿半島)
なまはげ(秋田県・男鹿半島)
山の神・来訪神信仰に基づく。縄文期の「異界からの来訪者」の観念を強く残す。
大晦日に仮面をかぶった「なまはげ」が雄雄叫びを上げ、刀を振り回しながら村々に現れる習俗は、異界からの来訪神信仰の典型であり、縄文以来の異界観を伝える²。
もともと高い文明を持ちながら武器を持たなかった縄文人は、BC1000年以降、武器を持った弥生人の侵入と侵食によって徐々に征服され、さらにAD200年頃から大量の武器を持った大和朝廷の侵入と侵略によって、次々に縄文の王たちは滅ぼされ、縄文の民たちは征服されて大和朝廷の働き手となっていく。
こういう歴史の中で、大きな怒りとともに霊界に封印された縄文の王たちの魂は、一年の最後の日である大晦日にその怒りを爆発させて村々に現れる。異界からの来訪神信仰が縄文以来の自然信仰を色濃く残している所以である。
・岩木山のお山参詣(青森県・岩木山信仰)
青森県津軽地方では、岩木山を信仰する「お山参詣(おやまさんけい)」という伝統的な行事が行われています。これは、津軽富士とも呼ばれる岩木山を、人々が古くから「お岩木様」「お山」と呼び親しんできた信仰に基づくものです。岩木山をご神体と仰ぐ山岳信仰の祭祀です。「山=神」という観念は縄文的アニミズムの直接的継承と解されます³。
お山参詣は、豊作の感謝、家内安全、生業の無事を祈願する信仰行事です。毎年旧暦8月1日(朔日山)に、岩木山山頂の奥宮を目指して集団で登拝します。このお山参詣は、1984年1月21日に国の重要無形民俗文化財に「岩木山の登拝行事」として指定されています。
お山参詣は3日間にわたって行われます。
向山(むかいやま):初日。岩木山神社を訪れ、参拝します。
宵山(よいやま):2日目。白装束に身を包んだ参拝者が、黄金色の御幣や色鮮やかな幟(のぼり)を掲げて練り歩きます。登山囃子に合わせて「サイギサイギ、ドッコイサイギ」などの唱え言を響かせながら、岩木山神社を目指します。
朔日山(ついたちやま):最終日。旧暦8月1日にあたり、参拝者は未明から岩木山山頂を目指して出発します。山頂付近でご来光に手を合わせ、豊作や家内安全を祈ります。
山頂に達した後は、奥宮に御幣や御神酒などを奉納し、岩木山神社に登拝の無事を報告します。下山時には「バダラ踊り」を披露して帰途につきます。このバダラ踊りは、無事に登拝を終えた喜びと、神から神通力を授かったことを表現するものです。
岩木山神社は、宝亀11年(780年)に岩木山山頂に社殿が創建されたのが始まりとされています。古くから山岳信仰の対象とされ、津軽地方の生活や文化に深く影響を与えてきました。
お山参詣は、かつては男性のみに許された行事でしたが、明治5年(1872年)に女人禁制が解かれました。また、江戸時代中期には藩主のみが登拝を許されていましたが、明治以降は一般の人々によるお山参詣が中心となっています。かつては集団で登拝することが特色でしたが、昭和30年代以降は交通手段の発達により、日帰りする参拝客が増えるなど、行事の形態にも変化が見られます。
参考文献:宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫, 1984.
・盛岡さんさ祭り(岩手県盛岡市)
盛岡さんさ踊りは、岩手県盛岡市で毎年8月1日から4日にかけて開催されるお祭り。
さんさ踊りの起源は、「三ツ石伝説」に由来すると言われている。昔、人々を苦しめていた鬼を三ツ石の神様が退治し、喜んだ人々が三ツ石の周りで「さんさ、さんさ」と踊ったことが始まりと伝えられる。
しかしそれはこの踊りが「盛岡さんさ踊り」として定着した歴史的な説明にすぎない。さんさ踊りそのものはもっと古くから存在し、その根っこには縄文的な共同体祭祀のリズムが脈々と生きている可能性がある。特に「円陣で太鼓を打ち鳴らしながら皆で声を合わせて踊る」という形式は、農耕以前の「自然への祈り」と強くつながっている。
1978年、観光イベントとして「盛岡さんさ踊り」のパレードが始まった。2007年には世界一の和太鼓の数の祭りとしてギネス世界記録に登録され、2014年には3437人の参加で再びギネス認定された。今では、4日間で踊り手2万人、太鼓1万2,000個、笛2,500人、参加者総数3万5,000人を数える、世界一と言われる太鼓パレードが繰り広げられている。
岡本太郎曰く、「伝統とは後生大事にうやうやしく奉り、識者の教えの通りに眺め、大家(たいか)の御託をありがたく拝聴して『ほぉ』などと感動するものではない。互いに裸でぶつかって、それでもグンと押し返してくるものがあったら本物だ。」
笑顔、エネルギー、爆発、男も女も、老いも若きも、そして奉納演舞をはじめとする神との交流、盛岡さんさ踊りはグンと押し返してくるのである。
男も女も一緒に踊る。老いも若きも一緒に踊る。身体の不自由な方は車椅子で踊る。この踊りはわれわれの真の祖先である縄文日本人の真の祭りである可能性がある。
ーー芸能の極致は、一口で言えば神々の世界と交流し、『狂う』状態に入ること。神のごとく非日常の世界に入る忘我の境地であるーー
盛岡さんさ祭り、縄文起源説の考察
盛岡さんさ踊りの起源について、「三ツ石伝説」や「鬼退治の祝い」が一般的に語られますが、それは「後付けの由来伝承」であり、実際の踊りの原型はもっと古層にあるのではないかと考えられます。
1. 三ツ石伝説と「悪魔祓い」の性格
盛岡城下の三ツ石神社に伝わる鬼退治伝説は、さんさ踊りを「邪悪を払う踊り」として正当化する機能を持っています。
しかし伝承の成立は中世~近世以降と考えられ、踊りそのものがもっと古い可能性を否定できません。
2. リズムと構造にみる古層性
さんさ踊りは大太鼓の連打が特徴で、これは「地霊・土地神を呼ぶ太鼓」としての呪術的性格を帯びています。
アイヌの「輪になって足を踏み鳴らす踊り」や、「シャーマニズム的な反復運動」を思わせる点があります。
踊りの「円舞」「足拍子」「唱和」は、農耕儀礼以前の、狩猟採集的な共同体的リズムと親和性が強いです。
3. 縄文祭祀とのつながり
縄文遺跡(岩手県内の御所野遺跡や二戸地方の遺跡)からは「土偶」「土面」「環状列石」とともに「祭祀における踊り」の痕跡が推測されています。
さんさ踊りの「円陣」「交互の手拍子や掛け声」は、古代の環状列石での祭祀と構造的に似ていると論じる研究者もいます。
4. 民俗学的な類似例
東北一帯には「盆踊り」「鹿踊り」「念仏踊り」など円舞系の踊りが数多くあり、それぞれ稲作伝来以前の共同体的要素を含むとされます。
とくに「鹿踊り」はアイヌの熊送り儀礼と響き合う要素があるため、北方文化との交流を想起させます。
まとめ
以上から、「三ツ石伝説」は歴史的な説明の一つであり、さんさ踊りの根っこには縄文的な共同体祭祀のリズムが脈々と生きている可能性があります。特に「円陣で太鼓を打ち鳴らしながら皆で声を合わせて踊る」という形式は、農耕以前の「自然への祈り」と強くつながるものです。
参考文献
島崎篤子「『さんさ踊り』とその指導法に関する一考察」 — 岩手大学リポジトリ
大石泰夫「『盛岡さんさ踊り』考 — イベント祭りと民俗芸能」 — CiNii 論文記録
盛岡市『盛岡市歴史的風致維持向上計画』『盛岡市歴史文化基本構想』 — 市公式PDF
岩手県文化情報(さんさ踊り唄等) — 岩手県文化情報PDF/アーカイブ
大湯環状列石(公式世界遺産ページ・遺跡報告) — Jomon official page / 遺跡報告
谷地田未緒「アイヌ古式舞踊の文化財指定の経緯」 — 国立アイヌ民族博物館
北海道教育委員会編『アイヌ古式舞踊調査報告』シリーズ(舞踊譜・録音資料)
・花祭(愛知県奥三河)
花祭(愛知県奥三河)
火、水、仮面、舞踊を通じて自然の力を呼び込む祭り。
奥三河の花祭は、アニミズムやシャーマニズム的要素が顕著である⁴。700年以上前にほぼ現在の姿にまとめられ、愛知県の設楽町、東栄町、豊根村に伝えられた。
後に単なる儀礼的妻祭祀に堕落して、集落の繁栄と健康を祈るだけになった。悪霊を払い、五穀豊穣、無病息災を願う目的で、毎年11月から1月にかけて各地で開催されます。国の重要無形民俗文化財にも指定されており、地域によって少しずつ異なる祭りが夜通し行われます。
花祭の大きな見どころの一つは「鬼の舞」です。約40種類もの舞が夜を徹して繰り広げられ、観客も「テ~ホヘ、テホヘ」という掛け声で一体となって盛り上がります。太鼓や笛の音に合わせて舞われる舞は、子どもたちの「花の舞」や青年たちの舞など、多岐にわたります。地域によっては、和太鼓「志多ら」との共演も見られます。
花祭は愛知県奥三河の山間部で行われるため、公共交通機関でのアクセスは困難な場合があります。乗合やタクシーの利用が推奨されています。夜通し行われる祭りのため、特に冬場は冷え込むので、防寒対策をしっかりとしてお出かけください。祭りの日程や時間は変更される可能性があるので、事前に確認することをおすすめします。
写真キャプション:炎と舞が織りなす幻想的な花祭。
参考:
赤坂憲雄『東北学』講談社学術文庫, 2000.