新潟柏崎のドナルド・キーンセンターに行ってきた。
ここにはキーンさんの二ューヨークの書斎が忠実に再現されており、ニューヨークでキーンさんが使っていた書籍、机、ソファーなども置かれている。
ご存知のとおり、キーンさんはいま95歳だが、じつに70年に渡って日本の文学を研究し、英語に翻訳して、高い見識でその魅力を世界に伝え続けた。
その研究と翻訳は、万葉集や吉田兼好などの古典から太宰治や三島由紀夫などの現代文学にまで及ぶ膨大なものだ。
キーンさんと日本人との最初の出会いは、太平洋戦争の戦場であった。20歳のキーンさんはアメリカ軍の情報分析官として敵国・日本の文書の情報分析を行っていた。
そして、自決した日本人兵士の手記に接する。
キーンさんの心を捉えたのは、戦地の島で7人だけ生き残った日本兵の、飢えと疲労の限界状況の中でのささやかな正月の祝いの記述であった。
「戦地で迎えた正月。13粒の豆を7人でわけ、ささやかに祝う。」
それは日本人の魂であった。
なぜ、暴動が起こらないのか?
なぜ、限界状況で13粒の豆を分かち合い、ささやかに正月を祝うことができるのか?
外国ではこういうことはあり得ないのだ。
キーンさんは激しい衝撃を受ける。
そうして戦後、文学者となったキーンさんは日本文学の研究をしながら、「日本人とは何者なのか」という壮大な問いを考え続けることになる。
戦後のヨーロッパやアメリカは敗戦国日本に対する偏見と敵意で満ちていた。
キーンさんは復員後コロンビア大学、ハーヴァード大学、ケンブリッジ大学に学び、講師も務めたが、それら大学においてさえ日本文学を研究し教えるキーンさんは罵倒され、侮辱された。
しかしキーンさんは、それを払拭するためにも1人でも多くの人に日本文学を読んでもらいたいと、日本とアメリカを何度も往復し、日本文学の研究と翻訳と紹介になお一層努力を重ねたという。まったく頭が下がる思いだ。
やがてキーンさんと谷崎潤一郎、川端康成、吉田健一、石川淳、司馬遼太郎、丸谷才一、篠田一士など日本を代表する文豪たちとの交友関係が生まれ、とくに三島由紀夫や安部公房は親友となった。
日本文学界初となった川端康成のノーベル賞受賞にも尽力した。
キーンさんの功績なしには日本文学が世界で読まれることはなかったのではないか。
彼の著作は菊池寛賞、日本文学大賞、井上靖文化賞など数えきれないほどの賞を受賞し、2008年には文化勲章を受章した。
キーンさんは日本人よりも日本人の魂を知る男となり、
キーンさんの人生は、日本文学、すなわち「日本人の魂」を世界に現すことに全てをかけることとなった。
(ドナルド・キーンさん95歳)
そして6年前、東日本大震災が起こる。
外国人はみんなわれ先にと日本から逃げ出していった。
しかし日本人は家族を失い、家を失い、職を失った絶望と飢えと疲労の中で、お互いに励まし合い、分かち合い、助け合った。
なぜ、暴動が起こらないのか?
なぜ、限界状況の中で助け合い、励まし合い、ささやかに人のために喜ぶことができるのか?
世界のマスコミが驚嘆したとおり、外国ではありえないことなのだ。
これは70年前、太平洋戦争の戦地の島で7人だけ生き残った日本兵が、飢えと疲労の限界の中で13粒の豆を分かち合ってささやかな正月を祝ったのと同じではないか?
日本人とは何者なのか、キーンさんの頭の中で何かが繋がったに違いない。
キーンさんは外国人でただ一人、日本に踏みとどまる。
放射能が日本全土を覆ってしまうような報道が相次ぐなかで、キーンさんはあえてニューヨークの自宅を処分し、日本に永住するため日本国籍を取得した。
曰く「私はこの日本の人々と共に生き、日本の人々と共に死にたい。」
おれは、ドナルド・キーンさんの思いに、心の底から湧き上がる感動をもって、真実の神を観たと感じた。