医師研修を終えて自信がついてきた30代後半に、北海道襟裳町の診療所で四年間、医師として働いていたことがあります。
冬の気温がマイナス10度で、体感温度はマイナス20度というような風の強い、とても寒いところでした。厳しい自然でしたが、皆さん、本当にたくましく生きていました。この土地でゆっくり過ごし、いろいろな話をして、土地の人たちと良い交流ができました。
襟裳の方々は、自然に死を受け容れるのです。東京のように「1秒でも長く生かしてください。末期がんでもなんとかなりませんか」。そういうことがないのです。厳しい自然の中で古くからの大家族に囲まれて生きているからなのか、ほとんどの方が淡々と死を受け容れています。
「札幌の大病院に行けば、なんとかしてくれると思いますから、紹介しましょうか?」と聞いても、「いやぁ、私は十分生きて、もう八十代にもなっているし、札幌に行っても、来てもらう家族に負担がかかるし、先生もういいですよ。」と言います。最初はびっくりしました。でも考えてみれば、昔の日本人はこうだったのではないかと思います。
万葉集は我国わがくにの大切な歌集で、誰でも読んで好いものとおもうが、何せよ歌の数が四千五百有余もあり、一々注釈書に当ってそれを読破しようというのは並大抵のことではない。そこで選集を作って歌に親しむということも一つの方法だから本書はその方法を採った。
選ぶ態度は大体すぐれた歌を巻毎に拾うこととし、数は先ず全体の一割ぐらいの見込で、長歌は罷やめて短歌だけにしたから、万葉の短歌が四千二百足らずあるとして大体一割ぐらい選んだことになろうか。
本書はそのような標準にしたが、これは国民全般が万葉集の短歌として是非知って居らねばならぬものを出来るだけ選んだためであって、万人向きという意図はおのずから其処そこに実行せられているわけである。ゆえに専門家的に漸ようやく標準を高めて行き、読者諸氏は本書から自由に三百首選二百首選一百首選乃至ないし五十首選をも作ることが出来る。それだけの余裕を私は本書のなかに保留して置いた。
斎藤茂吉
史上初めて自民党政権を覆し、内閣総理大臣となった細川護熙は、政界を引退した後、湯河原の自邸・不東庵に隠棲している。
不東庵とは、左遷(西遷)の憂き目にあった武将がもう中央(東)に還ることはないと心に定めた住まいである。
不東庵における読書と作陶の日々は、じつは細川護熙が総理になる以前から人生はこうありたいと思い定めていた生き様でもある。
己を見つめ、たゆまぬ研鑽を積む姿を伝える、『週刊 やきものを楽しむ』に連載され好評を博した文章に、細川のこれまでの、そしてこれから生きていくうえで生活の核となる読書論を加えて1冊にまとめた随想集である。
今や陶芸家としても知る人ぞ知る細川護熙の、生き方への洞察とやきものへの熱い想いに満ちた文章は、人生をいかに充実させるかという示唆に富み、あらゆる世代の方々に深い共感を呼ぶ。
近況を伝える写真15点が入り、巻末には、細川氏の毎日を支える本「わたしの残生100冊」のリストが付されている。
本阿弥光悦も若いころは家を売るほど茶道具に執着する茶人の一人だったが、灰屋紹益によると、のちにはそうではなくなっている。
名物は、それが名物なればなるほど「やれ落とすな、やれ失くすな」とそれに心をとらわれ、心の平安を失わせる。そんなものに心を乱されるくらいならいっそ持たぬにしかぬと、家を売ったほどの名物をみな人にやってしまって、おのれはごくふつうの雑器で茶そのものを楽しんだという。