特集:昭和初期から戦後にかけて ― 日本映画に映し出された心
昭和のはじめ、日本映画は大衆の娯楽であると同時に、人々の生き方や価値観を映し出す鏡でもありました。戦前の時代劇に込められた日本人の武士道、忠誠心、夫婦愛、家族愛、ご町内や村々の人情、下町や農村に生きる子どもたちの素朴なまなざしがあります。また戦時下を生き抜く人々もそういう日本人のこころをしっかり守っていました。たくましさがありました。そして戦後、完全に歪められ、あるいは失われてしまった日本人のこころと家族の情愛・・・。しかしその底流には、それら妨害にもかかわらず、いつの時代も変わらない「日本人のこころ」が今も脈々と生きています。
本特集では、戦前の1920年代から戦後の1960年代にかけての名作映画を取り上げます。1960年代以降はじつに残念ながら日本の映画は日本人のこころがほとんど崩壊してしまいましたが、それまでは、いずれも時代の空気を映しながら、日本人が大切にしてきた価値観を物語る作品が息づいています。これらの作品はいずれも、日本人の「こころ」を映し出す貴重な文化遺産です。時代も背景も異なりながら、共通して描かれるのは、日本人が大切にしてきた普遍の価値観です。映画を通じて、それぞれの時代に生きた人々の姿勢を知ることは、私たち自身の「こころ」を見つめ直すことにつながると考えます。
映画「小雀峠」 ~泥棒にも生きている日本人の誠
公開日 1923年11月30日 (大正12年11月30日、27分、サイレント映画 )
「小雀峠」には、日本人なら盗賊にも行き渡っていた日本人の忠義心、義侠心、家族愛が描き出されている。
沼田紅緑監督の「小雀峠」(1923年)は、原作のないオリジナル脚本のサイレント映画。孤児の少年が、自分を庇ってくれた盗賊たちと交流しながら、やがて自身が実は高貴な身分であることを知る「貴種流離譚」を主題としている。
物語のクライマックスは、少年を救おうとする盗賊の頭・殿様平次と、彼らを追う役人との壮絶なチャンバラ活劇です。この作品は、活劇の中に少年の純真さが描かれ、盗賊たちの人間味や彼らの献身的な行動が、当時の観客に深い感動を与えた。 活弁士によって語られる物語と、画面いっぱいに繰り広げられるアクションは、見る者の心を掴み、単なる時代劇ではない、人情と冒険に満ちた物語として高い評価を得た。悲劇的な結末が多い任侠映画とは一線を画し、希望に満ちた未来を示唆するラストシーンは、当時の日本人の「忠義」と「義侠心」を映し出したものと言える。
あらすじ
舞台は江戸時代、小雀峠。若くして母を亡くした孤児の小雀(市川幡谷)は、飴売りの行商をしながら一人で生計を立てていた。そんな小雀の純粋な心に惹かれ、彼を助けるようになったのが、盗賊の頭である殿様平次(高木新平)だった。 平次とその一味は、小雀を家族のように可愛がり、平次もまた小雀のために悪事から足を洗い、堅気になることを決意する。
しかし、そんな彼らの前に、小雀の過去を知る者たちが現れる。実は、小雀は立派な旗本の落胤であることが判明し、武士同士のいざこざから彼を狙う追っ手が迫っていた。小雀の身分を知った平次は彼を守るために立ち上がり、小雀の身を狙う追っ手と、平次率いる盗賊一味との激しい戦いが始まりる。クライマックスは、 平次は小雀を立派な身分に戻すために、そして彼自身の義侠心から、命を賭けた戦いに挑んでいく。
またもう一つのクライマックスがある。かつて父は武士の体面から小雀の母となる村娘と別れた。娘が身籠っていることを知らなかったのである。しかし父は村娘のことが忘れられず、ひとり独身をとおしており、小雀の存在を知ったとき、衝撃を受けてついに武士の身分を捨てて小雀と一緒に親子で新たな人生へと旅立っていく。
1923年制作
監督:沼田紅緑
原作・脚本:寿々喜多呂九平 撮影、橋本左一呂
出演者:
市川幡谷(小雀)
高木新平(殿様平次)
市川玉太郎(不死身の三太)
片岡市太郎(望月小平太)
阪東妻三郎
公開日 1931年3月13日(昭和6年3月13日、64分、サイレント映画)
瞼の母の最後のシーン
長谷川伸の原作では、母から冷たく突き放されて飛び出した番場の忠太郎、その後、我に返った母と妹は忠太郎の名を呼びながら籠で後を追うが、忠太郎は隠れたまま返事をしない。二人が行き過ぎてから反対方向に歩き出す。「俺あ、こう上下の瞼を合わせ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔の優しいおッかさんのおもかげが出てくるんだ――それでいいんだ。逢いたくなったら、俺あ、眼をつぶろうよ。」と慟哭しながら去っていく。戦後の若山富三郎版の「瞼の母~番場の忠太郎」(1955年)も原作通りの同じストーリーである。
ところが、戦前の片岡千恵蔵版の「瞼の母~番場の忠太郎」(1931年)では、忠太郎がじっと隠れているところまでは同じだが、そのうち、母と妹が忠太郎の名を必死に叫び続ける声に、忠太郎はだんだん我慢できなくなる。最後についに飛び出して母と妹と抱き合って一緒にわんわん泣きあう。まだ無声映画で活動弁士が活躍した時代、まだ二十代の若き大監督、稲垣浩の裁量で原作が変更されたのか、忠孝の誠の精神に涙する戦前日本人の良心なのか。
じつは長谷川伸自身、悩むのである。舞台の原作でいくつかのケースを書き残しており、最後の飛び出すシーンでは「虚無の心となって・・・」というト書きを入れたものもある。忠太郎の心をズタズタにしてしまった母、虚無の心にならなければ母とまみえることができない忠太郎・・・
あらすじ
嘉永元年(1848年)の春、若き博徒、金町の半次郎は下総の飯岡の親分を襲撃したあと、重傷の身で母と妹のいる武蔵国南葛飾郡の実家に逃れていた。そこへ飯岡の子分二人が敵討ちにやってくるが、半次郎を気にかける兄貴分の番場の忠太郎が駆けつけて二人を斬り倒す。
常陸の叔父のもとへ旅立つ半次郎とその母と妹、忠太郎は半次郎におっかさんのためにも堅気になれと見送る。自身は生き別れた母を捜しに江戸へ向かう。忠太郎は母親を背負って歩く男とすれ違い、うらやましく思う。
嘉永二年の秋、柳橋の料理茶屋「水熊」の前では無頼漢、素盲の金五郎が後家の女将の婿に入って「水熊」を乗っ取ろうとたくらんでいた。
女将と対面した忠太郎は、江州阪田郡番場のおきなが屋忠兵衛という旅籠屋について尋ねる。女将はそこへ嫁いでいたこと、息子の忠太郎が五つのときに家を出たことを認めるが、息子忠太郎は九つで死んだと言い張る。母性の感じられない冷たいおっかさんだった。
金目当てだと疑う女将に、忠太郎はもし母親が困窮していたときのためにと稼業で貯めた金百両を胴巻から出して見せるが、女将の冷たい態度は変わらない。忠太郎は落胆して泣きながら店を去る。
すれ違いに帰ってきた妹は事の成り行きにびっくりしながらも、かけがえのない兄さんじゃないかと母を責める。母は娘可愛さに渡世人の忠太郎に邪険にしたことを後悔して泣き出す。そこに番頭が走りこんできて、素盲の金五郎が女将に恩を売るために忠太郎を切ってやろうと、腕の立つ浪人と一緒に忠太郎を追っていったという。夜のとばりのなか、母と妹は番頭たちと共に駕籠で忠太郎を追いかけていった。
瞼の母 ~番場の忠太郎 片岡千恵蔵版
公開 1931年3月13日(64分、サイレント映画)
原作 長谷川伸
監督 稲垣浩
出演
片岡 千恵蔵(番場の忠太郎)
常盤 操子(水熊のお浜)
山田 五十鈴(お登世)
浅香 新八郎(金町の半次)
安川 悦子(半次の母・おむら)
春日 寿々子(お縫)
瀬川 路三郎(博徒・素首の金五郎)
澤村 春子(夜鷹のおとら)
成松 和一(飯岡の身内・突き膝の喜八)
森田 肇(同・宮の七五郎)
映画「鯉名の銀平 雪の渡り鳥」長谷川伸原作
1931年10月15日 坂東妻三郎
1931年「鯉名の銀平・雪の渡り鳥」
監督:宮田十三一
原作:長谷川伸
主演:坂東妻三郎
概要:坂東妻三郎主演による股旅映画の傑作です。坂東妻三郎の人気を決定づけました。雪景色の中で繰り広げられる見事な立ち回りも鮮やかですが、主人公の悲哀を伴ったヒーロー像は、日本人の「自己犠牲」「滅びの美学」「義理人情」の精神を体現しています。日本人独特の感性を感じ取ることができます。後の任侠映画や時代劇の原型となりました。
坂東妻三郎は、大正末から昭和初期にかけて、「阪妻の前に阪妻なし、阪妻の後に阪妻なし」と称賛されるほどの人気を博しました。本作はその代表作です。
あらすじの解説:世間は矛盾だらけで、やくざの世界でも強いものが弱者を従え、やはり弱者である堅気の人たちを虐げます。お上も非情です。役人たちは自分たちの保身と手柄のために真犯人ではないとわかっていても逮捕して罪を着せます。侠客・鯉名の銀平は、愛する者たちの幸せな生活を守るために、自ら犠牲となって身代わりに捕縛されます。雪景色の中を流離う「渡り鳥」という設定が、浪花節の情感とともに、日本人の美意識に訴えました。
映画「丹下左膳余話 百万両の壺」
1935年6月15日公開 山中貞雄監督、大河内伝次郎主演
監督:山中貞雄
原作:林不忘
主演:大河内伝次郎
概要:隻眼隻腕の剣士・丹下左膳が、偶然出会った孤児を育てながら、百万両の財宝が隠された壺をめぐる騒動に巻き込まれる。
見どころ:笑いと涙が同居する物語展開。孤児との温かな交流に、武士の冷徹な表の顔と人間的な優しさが交錯する。日本人が大切にしてきた「情けと絆」が描かれる。豪放磊落な剣客が、孤児との交流を通して人間味を取り戻す展開。武士道や忠義だけではなく、「笑いと涙」という江戸庶民の価値観が息づいており、笑いと涙を通じて「庶民の温かさ」を映し出しました。子どもとの絆を大切にする心――日本人が持つ「情け」と「絆」が鮮やかに表現されています。
特徴:従来の豪快で荒々しい丹下左膳像を一新し、ユーモラスで人情味あふれる人物像として描きなおした傑作。山中貞雄監督の代表作で、日本映画史に残る名作。
解説:丹下左膳は、もとは冷酷無比な剣客像が知られていましたが、山中貞雄監督はあえてその人物像を刷新し、孤児と過ごす日常を軸に、ユーモアと人情に満ちた物語に作り替えました。武士道と人間的な優しさが描き出されました。わずか28歳で戦死した山中監督の代表作で、日本映画史の金字塔とされています。
映画「綴方教室」
1938年8月21日公開 山本嘉次郎監督、豊田正子原作、高峰秀子主演
概要:東京下町の貧しい家庭に生まれた実在の少女・豊田正子の小学生時代の作文を基に、少女の思いを映画に綴り表現することで、家族や社会の現実が浮き彫りになります。
1938年8月21日公開
山本嘉次郎監督
豊田正子原作
高峰秀子主演
見どころ:東京下町の貧困や家族の愛情が子どもの視点から描かれ、貧乏と困窮の実態をありのままに見事に映像化し、そういう環境下でも日本人の「家族を大切にする心」が強く表出しています。この映画には、昭和初期の東京の下町の実情が克明に映し出されています。そこには、日本人が大切にしてきた「家族」と「庶民の生活」が生き生きと描かれています。
高峰秀子:当時14歳の高峰秀子が少女の目線で演じ、素朴でありながら瑞々しい感性が光ります。純真さと力強さを併せ持つ演技で観客を魅了しました。高峰の実直な演技が、庶民の暮らしをリアルに浮き彫りにする点は必見です。高峰秀子の初期代表作として、彼女の演技の原点と言えます。
解説:実在の少女・豊田正子の作文集『綴方教室』を原作にした作品。貧しい下町の少女が、作文を通じて自分や家族の思いを率直に綴る姿が描かれます。
豊田正子の著作「粘土の仮面」は、本編の舞台である葛飾区立石の以前、墨田区に暮らしていた頃の話。この「粘土の仮面」を原作にした映画が「かあちゃん」(1961)。中川信夫監督、正子役に二木てるみ、母親に望月優子、父親に伊藤雄之助。
1942年8月13日公開(大東亜戦争2年目、83分)
阪東妻三郎演じる荒木又右衛門
日本三大仇討に数えられる実話の歴史的エピソード。
寛永年間、備前岡山の池田藩。藩士たちの尊敬を集めていた老藩士・渡辺靭負は、同じ岡山藩の若い藩士・河合又五郎に切りつけられ、非業の死を遂げる。恩を仇で返された形だ。
荒木又右衛門(阪東妻三郎)は恩師の遺志を継ぎ、渡辺靭負の子息で荒木の義弟の渡辺数馬を指南して敵討ちの助太刀へ赴く。
その過程で旗本と外様大名との対立が浮かび上がる中、鍵屋の辻での「三十六人斬り」の場面は、講談的劇的見せ場を美しく演出。
特に阪東妻三郎の迫力ある立ち回りと、池田監督の構図を活かした演出が光り、「乱闘の美学」が印象的な作品です。
監督: 池田富保
出演: 阪東妻三郎(荒木又右衛門役)
高山広子、
羅門光三郎、
滝口新太郎
池田富保監督は、1920〜30年代の日本映画の黄金期に多くの時代劇や喜劇作品を手がけた実力派でした。
生誕から没後50年を記念した「オールスター映画の巨匠 池田富保監督」デジタル展示会が開催されるなど、近年でも注目され続けています。
特に『伊賀の水月』では、阪東妻三郎という、当時の映画界を代表する俳優と黄金コンビを組み、「乱闘の美学」とも言える演出スタイルを発揮、格式ある時代劇を美的に仕上げました。
本作は、伊賀忍び越えで展開される荒木又右衛門の敵討ち「鍵屋の辻の決闘」に着想を得ています。これは、日本三大仇討に数えられる実話として伝えられる歴史的エピソードです。
映画では、旗本と外様大名(池田藩)との対立にまで発展し、忠義と義理を巡るドラマとして描かれています。
クライマックスとなる「剣雲三十六騎」の乱戦は、講談的な劇性と時代劇の型美を兼ね備えた見どころです。
戦中(1942年)に制作された本作は、戦後にも「剣雲三十六騎」と改題され再公開されるなど、長く再評価され続ける時代劇の名作としての地位を築いています。
現代の時代劇ファンや映画研究者にとっては、戦時下の制作状況や演出美学、語り口の転換(例えば講談的演出への回帰)などを読み解く上で非常に興味深い作品です。
さらに、DVDボックスなどによって映像ソフトとして入手可能であり、現代の視聴者にもアクセスしやすくなっています
『伊賀の水月』が描く「三十六人斬り」の劇的な乱闘は、講談や古典文学における語りの様式や、剣劇の様式美を踏襲した演出です。このような演出手法は、現代の時代劇やアクション作品にも根強く受け継がれています。カメラワークや間合いの取り方において、古典的美学が下地として機能していることは明らかです。
「荒木又右衛門・鍵屋の辻の決闘」は本作以後も複数の映画化・再解釈がなされており、例えば1952年の黒澤明関連脚本による『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』、1953年の再編集版『剣雲三十六騎』、さらには長谷川一夫主演の1958年版などが存在します。こうした映像変遷は、同じ素材が時代や技術をまたいで再解釈される「継承と革新」の好例として、現代映像作家への刺激源となっています。
時代劇から現代のアクション映画、特に国際的にも評価される娯楽作品(たとえば北米や欧州でも注目される「サムライ・アクション」ジャンル)には、忠義や責任、精神性をめぐる倫理観がしばしば描かれます。これは『伊賀の水月』で描かれる「義父への忠義」と「仇討ちの道徳」に共通するテーマです。
また、redditなどでは日本の古典時代劇からアニメへの影響を論じる声もあり、特定のイメージよりも戦後以降の「日本的美意識」や「人間ドラマ」の共有が広く影響を与えているという見方がなされています。
映画「愛の世界・山猫とみの話」
1943年1月14日公開(大東亜戦争3年目、93分)
監督:青柳信雄
主演:高峰秀子
概要:戦時下に製作された文芸映画。貧しい少女「山猫とみ」が、逆境の中でも明るく健気に生きる姿を描く。
特徴:高峰秀子が主演女優として大きく飛躍した作品。厳しい時代背景の中で、人間の強さと優しさを描き出す。戦時下の映画でありながら、ヒューマンドラマとして普遍的な魅力を持つ。
見どころ:貧しさや困難を「明るさ」で乗り越えていく主人公像。高峰秀子のひたむきな演技が観る人の胸を打ち、「人間の生きる力」を感じさせる。
解説:戦前戦中の日本社会の包容力、懐の広さを感じさせる。神との関係を喪失し、人間に支配された疎外感の苦悩の中で、自暴自棄にながらも、そこから這い上がろうと健気に生きる少女「山猫とみ」と、彼女を見守る戦前の包容力のある大人たちの温かいまなざしが描かれています。主演の高峰秀子は少女期から大人の女優へと成長する過程にあり、その演技にはひたむきさと凛とした力強さが光ります。人間の尊厳と生きる力を描こうとする姿勢は、神々の宿る日本列島で、日本人が神々に見守られながら困難を乗り越えようとする精神を象徴しています。
見どころ:高峰秀子が少女期から大人の女優へと成長していく転換点の作品。神々が見えなくなってしまった強力な疎外感の中で、ひとり困難を乗り越えようとする主人公の苦悩を見事に演じています。
映画「晩春」
公開1949年9月19日(戦後4年目、105分)
監督:小津安二郎
主演:原節子
概要:鎌倉に暮らす父と娘の物語。結婚適齢期の娘・紀子と父・周吉の穏やかな日常の中に、娘の結婚問題をめぐる葛藤と別れの切なさが描かれる。
特徴:小津安二郎の戦後代表作であり、「小津スタイル」が確立された作品。原節子と笠智衆の名演、静謐なカメラワーク、余韻ある結末が高く評価される。
見どころ:父娘の情愛の深さと別れの美学。派手さはないが、日常の中に潜む「日本人の心の機微」を静かに描き出しており、日本映画の古典として必見。日常を淡々と描くことで、人間関係の深い情感が浮かび上がる「小津美学」。原節子の清楚でありながら複雑な心理を表現する演技、ラストに漂う余韻は、日本映画史に残る名場面です。
解説:戦後の鎌倉を舞台に、父(笠智衆)と娘(原節子)の静かな生活を描いた作品。娘の結婚をめぐる葛藤と、父娘の別れの切なさを通じて、日本人の家族観・結婚観が浮き彫りになります。小津安二郎が戦後映画のスタイルを確立した代表作で、世界的にも高い評価を受けています。小津安二郎監督、原節子主演による戦後の名作です。鎌倉に暮らす父と娘の、穏やかでありながら切ない日常。結婚適齢期を迎えた娘・紀子の人生をめぐって、父と娘が互いを思いやりながらも別れを迎える姿が描かれます。
この映画には、華やかなドラマではなく、日常の中に潜む心の機微が丁寧に描き込まれています。父娘の深い情愛、そして「別れの美学」。日本人が大切にしてきた「控えめな愛情」や「静けさの中の深い情感」が、映像を通して伝わってきます。世界的に評価される所以も、まさにこの繊細な表現にあります。
ストーリー(Movie Walkerより)
曽宮周吉は大学教授をしながら鎌倉に娘の紀子と二人で住んでいた。周吉は早くから妻を亡くし、その上戦争中に無理した娘の紀子が身体を害したため長い間父と娘は、どうしても離れられなかった。そのために二七歳の年を今でも父につくし、父は娘の面倒を何にくれとなくみてやっていた。周吉の実妹、田口まさも曽宮家に出入りして彼等の不自由な生活の一部に気をくばっていた。このごろでは紀子も元気になり、同級生であり友達でもある北川アヤと行来していた。アヤは一たん結婚したが、夫の悪どい仕打ちに会い今では出もどりという処。また周吉の助手をしている服部昌一も近々結婚するという。気が気でないまさは、何んとかして紀子を結婚させようとするが、紀子は首を縦にふらなかった。一度は助手の服部と紀子を結ばせようと考えていた周吉とまさは、服部にはすでに許婚があると聞いて思い直し、新に候補者をすすめるのであった。一方周吉と昔から親友である小野寺は、京都の大学教授をやっていた。たまたま上京した際、紀子に後妻をもらったと言って、不潔であると言われた。紀子はそれから父の動きをそれとなく伺っていた。叔母のまさは茶会で知った三輪秋子という美しい未亡人を心の中で兄の周吉にと考えていた、それを紀子に、彼女の結婚を進めながら話してみたが、紀子は自分の結婚よりも父の再婚に気をとられていた。紀子はそれからというものはなんとなく変っていった。北川アヤには結婚しなさいと言われても、気がますますいらだってくる。ある日紀子は父に再婚の意志を聞き正してみた。父は再婚するという返事たっだ。紀子はこのまま父と二人で暮したかったが、自分の気持がだんだん弱くなって行くのを知った。叔母のまさに承諾を与えた紀子は、最後の旅行を父と共に京都に赴いた。京都では小野寺一家の暖い家庭のフンイ気につつまれて、紀子がいつか小野寺の叔父に言った「不潔」と言う言葉を取り消した。京都から帰った紀子はすぐ結婚式をあげた。周吉は娘の紀子を新婚旅行に送ったあと、北川アヤに再婚するのと聞かれ、「ああでも言わなければ紀子は結婚せんからね」と答えるのであった。彼は一人五十六歳の身を今はさびしい鎌倉の吾が家にがっかりした様にいつまでも身を横たえていた。