詩吟の文化
詩吟の文化
頭山満と鈴木吟亮
実写:頭山満と初代鈴木吟亮 詩吟:河野天籟作「祝賀の詩」
頭山満と吟亮流初代 鈴木吟亮
このフィルムの2名の人物のうち白髪長髯の人は、戦前一世を風靡した頭山 満翁であり、もう一人 会社の若手経営者のようなかつ又貴族的な顔つきの人物は、詩吟吟亮流の初代宗家鈴木吟亮である。
頭山は戦前期、明治 大正 昭和を通して大西郷亡きあとの日本第一の国士といわれた人物であるが、戦後GHQ が主導した東京裁判とその後行われた、日本国民再教育計画のプレスコード30項目により日本の歴史から「消された」近代日本を代表する傑物である。
吟亮は吟風会を1930年(昭和5年)に立ち上げた。そして、この吟風会の最大の後援者が頭山であった。吟亮は薩摩琵琶の名人永田錦心の高弟として名を博し、詩吟に琵琶の曲調を取り入れた独特の吟調を工夫して、抒情的な節調の吟亮流を創設した。
吟亮は昭和10年頃から多くの吟詠レコードを制作発表した。中でも、古賀政男作曲「白虎隊」は有名である。吟亮は昭和30年頃より吟詠芸術を目指し、「月下独酌」、「祇園街」など、芸術性豊かな格調の高い作品を多く残した。
写真:犬養毅と頭山満
その他、NHK の吟詠放送、映画「明治天皇と日露大戦争」では、乃木将軍の「金州城下の作」を吟じている。吟詠の指導者として、大日本吟詠連盟理事、全国朗吟文化協会会長、財団法人日本吟剣詩舞振興会元老などを歴任した。そして、永年の吟詠文化発展に尽くした功績により昭和47年、藍綬褒章を受章した。
頭山は琵琶や詩吟など日本文化全体の普及 発展に多大の貢献をした。すなわち、多くの若手琵琶師や吟詠家を支援し、育てた。まさに、損得を抜きにして尽力した。その代表者たちの名をあげると、筑前琵琶の橘旭翁、詩吟「日本詩吟学院」の木村岳風、「吟亮流」の鈴木吟亮などである。
頭山は国士として政界、実業界に隠然たる影響力を持っていたばかりではなく、日本の伝統文化の発展にも真心をもって貢献をした事を我々は忘れてはならない。頭山には存在そのものが人を震撼させるような威厳があり、その姿、立ち居振る舞いは、日本の伝統的精神、言い換えれば武士道を見るような風格があった。そして、その姿は、将に日本精神の「慈愛と利他の精神」そのものであった。
(大島司)
参考「詩吟発達の歴史」中村長八郎
「頭山満伝~玄洋社がめざしたした新しい日本」井川聡
木戸孝允と鈴木吟亮
写真:木戸孝允(桂小五郎)
木戸が「偶成」を書き上げたのは、大村の死を聞いた直後であったと思われる。木戸は山荘に黙然として座し、自らの眼を照らすひとすじの竿灯をながめる。まぶたに浮かぶのは、志半ばに斃れた幾多の志士たちの無念の憶いである。木戸はこれを「世難、多年、萬骨枯れ」と詠じる。またそれ以上に寝つかれないほどに案じられて已まないのは新生明治日本の前途であり、三千萬国民の行く末である。
最後に「偶成」を書いた木戸の心のあり様、すなわち憂国の至情を味わいつつ解説を締めくくりたい。「邦家の前路容易ならず、三千余萬の蒼生をいかんせん」と。
参考文献:公益財団法人関西詩吟文化協会HP、ウィキペディア木戸孝允
ーー木戸孝允、憂国の至情ーー
「ひとすじのさびしげな灯火があかあかと己の眼を照らしている中で、黙座し、思いにふけっていると次々と感慨がわいてくる。
かえりみれば、幕末維新に国事に奔走した親友たちはすでにこの世にない。立派な男子はひたすら国家のために身を犠牲にするのであって、一身の名誉などをはかるものではない。
志士たちは命を失い、維新後の政府もめまぐるしい勢力争いで幾度もその様子を変えた。歳月は流れる水のごとく二度と帰らない。草木が春の榮えを競うように、人々も春の榮えを追っている。
国家の前途はまだまだ容易ならざるものがあるのに、三千余万の国民をいったいどうしたものか。
静かな山荘の夜中、心配で寝つかれないでいると、周りの峰々には風雨の音が鳴り響いている。」
令和6年11月3日、大島司
詩吟という言葉が生まれたのは、江戸時代初期に徳川家康が儒学を奨励し、林道春が湯島に設立した昌平校で漢詩を講義した際に、自然発生的に朗誦の旋律が生まれたことに端を発します。これを「昌平流」と呼び、現代吟詠の祖とされていますが、平安時代の朗詠とは直接関係がなく、拍子をほとんど持たない朗詠とは異なる特徴を持ちます。昌平流は単調で、一句ごとに息を切る吟じ方が特徴でした。
江戸時代後期になると、老中松平定信の学問奨励により各藩に藩校が設立され、昌平校で学んだ俊才たちが帰藩して漢詩の講義を行う中で吟誦が広まりました。これにより、仙台(養賢堂)、米沢(興譲館)、会津若松(日新館)、水戸(弘道館)、熊本(時習館)など、各藩校の名を冠した流派が生まれました。これらの吟は、漢詩に多少の節や地方の訛りが加わった程度のものでした。 また、この時代には私塾が急増し、亀井南冥(亀井流)、広瀬淡窓(淡窓流)、頼山陽(山陽流)といった著名な学者が独自の吟法を展開しました。特に淡窓流は、今日の吟詠の主要な源流の一つとされており、起承転結の作詩法を重んじ、第一句の四字目、第二句の二字目で息を入れ、句末で切る(二句三息と言います)という特徴的な区切り方を用いました。 幕末になると、詩吟は校歌や寮歌の性質から、尊王攘夷の志士たちの間で「勤王節」と呼ばれる革命歌調へと変化しました。これには淡窓流や勇ましい山陽流、薩摩琵琶などが影響を与えました。久坂玄瑞のような志士も詩吟の名手とされていますが、その音楽的価値は当時の他の邦楽(浄瑠璃、三味線音楽など)に比べて優れていたとは考えられていません。また、福岡藩の国学者二川相近らが今様集を出し、勤王の志士たちも今様詩を作ったことから、今様も詩吟、特に和歌の朗吟に大きな影響を与えました。
明治維新後、幕府や大名に保護されていた一部の日本音楽界はスポンサーを失い、新政府の西洋音楽教育優先政策により衰退しましたが、詩吟は地方で細々と受け継がれました。特に熊本では藩校時習館を源流とする肥後流が、明治期には済々校節として学生の間で流行しました。この時期には薩摩琵琶の影響も受け、旋律が固定化されるようになりました。 明治27年には尾崎弥太郎によって、詩吟の旋律を五線譜で記した現存する最も古い楽譜集『日本詩吟集』が発行されました。この頃、詩吟は学生の逍遙歌としても盛んに行われ、「トッセン」(唐詩選の朗吟)と呼ばれていました。 また、元田永孚が明治天皇の御前で、杉浦重剛が皇太子(後の昭和天皇)の御前で詩吟を披露するなど、高官たちにも愛好されました。
明治末期から昭和初期にかけては、詩吟が剣舞の伴奏や無声映画の「吟士」として劇場に進出し、興行的な成功を収める例も見られました。
大正から昭和にかけて流行歌に押され低迷しましたが、ラジオやレコードの普及は詩吟の飛躍的な広がりを牽引し、満州事変や支那事変、太平洋戦争の進展に伴う国民精神高揚の奨励により、空前のブームを巻き起こしました。昭和9年には全国詩吟大会が初めて開催され、翌年には日本放送協会主催の第一回全国放送詩吟大会が行われました。この大会は大きな反響を呼びましたが、点数や声質のみで優劣を判断することへの疑問などからわずか2回で中止されました。昭和13年には大日本吟詠連盟が結成され、翌年には関西愛国詩吟連盟との提携が実現するなど、吟詠界の統一に向けた動きが見られました。当時の詩吟の吟調は、琵琶調の影響が強く、豪壮なものが好まれる傾向にありました。また、詩吟には拍子がはっきりしない、あるいは無いという独特の特性があり、これは声明を祖とする朗詠や追分などと同じ系統に属します。この拍子の制約のなさが、詩吟が広く普及した魅力の一つであると指摘されています。海外においては、雨宮国渢が昭和12年に米国やカナダで詩吟を普及させるなど、国際的な広がりも見せました。朝鮮においても昭和7年には京城詩吟朗詠会が発足し、詩吟の普及が進められました。戦前の詩吟は悲憤慷慨の情を表し、怒号する傾向があったとされますが、これは漢詩の詩情を声で表現する技術としての宿命であり、作詩者や吟者の多くが逆境にあった人々の間で発達した経緯によると考えられています。
戦後はしばらくGHQの方針により詩吟は禁止されていましたが、昭和26年ごろからの高度成長期には許されるようになり、大学の詩吟や、女性の社会進出に伴う女流吟詠家の人気が高まりました。
その後、日本吟剣詩舞振興会が発足し、全国統一の審査方法が適用され、全国各地で予選を行い、全国決勝大会、そして武道館における吟詠と剣詩舞の祭典も含めて大きなブームが再燃しました。現在は日本財団の支援の下、青少年育成の指針により運営されています。
詩吟で詠われる漢詩は多岐にわたりますが、その時代背景や目的によって選ばれる詩の種類や吟調に特徴が見られます。詩吟は主に漢詩を素材としています。
江戸時代には、単調で、一句ごとに息を切る朗誦に近いものでした。後期には、藩校での講義を通じて各地に広まり、中でも広瀬淡窓の「淡窓流」が今日の吟詠の主要な源流の一つとされ、起承転結の作詩法を重んじ、句の区切り方に特徴がありました。塾歌である『桂林荘雑詠(休道他郷苦辛多)』などに代表されるように、塾生の精神的な支えや学問奨励の役割も果たしました。
幕末には、吉田松陰の『吾今為国死』や真木和泉の詩吟は大きい声を張り上げて詩を読んだものと解釈され、時代の気運を高める役割を担いました。
明治・大正時代には、乃木希典の漢詩(例: 『金州城外作』、 『凱旋』など)は特に人気を博しました。また、元田永孚が明治天皇の御前で自作の『芳山帯刀歌』を、杉浦重剛が皇太子(後の昭和天皇)の御前で雲井竜雄作の詩を披露するなど、高官にも愛好されました。この時期、詩吟は剣舞の伴奏や無声映画の「吟士」として劇場にも進出し、字幕の詩を吟じることで物語を盛り上げる役割を果たしています。
昭和時代(戦前)には、琵琶調の影響が強く、豪壮な吟調が好まれ、乃木希典の詩が多く吟じられました。詩吟で詠われる漢詩は、その文学性、倫理性、歴史性さが重視され、道徳心を高め、国民精神を鼓舞する目的で選ばれることが多かったと言えます。また、の情景や感情を声で表現しました。拍子が明確でないという詩吟独特の特性が、自由な表現を可能にし、広く普及した魅力の一つとされています。
監督:渡辺邦男 主演」嵐寛寿郎 製作費:2億円 興行収入:8億円
挿入吟:鈴木吟亮(金州城下の作、爾霊山)
ロシアの南下政策に戦々恐々とする人々、武力侵攻を主張する七博士、御前会議、国交断絶……と、日露戦争開戦までの経緯が描かれ、仁川上陸、旅順港封鎖、黄海大海戦、203高地、奉天入城、日本海海戦、大勝利の提灯行列までを、明治天皇の御製を織り込みながらパノラミックに描いた歴史ドラマ。
それまでの日本映画では天皇の姿を出すこと自体がタブーだった中、不振続きの新東宝が「ここ一番の大勝負」と、天皇をネタにすることを思いついた。担当者は天皇役の主演の嵐寛寿郎に連絡し、「日露戦争の話です。詳細は社長と渡辺監督から申し上げます」と切り口上で返すだけ。嵐は「乃木将軍でも演れとゆうことかいな」と思ったらしい。
翌日、本社に出向いた嵐寛寿郎に、大蔵社長は「明治天皇を演ってほしい」と切り出した。嵐寛寿郎は吃驚仰天し断ったが、渡辺監督は「大丈夫や、ボクかて右翼やないか」と返し、大蔵は「この作品に社運をかける、製作費2億円!」と熱弁を振るい、「寛寿郎くん、大日本最初の天皇役者として歴史に残りたいと思わんか?」と説得にかかった。元活動弁士仕込みの説得力もあり、嵐寛寿郎は「考えさせてもらいます」と答えたが翌日の新聞には、でかでかと「『明治天皇と日露大戦争』と、宣伝部が発表してしまった。こうして嵐寛寿郎は、この大役を引き受けざるを得なくなった。
■日本初の「天皇役者」
嵐寛寿郎は、前代未聞の明治天皇役をどう演じるか悩んだ。その姿を見た大蔵は一計を案じ、嵐寛寿郎が撮影所に来る時にはハイヤーで送迎し、ハイヤーが新東宝撮影所に到着すると大蔵以下新東宝の重役、スタッフが勢揃いして出迎えし「陛下のおなり」と呼び合うことを日課とした。嵐寛寿郎は後年、この日課により「自分が本当に天皇陛下になった気分がした」と述懐している。
嵐寛寿郎は日本初のこの大役に、「雲の上のお方で人間臭い演技でけしません、ニッコリ笑うてもあかん、とゆうて能面のように無表情ではアホにしか見えん」と四苦八苦する。
「もし昭和天皇をそっくり真似したらそれこそ不敬罪、喜劇になってしまいよる、お手本おまへん」、「象徴的にイメエジつくらんならん、これが天皇陛下やと見る人に納得させな主役として落第や、ほんまに苦労しました、この役づくりは」と振り返っている。
撮影に入ると、宮家の人間や元・海軍中将といった人たちが大勢来て、顧問料をもらっていろいろと指導してくれた。が、実際は誰も明治天皇をそばで見た者などおらず、その通りにやっても芝居にならないため、嵐寛寿郎は聞き流したという。結局、「おのれの心にあるイメエジで、恐れ多いお方や、大偉人やと思うままに演じればよい」と思った。宮内庁からは「皇室関係を描くときには宮内庁の許可を得よ」とクレームが来たが、このときも天皇になったつもりで「さようか、よきにはからえ、まことに気分がよろしい」という調子だった。
■空前絶後の大ヒット
こうして昭和31年12月、「日本初のシネマスコープ大型映画」として製作を開始した本作は、翌年、4月29日に、「総天然色・シネパノラミック方式“大シネスコ”」、「全国民が一人残らず見る映画!」と銘打って公開された。
試写会は、皇太子(明仁上皇)も鑑賞した。近代の天皇を俳優(嵐寛寿郎)が演じることに対し「不謹慎ではないか」という批判や、試写会後にも「敗戦後10年少々しか経っていない今、50年も前の勝ち戦を描く企画に無理がある」という評もあったが、公開されるや空前絶後の記録的な大ヒット映画となった。
上映した全ての映画館はすし詰めの超満員となった。戦前の日本と日本人の姿がそのまま再現された映画であり、進駐軍の占領を経て戦前の日本と手を切ったはずの民衆に衝撃を与えた。観客動員数は2000万人、「日本人の5人に1人が観た」と言われ、日本の映画興行史上の大記録を打ち立てた。
詩吟は基本的にミファラシドの5つの音しか使いません。
ミを「基音」として、上下に9つの音をいったりきたりします。
これだけの限定的な音であるので普及しやすかったのと、逆に詩心表現の難しさ、奥深さがあると考えられます。
3つのアクセント(日本語はすべて以下の3つのうちのどれか、です)
あたまだか さいたま
へいばん とうきょう
なかだか(なか2だか、なか3だか、) なまぐさい→なか3だか、“まぐさ”が高い)
11月11日に武道館大会にて約40人で以下の「金州城下の作」「爾霊山」を詠います。
金州城下の作
山も川も草も木も砲弾の跡が生々しく、見渡すかぎり荒れ果てた光景になっている。戦いがすんだ今もなお血生臭い風が吹いている。
私が乗る軍馬は進もうとせず、兵士もまた黙して語らない。夕陽が傾く金州城外にしばらく茫然とたたずんでいた。
爾霊山
二〇三高地はいかに険しくとも、どうして攀じ登れないことがあろうか。男子たるもの、功名を立てようとするならば、艱難辛苦に打ち克とうという覚悟が肝要である。
その決意のもとに激戦し、ついに砲弾の鉄片と将兵の尊い血が山を覆うて山の形さえ変わってしまった。誰しも皆この地を仰ぎ見るとき、嗚呼(ああ)爾(なんじ)の霊の山と、等しく仰ぎ慰めるであろう。
以 上(小林慎一郎)
複数の詩吟の歴史に関する文献をGooglenotebookLMのソースに入れています。古い書籍なので、著作権のありかが不明で出版社自体も消滅しているので、公開はしていません。
今回は「明治大正時代の吟詠家はどの様な方がいらしたか」を聞いてみました。
昭和になってからの吟詠家は、現存する流派の流祖として知られる場合が多いですが、明治大正にどのような吟詠家がいらしたかは私でもよく知りませんでした。特に明治時代はネットでは情報が見つかりませんでした。皆さんのご参考になれば幸いです。
■主に明治時代に活動した詩吟家
①元田永孚(もとだ ながざね):明治天皇の御前で詩吟を吟じた記録があります。明治10年11月21日の宮中での観菊の宴で、天皇の御命により「出師の表」を吟じました。当時の詩吟はレコードのない時代であったため、多少の節をつけた朗読ないし朗誦の部類であったと考えられています。
②杉浦重剛(すぎうら じゅうごう):明治時代から詩吟を行っていたとみられ、その吟は素朴で漢文の朗読に近かったとされています。大正10年には、皇太子(後の昭和天皇)の海外ご帰国を記念する晩餐会で雲井竜雄作の詩「送釈大俊師」を吟じ、数日後には記念としてレコード録音もしています。
③頭山満(とうやま みつる):明治から昭和にかけて活躍した政治活動家ですが、詩吟を愛し、自らもよく吟じていました。松口月城氏によれば、江戸時代後期に生まれた「南冥流(亀井流)」の朗誦を得意としていたとされています。
ちなみに以下の写真が我が家の床の間に飾ってありました。幼少の私は曾祖父だと思ってましたが、後に頭山満先生だとわかりました。
右が頭山満先生、左は祖父・初代吟亮)
④柴田文城(しばた ぶんじょう):頭山満の姪婿にあたり、福岡では「第一の吟詠家」と称されていました。彼は「亀井流」を最もよく体得しており、後の政治家・中野正剛も彼から亀井流の詩吟を習いました。
⑤清浦奎吾(きようら けいご):広瀬淡窓の私塾「咸宜園」の最後の塾生の一人で、慶応元年(1865年)に入塾し、明治5年に故郷の熊本へ帰りました。彼は昭和10年代に淡窓流の保存を目的としてレコードを録音していますが、彼の詩吟が淡窓時代のムードを正確に伝えているかについては議論があります。
⑥松井茂(まつい しげる):法学博士。中学時代から大学に至るまで盛んに詩吟を行っており、第一高等学校時代には学生大会で詩吟がしばしば行われたと述べています。彼は明治26年の大学卒業後も官吏生活を通して詩吟を中断したことがないと語っています。
⑦野田藤馬(のだ とうま)、三宅恒(みやけ こう)、柴田家門(しばた かもん):松井茂氏の証言によれば、彼らは松井氏の第一高等学校時代やそれ以前に詩吟家として有名でした。柴田家門は後に文部大臣を務めています。
⑧今村均(いまむら ひとし):後の陸軍大将。明治44年頃、蓄音器とレコードを購入し、その中には詩吟のレコードも含まれていました。彼は詩吟に熱中したと語っています。
⑨井上良山(いのうえ りょうざん):日露戦争当時、神戸で「詩吟警視」として知られた人物です。
⑩上田虎之進(うえだ とらのしん):久坂流の詩吟を明治、大正時代に得意としていたとされています。
⑪青木清次(あおき せいじ):明治年間に従来の藩校流に独自の節調を加え、新たに「米沢流」を発表しました。
⑫本間鬯(ほんま ちょう):水戸流の詩吟家で、幼少期から詩吟に親しんでいました。
■主に大正時代に活動した主な詩吟家
①渡辺縁村 (わたなべりょくそん) :大正中期に東京高円寺に学生塾「皇風寮」を創設し、青少年教育の一環として詩吟指導に尽力しました。これは組織的な詩吟指導の始まりとされています。彼は大正から昭和にかけて、洋楽風の流行歌に押されて忘れられかけていた詩吟を、職業として確立したパイオニアの一人です。
②岩渕神風 (いわぶち しんぷう) :渡辺縁村と共に、詩吟の指導者として最も古くから活躍した人物であり、詩吟の個人教授を始めた最初の専門家と考えられています。彼は「金はいりません。私にいのちの限りやらせてください」と述べ、軍隊への慰問活動などを通じて詩吟を広め、有識階級への普及に貢献しました。
③木村岳風 (きむら がくふう) :大正末期から昭和初期にかけて活躍し始めました。元々は琵琶(錦心流)の演奏家でしたが、関東大震災後に横浜から東京に出て琵琶を教えていました。昭和5年(1930年)には詩吟の専門家への転向を決意し、井上静穂氏の助言を受けて朝鮮や満州で講習会を開き、レコードの予約を取り、昭和6年に詩吟のレコードを世に送り出しました。これにより、「詩吟のレコードといえば岳風のレコード」という時代を築き、詩吟の普及に大きく貢献しました。
④上田虎之進 (うえだ とらのしん) :久坂玄瑞の流れを汲む「久坂流」の詩吟を明治・大正時代に得意としていました。
また、その他著名な先生方の名前が抜けているような気もしますが、当時の文献では、全国汲まなく情報が行き届かず、隠れた名士がいらっしゃった可能性は高いと思われます。それにしても、現在もこれらの大先生の流儀を継ぐ流派がいかに少ないかがよくわかります。詩吟・吟詠は伝統文化なのか?は、十分に討議すべきテーマかもしれません。