岡本太郎と日本の祭り
岡本太郎と日本の祭り
岡本太郎と日本の祭り
岡本太郎と日本の祭り(川崎市岡本太郎美術館)
二玄社2011年4月15日発行
祭は人生の歓び、生きがいだ。ふだん人は社会システムに巻き込まれ、縛られて、真の自己存在を失っている。だが祭りの時にこそ宇宙的にひらき、すべてと溶け合って、歌い、踊り、無条件に飲み、食らい、全人間的なふくらみ、つまり本来の己をとりもどすのだ。歓喜の爆発。
あらゆる民族に、さまざまの独自な祭がある。北の氷雪にとざされた過酷な世界にも、南国の極彩色にひらいた豊かな自然の中にも。山には山の、海には海の祭。農耕、狩猟、漁撈、 遊牧、それに都市の市民層。生活形態や環境に応じて、それぞれの「いのち」を燃え上がらせ、生きがいを確かめて来たのである。
本来、人間の営みは何らかの形で自然と対決しながら生きて行かなければならない。 それが運命だ。労働し、生産し、蓄積する。生活を支えるためのさまざまの日常的条件はきびしい。それは人間にとって確かに、生きる手応えであり、よろこびであると同時に、また一緒の絶望感でもある。
そもそも生物としての人間、自然的存在はどんなにちっぽけな、取るに足らぬいのちでも、非力でも、宇宙の中に生まれるべくして生まれ、すべてと合体していたのだ。それが人間としての意識を身につけはじめてから、狭い分際、限界の中に閉じ込められる。自分自身で身の程をわきまえて、宇宙的存在感から己を切り離してしまう。自分の力や価値を相対的に捉えるようになって、絶対感を失うのだ。
しかし、全存在でありたい。確かに、日常の生活は秩序なしには成り立たない。 ルールに従い、苦労して糧を得る。 だがそういう、社会生活を維持していくための規制、ノーマルな掟とは別のスジが、人間をつき動かす。ある時期に、突然秩序をひっくりかえす。いわば社会の対極的力学の不可欠の要素として、無条件の生命の解放、爆発が仕組まれている。そのとき人間は、日常の己を超えて燃えあがり、根源的な炎、宇宙と感動的に合体するのだ。
それが祭りだ。
だから祭りの時は日常の価値観とか、守らなければならないさまざまの規制から脱し、ふみこえる。反日常性が祭本来のあり方と言える。実例をあげればきりがないが、面白い情況がいろいろある。例えば、村の中でふだんは馬鹿にされ、卑しめられている、不具とか盲目、あるいは痴呆というような者が、祭の時だけ王様のように奉られたりする。みんなが裸で荒れまわったり、暴力的な昂揚や、 人死にまで許される。誰でもが歌い、腰の曲がった爺さん婆さんでも踊りだし、朝から酒を飲み、ふんだんに飲み食いし、勤倹貯蓄の美徳をこの時ばかりは蹴とばして、馬鹿々々しいような大盤振舞いもする。それにふだんなら絶対に許されないフリーセックス……。
まったく無条件に互いにひらきあい、消費することは祭の大きなポイントなのだ。物質的にも、生命力の上でも、無目的に消費することによって宇宙と合体する。存在の絶対感をとりもどすのである。
祭は本来はまったく無償の行為なのである。無目的、無条件に爆発し、エネルギーを消費する。そこに逆に、新しい生命力がふきあがる。祭は生命の循環のドラマチックな擬集だ。
日本語には「はれ」と「け」という言葉がある。その対極の断絶が激しければ激しいほど、生命力は充実し、緊張する。かつて祭は年に一回、或いは数年に一回のこともあった。お祭の時にだけもりあがった色・音・形。誰でもが食べたり飲んだり踊ったりする自由。そのために人々はふだんは営々と努力し、ひたすら励む。だからこそ祭の昂揚も激しいのだ。
ところで、実に今日社会のシステム、政治経済の条件は、本来の祭を消滅させつつあるのだ。生産形態が変わり、生活が近代化された。人々の意識も当然変化する。伝統的な祭も次第に意味が忘れられ、切実さを失ってくるからだ。
いま残ってる祭といえば、ほとんど観光資源になっている。形ばかり華やかに保存されても、人集めの見世物にすぎない。一方、万国博とかオリンピックなどという現代的な祭が生まれているが、これも一般の誰でもが主体的に参加し、創ったり、踊ったり、競技するわけではない。ただ観客として、見物するだけ。どんなに盛大でも、自分がやるという責任と情熱を抜きにして、ただ眼だけで眺めている催しでは意味はない。
更に別の角度から言えば、今日の不幸は、祭がしょっちゅう日常的に、小出しに切り売りされているということだ。夜の街の盛り場、劇場や映画館、バー、キャバレー、 ディスコテックの乱チキ騒ぎ。家でゆっくりしてる時でさえ、茶の間でテレビをひねれば踊ったりはねたり歌ったり、プロ野球もあればお相撲もある。祭のイリュージョンはあらゆる所にばらまかれている。それだけに、自分のすべてを賭けた絶対感、渦の中にとけ込むというような、全体的なもりあがり、集中はない。あとでは白々とした空しさが残るだけだ。
現在人のシラケとよく言われる。 虚無感はあるがそれがどこから来ているのか、己自身で解らないでいる。何か生きる手ごたえをしっかりつかんでいないという漠然とした不安……一人だけの場でそれを克服しようとしても、なかなか難しい。狭くとざされるだけ。
祭はみんなで一緒に燃え上がる。そこは大切なところだ。その中で自己発見し、本来の人間的充実をとりもどすのだ。
かつての祭りにおいて、人々は超自然の神秘と交通し、ふだんの自分でない、自分を超えた存在になった。みんなが一体になって祭を創り上げたのだ。
現代生活にはかつてのような神聖感はない。 だが「人間」であることの深さと豊かさ、怖ろしさをも含めて、新たな決意で人生に対面し、存在の凄みに戦慄することは出来るだろう。 それは新たな、生きるよろこびを回復することだ。 そのような衝撃的なチャンスとして、すべての人が身をもって参加する祭を創造したい。これが本当の人生であり、芸術であるからだ。
岡本太郎