柳生宗矩(2)

柳生但馬守宗矩は父但馬守宗厳〔むねとし〕にも勝れる剣術の上手であった。徳川三代将軍家光の師範となり、一万五千石にまでのぼった人であるが、武芸のみならず才智も勝れ政道にも通じていた。

ある時、この宗矩、稚児小姓に刀を持たせて庭の桜の盛んに咲いたのを余念なく見物していたが、その時、稚児小姓が心の中で思うよう、

「我が殿様がいかに天下の名人でおいで遊ばそうとも、こうして余念なく花に見とれておいでなさる所を、この刀で後ろから斬りかけたらば、どうにものがれる道はござるまい。」

そういう心が、ふとこの稚児小姓の胸のうちに浮んだのである。

そうするとその途端に、但馬守宗矩はきっと四方を見廻して座敷に入り込んでしまったが、なお不審晴れやらぬていで床の柱にもたれ物をもいわずに、一時ばかりじっとしている。近侍の面々が皆怖れあやしみ、若しや発狂でもなされたのではないかと陰口をきくものさえあったが、やがて用人某がようやくすすみ出で、

「恐れながら先刻よりお見うけ申すに、御顔色が何となく常ならぬように拜見いたされます、何ぞお気に召されぬ事でもござりましたか。」

それを聞いて宗矩が答えていう。

「さればよ、自分は今どうしても不審の晴れやらぬことが起ったので、こうして考えているのだ。それは自分も多年修練の功によって自分に敵対するものがある時は、戦わざるにまず向こうの敵意がこちらへ通るのである。ところが先刻庭の桜をながめていると、ふと殺害の気が心に透った、ところがどこを見ても犬一匹だにいない。ただ、この稚児小姓が後ろに控えているばかりで、敵と見るものは一人もいないのに、こういう心がわれに映るのは、我が修練の功いまだ足らざるか、それを心ならず思案しているのだ。」

というのをきいて、その時稚児小姓が進み出で、

「左様に仰せらるればお隠し申すことではございませぬ、恐れ入りました儀ながら、先刻私の心にかくかくの妄念が浮びました。」

と言い出したので、宗矩の気色も和らいで、

「ああ、それでこそ不審が晴れた。」

といって、はじめて立って家へ入り、何のとがめもなかつた。

この宗矩は猿を二匹飼って置いたが、この猿ども日々の稽古を見習って、その早わざが人間にも勝ったものになった。その頃槍術をもって奉公を望む浪人があり、但馬守のもとへ心やすく出入りしていたが、ある時宗矩の機嫌を見合せ、

「はばかりながら、今日はなにとぞお立合下さって、それがしが芸のほどをお試し願いたい。」

と所望した、宗矩が答えて、

「それはやすきことである。まずこの猿と仕合をしてごろうじろ、この猿が負けたらば拙者が立合を致そう。」

といわれたので、浪人は身中に怒りを発し、

「いかに我らを軽蔑せられるとも、この小畜生と立合えとは遺恨千万である。さらば突き殺してくれん。」

と槍をとって庭に下り立つと、猿は頬に合った小さい面をとって打ちかぶり、短い竹刀をおっとって立ち向った。浪人は、この畜生何をと突きかかるを、猿はかいくぐって手もとに入り、丁と重ね打ちをした、浪人いよいよ怒って、今度は入らせるものかと構えている所へ、猿は速かに来て飛びかかり、槍にとりついてしまった。浪人はせん方なく赤面して座に戻った。

宗厳*は笑って、

「それ見られよ、その方の槍の手並、察するところにたがわず……」

と、嘲られたので、浪人は恥じ入ってまかり帰り、久しく但馬守のもとへ来なかったが、半年余りたって又やって来て、宗矩に向かい、「今一度猿と立合をさせていただきたい。」

という。宗厳*それを聞いて、

「いやいや今日は猿を出すまい、その方の工夫が一段上ったと思われる、最早それには及ばぬ。」

といったが、浪人は是非々々と所望した。それではといって猿を出したが、立ち向かうとそのまま猿は竹刀を捨てて、鳴き叫んで逃げてしまった。宗厳*が、

「さればこそ言わぬことではない。」

といってその後、この浪人をある家へ肝煎〔きもい〕りして仕えさせたとのことである。

(撃劍叢談)

http://www.geocities.jp/themusasi2a/kaizan/s102.htmlでは、「宗矩の誤記」とされる。その通りと思われる。ただしここでは、そのままとした。