ステッキ術0 自序

(現代語訳)

私は幼少の頃からすでに竹刀や木刀を振り回し、成長するに従って剣術や柔術を熱心に稽古したので、その道の奥義を究めたというのではないが、武術については一通りの自信を得た。ある時ふと知人から、「洋杖術」というものを知っているか、と問われて、不覚にもはっとした。気にかかり出すと放っておけないのが性分で、それからは日夜、「洋杖術」について独り頭を悩ました。

当時、浅草に金子愛藏先生という剣士がいて、「心形刀流護身杖術」というのを教授していると聞いたので、すぐ訪ねていって会った。先生は私に居合などを抜かせ、「貴殿は出来る」と言って、自己の流儀「心形刀流護身杖術」の型を見せてくれた。そして私はその術を、十日ほどの間に会得してしまった。

その型の主なものは、

一 短刀と杖との試合の型

二 太刀と杖との試合の型

三 洋杖を使って抜剣を打ち落とす型

四 洋杖を使って身体を囲み斬り込みを防ぐ型

五 ピストルの狙撃を避ける型

などだった。もともと自分には武術の素養があったから、こうした型を呑み込むのに少しの苦心もいらなかったが、初心者にとっては、なかなか簡単な業ではない。洋杖の持ち方、突き方の一手にも、難しい点がある。うっかりすると、自分の手をケガしたりする。

そこで忙しい現代の護身術として、簡便で、実用的で、素人にも覚えやすいものをと、そののち色々と工夫に工夫を重ね、かなりの年月にわたって研究した結果、ようやくこれならよしと思えるものを編み出した。

これならズブの素人にも簡単に呑み込めて、わずかの稽古さえ積めばとっさの間にも一本の洋杖で、敵の凶器に対抗しうる、護身術としては現在ちょっと例のない、簡便で実用的なものだろうと自信を得た。

先年獄中にあって、色々と思索にふける機会に恵まれた。あるいは再び、世に出ることは出来ないかも知れない。もしそうなら、何も遺さずこの世を去ることが、あまりにも物足りなく感じたので、せっかく工夫した護身洋杖術でも、後学の者のために残しておきたいと思った。そして洋杖護身術の基本とその応用の手ほどきを、初心者にもわかりやすく説明を加えて書き綴ってみた。

それを愚弟がとりまとめ、一本とする準備をしておいてくれた。当時私がまだ在監中、この研究が一度新聞に報道されると、諸方面よりその出版を懇望されたが、これは私の真の研究でもあり、独創でもあるので、いつか適当な機会が来たら自己出版しようと思って、誰にも出版の許可を与えなかった。

ところが近頃になって、時節柄でもあろうか、諸方から是非刊行したいという希望者が続々現れた。その中でも、郁文書院の松尾君は最も熱心な一人であり、また私と気の合う人物でもあり、かたがたその懇望にほだされて、同君の手で出版してもらうことにした。内容そのものについては、なお満足できないところが多少はあるが、暫時訂正増補して、完全に近いものにすることにしたい。

物情騒然、何となく不安な世相とはなった*。さりとて、まさか防弾チョッキに身を固め、護身用ピストルを携帯**したり、果ては剣柔道何段とかいう、猛者の用心棒を従えて大道を闊歩するということもできないだろう。こうした際に、一面では体の運動になり、また精神の鍛錬ともなり、しかも愛用の洋杖一本で、万一の際身を守ることが出来たなら、こんな結構なことはないだろうと思う。

著者の期待はあまりに大きすぎるが、その幾分なりとも世のため人のためになるなら、著者として悦びに堪えない次第である。

あえて老若の区別無く、洋杖を使うとそうでないとを問わず、たくさんの人に薦めてご批評を仰ぎたい。

満蒙に行ったり来たり、連日目まぐるしいほど忙しい折なので、もし校正に多少でも誤植があったら、ひとえにお許しを頂きたい。

なお奥義については、他日稿を改めて、同書院より出版する予定である***。

昭和七年夏 東京にて 江連力一郎しるす

(注)

*この年昭和7年(1932)の主な出来事。

どれ一つとっても、年に1回起これば「物情騒然」と言える、あるいは二次大戦の予兆として見られる事件ばかりです。騒然、というのが、あながち大げさでないことがわかります。

**敗戦まで、護身用拳銃の携帯は合法でした。当時の新聞広告にも、銃砲店のピストル広告が見られます。 明治37年の新聞広告。(画像出典:http://www.geocities.jp/kyo_oomiya/pono.html

***それが出版されたかどうかは、今日不明です。なお郁文書院は、江連の『獄中日記』の版元でもあります。