上泉伊勢守(3)

永禄六年*、夏秋の頃、上泉伊勢守は伊勢の国司、当時俗に「太〔ふと〕の御所」と呼ばれた北畠具教〔きたばたけとものり〕卿の屋敷に着いた。この具教は、塚原卜伝から「一の太刀」を伝えられた名人であって、その旗下には武芸者雲の如しと言われた。しかしながら一人として、上泉伊勢守の前に立つ者が無かった。そこで北畠卿は、

「これより大和の国へ向うと神戸〔こうど〕の庄小柳生の城主、柳生但馬守宗嚴というものがある。これは諸流の奥義を極めた人だが、中にも神鳥〔かんどり〕新十郎より新当流の奥義を伝えて五畿内一と呼ばれている兵法者である。貴殿の相手に立つもの、この柳生をおいては外にないであろう。」

そこで上泉伊勢守は北畠卿からの紹介を持って、まず南部の宝蔵坊〔ほうぞうぼう〕に向った。この宝蔵坊には、宝蔵院槍術の宗師として天下にかくれなき、覚禅法師胤栄〔かくぜんほうしいんえい〕がいる。この人は柳生但馬守とは別懇の間柄で、但馬守と相談し、素槍に鎌をつけることを工夫発明した人である。「太の御所」よりの紹介をもって上泉伊勢守が柳生と仕合せんが為にやって来たということで、胤栄は急使を馳せて柳生谷へその旨を伝えた。

柳生但馬守時に三十七才、この年の正月二十七日には松永の手に属して多武の峯を攻めて武功を立て、盛んな意気がますますあがる折柄であった。上泉伊勢守来れりとの報を聞いて、欣喜雀躍して奈良に来って伊勢守と立合うことになった。

ところが但馬守、伊勢守と仕合して、一度闘ってまず敗れ再び闘って又敗れた。しかもその敗れ方たるや、前後同一の手を以て同じ樣に勝たれてしまったのである。そこで但馬守が思うには、同じ勝たれたるにしても負けるにしても、同じ手口でこうまで手もなく打ち負けるということは心外至極である。よし今度は彼の手法を見極めんともっぱら一心に工夫し、更に来三日の仕合となった所が、又してももろくも前二度の仕合と同じことに、手もなく破られてしまった。

ここに於て伊勢守に全く帰依欽仰し、節を屈し、回国の途中である所の上泉伊勢守を拝み願って、柳生の居城に招き、それより半年の間教えを受けて、日夜惨憺たる工夫精進を重ねた。

南都の宝蔵院胤栄もまた柳生城にやってきて、共に上泉の門に入って学んだ。当時、上泉のお伴には、その甥と伝えられる所の弟子疋田〔ひきた〕文五郎景兼〔かげかね〕があり、また鈴木意伯もあつたが、その時上泉伊勢守は疋田文五郎に向って、

「お前にはこれから暇をやるによって、諸国を武者修行の上、別に一流を立てるがよろしい。」

といった。疋田は入道して栖雲斎と号し、後年肥後に於て、疋田陰流を立てて後世に残した。

柳生但馬守はかくて半年の間上泉伊勢守について、新陰の奥妙を伝え残すところなきに至った。そこで上泉伊勢守は一旦別れを告げる時に臨んで柳生但馬守にこういうことを言った。

「余は多年研究しているが、無刀にして勝を制するの術に未だ工夫が足らず、その理法を明らかにすることが出来ない。これのみぞ深き恨みである。貴殿はまだお年が若い、将来この道を明かにするものは恐らく天下に貴殿をおいてはその人が無いであろう。どうかこの事を成就して、末代までの誉れを立てていただきたい。ではいづれ、再開の時もござるであろう。」

と暇を告げ再開を約して上泉伊勢守は柳生谷を発足し、中国西国の旅路についた。

柳生但馬守はこれより世に出でざること数年、従来の猛気を悉くなげうって、遂に上泉伊勢守の言い残しを開悟大成した。

永禄八年、再び上泉伊勢守が柳生谷を訪れた時に、但馬守はおのれが開悟成就せる武道の深奥とその妙術を示した。

伊勢守はそれを賛称して曰く、

「今ぞ天下無双の剣である。我れも遂に君に及ばない。」

と、いって、一国一人に限れる印可状を授けて、新陰の正統を柳生に譲り、かつ言った。

「以後は憚りなく、この一流兵法を柳生流と呼ばれるがよろしい。」

ここに天下第一の者に推薦された。時は永禄八年卯月吉日、これぞ柳生流の起元である。

(柳生嚴長氏著「柳生流兵法と道統」)

*1563年。