北恵那鉄道 下付知駅跡
思い出のローカル線 信沢あつし
Create:2019/11/10
Memories of railroad A.Nobusan
思い出のローカル線 信沢あつし
Create:2019/11/10
Memories of railroad A.Nobusan
1978年9月18日に廃止となった北恵那鉄道。何年か夏に下呂温泉に泊まったが、その帰りには下付知駅跡周辺を訪ねた。
1997年の夏、家族で下呂温泉に泊まった帰り、1978年9月18日に廃止となった北恵那鉄道の下付知駅を訪ねた。しかし、下呂は前夜から豪雨だった。朝ホテルを出て朝食をと喫茶店に向かうと、途中の丁字路の交差点の真ん中のアスファルトが直径2mが剥がれ、そこから雨が流れ出ていた。下付知に着くと、クルマから降りられない程の豪雨だった。
翌1998年8月25日、やはり下呂温泉の帰りに下付知に立ち寄る。この年は好天だった。駅舎がまだ残っており、その前に'69 ビートルを止め周囲を歩く。駅舎の裏へと回ると、線路跡はプラットホームと面一に土が盛られ、埋められてはいた。
駅前広場を挟むように南側には貨物ホームと上屋が残っていた。
下付知の駅舎内を窓からのぞくと、鏡があり、その周囲には広告が書かれていた。「みちさくら 三千桜酒造K.K」「吉村美容院」「太田靴店」「貴生堂歯科医院」…。昔懐かしい感じもするが、私の世代よりも、もっと昔の人の時代のもののように見えた。
駅構内の裏側は貯木場になっていた。森林鉄道の臭いがした。
駅前広場、ロータリーの道路沿いはバス停、片隅には日通の事務所を思わせる建物。そして、その奥には製材所。製材所にトロッコがあったのを知っていたのか、知らなかったのか、私の足はそこへと向かうとトロッコの線路が製材所まで延びていた。
製材所の前では、親子であろう2人が軽トラに材木を積み込んでいた。それが一段落したところで話し掛ける。息子さんは配達へ出かける前に、オヤジさんに「この人がトロッコの写真を撮りたいんだったさ」となどと声を掛けて出て行った。
オヤジさんは黙って製材所に入ると、コーっという音とともに、トロッコを押して出てきたのだった。そして、「好きなだけ写真を撮っておくれ。」と製材所に消えたのだった。
そして、私は2010年から鉄道雑誌の「月刊とれいん」に、「線路は続くよ、いつまでも」の連載を始めていた。その追加取材と2012年4月21日に訪れた。オヤジさんはやはり父親で、数年前に引退したとのことで、息子さんと奥さんの二人でやっていた。
そして、再びトロッコを押させてもらった。コーっという音、最初は重たいが、転がりだすと軽く進んでいく感触が、とても懐かしい感じで好きである。
下付知駅舎も、貨物の上屋も無くなっていたが、構内の向こう側の貯木場は健在だった。貯木場の向こう側の一段高い道路が付知森林鉄道の跡である。この一段高いところから土場へと原木を転がして落としていた。
写真を撮影しているところが付知森林鉄道の線路跡である。貯木場の向こうにバスが見えるが、その辺りに北恵那鉄道の貨物ホームがあり、写真右手側に駅舎があった。
最初から、この辺りは怪しいと、二、三度ワーゲンで走っていた。等高線に沿うような形で緩いS字が続き、沿線には製材所が点在していた。
貯木場脇から延びた線路は右の方へと向かい付知川を渡り、渡合温泉の方へと延びていた。2度程そちらに行った。付知川を渡るところには、古い鉄橋が残り、その先へと向かうと、古レールを柱にしたガードレールが続いていた。「ここが森林鉄道跡だろう」と行ったのであるが、'66 VW キャンパーで行った時は、雨上がりで大きな水溜まりがあり、付知峡の観光案内の看板があるところで、あきらめて引き返した。
付知森林鉄道を求めて行った道。細い古レールがガードレールに使われていて、この辺りが森林鉄道跡と確信を持った。2000年8月6日撮影
渡合温泉が目的だったが、道路は大きな穴ぼこだらけ、そこが大きな水溜まりになっていて、それをいくつか越えたところで、挫折して引き返した。2000年8月6日撮影
月刊とれいんの連載「線路は続くよ、どこまでも」で製材所は取り上げているが、ここでは下付知駅周辺にまつわるお話しを書いてみた。
2019/11/10 信沢あつし