廃線跡をバスが走る
昭和53年10月9日 秋田中央交通 八郎潟から五城目へ
思い出のローカル線 信沢あつし
CREATE: 97/04/04 19:35 Update:2019/12/01
Memories of railroad A.Nobusan
思い出のローカル線 信沢あつし
CREATE: 97/04/04 19:35 Update:2019/12/01
Memories of railroad A.Nobusan
津軽鉄道に行った帰り、どこに泊まるか悩んだのだが、秋田県の五城目というところに宿を取った。夕焼けの日本海をボーっと眺めながら、列車に揺られていると、何時の間にか八郎潟の駅に着いた。ここからバスで五城目まで行くのだが、駅舎の側に出たらば、バス停は無く、駅員に理由を言って、反対側へ跨線橋を渡らせてもらう。跨線橋を降りていると、バスはターミナルを出発して行ってしまった。小さな駅ではあるが、駅の裏には、広大なバスターミナルがあった。何時の間にか今度は真っ暗になっているのに気が付いた。10月だと思ったが、とても寒くて、バスの待合所を探すが、あるのは暗闇ばかりでそんな物は見当たらない。
ぐるりと見渡すと、小さな詰め所があって、オレンジ色の明かりが漏れていた。どこで待ったら良いのか、また、次のバスは何時なのか、と思い、詰め所の戸を開ける。やはりバスを待つ乗客は誰もいなくて、乗務員の男のひとが一人いた。
こちらが話をする間もなく、その人は「寒いからストーブにあたっていなさい。」と言ってくれた。小さな詰め所で、二人でストーブをはさんで、話す事は決まっている。「どこから来たんだい。」である。「ほー群馬からかい。」「群馬はバスを買いに何度か行った事があるよ。ほら、富士重工があるだろ。」「スバルはいいね。家の車もレオーネの4輪駆動だ。」「東北は雪が降るからスバルが一番だ。」当時、私は富士重工の隣の会社に勤めていた事もあり、相手の話しは一方的にはずんでいった。
30分ぐらいたったのか、それとも1時間ぐらいたったのか、ターミナルにバスが、1台、2台と入ってきて、乗客が降りると、ひとり、また、ひとりと秋田弁の乗務員が詰め所に入ってきて、全く会話が分からなくなった。さっきのひとが「わからないだろ。」と解説をしてくれるが、そんなことでは追いつかないほど、詰め所の中は秋田弁で充満した。
暖を取って、一服すると今度は、ひとり、また、ひとりとバスに戻っていく。先ほどの人が、このバスが最終だから、五城目に着いたら旅館に送っていってくれると、その人の後について、バスに乗り、運転席の左手、一番前の席に陣取った。
駅に列車が着いたらしく、バスはあっというまに、満員になった。そして、一台づつ出発していく、どのバスも五城目行きで、まるで機械式の気動車が続行運転をするように、一列にバス専用レーン入って行った。
実は八郎潟から五城目までは秋田中央交通の鉄道が走っていた。そこで、鉄道の跡が残っていないかと、ここに来たのである。しかし、鉄道の跡は見事にバス専用レーンと化していた。バスのヘッドライトで照らされる線路跡に目を凝らすが、暗闇が続いて、ホームの跡が残っているのかもさなかではなかった。
終点五城目に到着する。一般の乗客が全て降りてから、バスを降りる。五城目のバスターミナルは見事に駅であった。乗務員に続いて、ホームに上がり、入った建物は、現在は全てが事務所となっていたが完全に外観は駅舎であった。
旅館は、当時良く泊まった駅前旅館といった風情の所であった。バスの乗務員にも聞かれたが、旅館でも「なんでこんな所に来たのか。」と聞かれた。鉄道が好きで、秋田中央交通があった所だからここにした。と言っても、現実には鉄道は廃止になっているのだから、旅館のおばさんも納得できない顔をしていたが、ふいっとこちらを見て、「小学校に電車が置いてあるよ。」と教えてくれた。これで明日の楽しみも出来た。
翌日は朝早く起きて、その小学校を目指した。学校に近づくと小高くなった校庭の片隅に機関車と客車が見えた。色褪せた塗装は、青とピンクで、遊園地の電車を想像させた。今までに見たことのない色の組合わせ、けっして良い組合わせとは言えないが、そんな所が地方のローカル私鉄の味を出していた。
バス停に向かう途中、朝市と出会った。時季でりんごを売る店が多かったが、小さな浅い箱に水を張って、大きな鯉が入って売られていた。八郎潟で取れるとかで、時折、箱の中でバタバタとあばれていた。生きた大きな鯉を買ってかえるわけにもいかないので、りんごを買った。形の悪いものは、1個10円だか20円だった。お店のおばあちゃんに包丁を借りて皮をむき、店先で食べた。朝早く、少し寒かったが何時の間にか、朝市に溶け込み、自然に振る舞える自分がうれしかった。
五城目の旅館では食事は用意してなく、食堂もないと云われていたが、何か食べるために表に出掛けた。食堂らしきものは全く見当たらなかったが、小さなスナックの明かりが点いていた。二十歳前の私には若干の躊躇があったが、入って「お腹が空いているんですけど」と言うと、「焼きそばだったら作れるよ。うちのは美味しいよ」と瓶ビールと焼きそばという素晴らしい夕食となった。ひとりで田舎のスナックに入るという行為は、私にとっては貴重な体験であった。
五城目には森林鉄道跡もあったはずであるが、全く知識はなく、地元の人からも情報を得られなかった。それが今となっては残念である。
秋田中央交通は、戦後の電化後はデワが主力で客車を牽いていたというから、かなりシビレる。保存されていたのは昭和44年廃止時の車両だが、2003年には解体されたらしい。
2019年12月1日 信沢あつし