足尾銅山 本山坑
"ASHIO-HONZAN" Ashio Copper Mine.
CREATE:97/05/15 02:24 Update:2019/11/21
思い出のローカル線 信沢あつし
Memories of railroad A.Nobusan
"ASHIO-HONZAN" Ashio Copper Mine.
CREATE:97/05/15 02:24 Update:2019/11/21
思い出のローカル線 信沢あつし
Memories of railroad A.Nobusan
ドイツ製の日本最古の鉄橋を渡ると、道はそのまま小さな谷に沿って登っていく。
途中、変電所のような施設や、右側に枝わかれする急な上り坂がある。ここには守衛所のようなものがあり、初めて行ったときは入っては行けないところに来てしまったような感じがして、ここで躊躇しそうになった。
更に谷に沿って登ると、開けたところに出る。ここが本山坑だ。坑口は、左手の川を渡った向こう側である。鉄の赤茶けた無骨な鉄門が塞ぎ「立ち入り禁止」になっていた。
渡る手前の左手には、機関庫の様な建物があった。良く見るとやはり建物の中には線路が残っていた。手前の広場は、レールが外され、枕木の一部分が土に埋もれて残っていた。
坑口の反対側、道路の右手には広場があり、その奥には生協が建っていた。右手の山には鳥居をくぐって小道が続いていた。
小道をあがっていくと右手に段段畑のように廃屋が続くが、先ずはじめにあるのは「共同浴場」の大きな建物であった。手前が男湯で奥が女湯。タイルを洗ったであろうモップが落ちていたが、浴槽の中には台が置かれ、そこに畳が載り、その上に一升瓶がころがっていた。
廃坑になってから坑夫達がいつか戻って来て、広い共同浴場に集まり酒を酌み交わし、昔を惜しんだのかもしれない。
その先は住宅が続く。小道に面して出窓があり、足踏みのミシンが覗いていた。そこを通り過ぎると小道は右に折れ、小さな木造の橋となる。初めて行ったときは、もう誰も渡っていないのではないかと思わせるほど朽ち果てた橋であったが何時の間にか、やはり木造ではあるが新しい橋にかけかわっていた。
しばらく行くと、今通ってきた道や廃屋を見下ろせるほどの高さになる。そして広場に出る。野球が出来そうなほどの広場である。この左手に何段かの階段を上がると「山神社」だ。ここからは坑口の方まで見渡せた。
生協の裏手にも廃屋が続いていた。谷に沿って段段畑のように並ぶ廃屋は、多くは屋根が落ちていたが、夏目漱石の「坑夫」の情景そのものであった。
"かねをジャンジャン鳴らしながら、行列が行く。すると坑夫たちは「ジャンボーだ、ジャンボーだ。」と言いながら、窓際に集まり、窓から行列を見下ろす。…"(夏目漱石「坑夫」より)そんな光景は、十分に想像できた。
「おじゃんになる。」などというが、このジャンジャンという葬式の行列のかねの音が語源なのだろうか。前橋でも昔は、お葬式の行列の事を「おジャンボー」といったようだ。
道に沿った家の中には商店もあった。磨き込まれて黒くなったのであろうテーブルが置かれ、上にはどんぶりが置いてあった。その奥には、昔の女優の写真、たばこのポスターであった。
廃屋の中の一件に入ると、家具などは殆ど残っていなかったが、障子やふすまは残っていた。ある住宅は部屋の真ん中にふすまが倒れており、新聞紙や雑誌でつぎはぎが全面にされていた。女優の写真が大半を占めるが、バイク等の写真も貼られていた。
初めて行ったときである。この廃屋に囲まれた中で、もよおしてきてしまった。誰も住んでいない、誰も居ないはずなのであるが、誰かに見られているような感じがして廃屋のトイレでやろうかと思ったが、気が付くと傾いた家のトイレの戸をどうにかこじ開けようとしていた。やっとの思いで開け中に入ったが、崩れ落ちた天井や壁で、居場所も無く、更に恐怖感が湧いてきてしまった。結局、堂々と表でしたのだが、時折、風なのだろう、戸の開け閉めする音が聞こえてきて恐かった。
その後すぐに、この辺一帯が宅地として売り出された事を知った。何度か行っている内に、廃屋は屋根が落ち、そして廃材は少しずつ撤去されていた。最近は行っていないがどうなっているのだろうか。もしかしたら全て更地になっているのではないだろうか。
昭和53年。足尾本山の掲揚台に向かう若かりし日の信沢あつし。
その先には山神社が見える。
今は殆ど全ての建物が崩れ落ち、片付けられ、自然の山に還りつつある。
2019/11/21 信沢あつし